1月16日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

禁酒の日。
1920(大正9)年1月16日にアメリカ合衆国で、アメリカ合衆国憲法修正第18条(国家禁酒法)が施行された。ピューリタン(清教徒と呼ばれる、キリスト教のプロテスタント[新教]の一派)の影響が強かったアメリカ合衆国では、アルコールに対する強い批判があり、1851(嘉永4)年にアメリカ合衆国東北部のメイン州で、最初の禁酒法が制定されたのを皮切りに、20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施された。宗教的理由に加え、男性が(不健全な)酒場に入り浸り、家庭生活に支障をきたすことに対する女性からの批判は大きく、女性を中心とする禁酒運動は根強かった。そこに第一次世界大戦の開戦に伴ない、戦時の穀物不足を予防するという経済的な動機が出現し、全国的な禁酒法制定への機運が盛上がった。なお、そこには酒造・酒販業界を牛耳るドイツ系アメリカ人への反発感情もあったと見る向きもある。禁酒法を全米に適用するには、アメリカ合衆国憲法の修正が必要となるため、修正案が連邦議会に提出された。修正第18条は、1917(大正6)年12月18日に連邦議会を通過した。アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンは、アルコール度2.75%以下の酒類の除外を議会に働き掛けたが失敗した。1919(大正8)年1月16日に4分の3の州(当時36州)による批准が完了し、憲法修正条項が成立したが、既に、この時点で禁酒法導入の名分の1つとされた第一次世界大戦は終結していた。しかし、憲法修正を受け、連邦議会はボルステッド法(修正条項を実施するための法律)を制定し、翌1920(大正9)年からアメリカ合衆国全土で施行された。ボルステッド法とは、正式には国家禁酒法と称するもので、制定時の連邦議会下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドに因んでボルステッド法と呼ばれるようになった。禁酒法では、飲料用アルコールの製造・販売・運搬等が禁止されたが、自宅内における飲酒は禁止されなかったので、多くの富裕層は施行前に酒を大量に買い溜めしていた。実際にはザル法(抜け穴が多いために規制の目的を達することができない不備な法律を指す俗語)であり、うまく機能しなかったと言われている。飲酒禁止によって犯罪を抑止しようとしたが、逆に酒を巡る犯罪が増加したためである。禁酒法は、隣国カナダからの輸送を取締らなかった。カナダ国内で合法的に販売された酒類は爆発的に売れ、アメリカへと持込まれたことから、カナダ経済は非常に潤うという結果を生んだ。禁酒法の執行官の待遇は悪く、薄給で特別な資格も持たなかったため、密造・密売業者やそれを纏めるギャング達(密造酒製造・販売、売春業、賭博業等で組織を拡大し、犯罪組織を統合近代化していったことで知られているアル・カポネがその代表的な存在とされた)に容易に買収された。政府等の公的機関の許可を得ないで製造されたアルコール飲料、密造酒による健康問題や、密売に関わるギャングやマフィア(イタリア西南部のシチリア島を起源とする組織犯罪集団)同士の抗争による治安の悪化も問題となった。禁酒法は、不健全な酒場を廃止することが目的の1つであったにも係わらず、より不健全な非合法酒場が横行した。1929(昭和4)年に、アメリカ合衆国で株価が大暴落ことがきっかけとなって起きた世界恐慌(ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象)で景気が後退すると、財政難の中、密売酒や密造酒が課税されないことが大きくクローズアップされるようになった。なお、医療目的と称して薬局を通すと、ウイスキーを手に入れることができたという。後の1933(昭和8)年、アメリカ合衆国憲法修正第21条の批准によって廃止されたが、アメリカ合衆国第31代大統領ハーバート・フーヴァーが「高貴な実験」と呼んだ禁酒法は、悪法の代名詞として後世に記憶された。因みに、禁酒法が施行されていた期間は、約13年10ヶ月であった。それでもアメリカ合衆国では、現在でも、18州が酒類の販売を州営の店舗等、特定店舗のみに規制している。また、酒類販売を全面的に禁止したり、様々な制約を設けている禁酒郡(ドライ・カウンティ) も、南部、及び中西部を中心に多数存在する。なお、禁酒法制定から約10年後、マフィアによる酒の密輸に対する対応を迫られていたアメリカ合衆国第30代大統領カルビン・クーリッジは、外国船舶に対する臨検(外国の船舶等の載貨を捕獲するために、その船舶備付書類を検査すること)・拿捕(軍艦等が一定の外国船舶を支配下に置くこと)・逮捕権、管轄権(国家が、その国内法を一定の範囲内にある人、物等に対して、具体的に適用し行使する権利)、賠償請求権等、酒類輸送の取締に係る主権を行使するため、通商関係のある国に対し、2ヶ国間条約の締結を進めた。アメリカ合衆国国務省(アメリカ合衆国政府において、外交政策を実施する行政機関であり、他国の外務省に相当する)が大日本帝国に求めた「日本國亜米利加合衆國間酒類輸送取締ニ關スル條約」は、日本側にとって無害通航権(沿岸国の平和・秩序・安全を害さないことを条件として、沿岸国に事前に通告をすることなく沿岸国の領海を他国船舶が通航することが、無害通航であり、内陸国を含め、全ての国の船舶は、他国の領海において無害通航権を有する)を一方的に縮小させられる不平等条約であったが、当時の田中義一内閣は条約締結を受入れ、1928(昭和3)年、条約に署名し、翌1929(昭和4)年に批准した。この条約は、1933(昭和8)年アメリカ合衆国憲法修正第21条の廃止により外交意義を失ったが、禁酒州や禁酒郡が存在すること等を背景として、条約は存置運用された。第二次世界大戦後の1952(昭和27)年からの第4次吉田内閣と、1953(昭和28)年からの第5次吉田内閣(いずれも、「ワンマン宰相」等と呼ばれたが、優れた政治感覚と強いリーダーシップで、第二次世界大戦後の混乱期にあった日本を盛立て、第二次世界大戦後日本の礎を築いた吉田茂が内閣総理大臣に任命されて組閣した内閣)は、連合国占領統治下で改廃されなかった、法令の存続確定手続きを実施した。この過程で、1953(昭和28)年7月22日、日本国における「日米間酒類密輸取締条約」の存続は確定した。条約は、現在も効力を有する現行法令である。禁酒令自体は古代からあり、最古のものは、紀元前2200年頃の古代中国の夏王朝の創始者、禹王によるものと伝えられている。紀元前1100年頃の古代エジプトのものが、記録に残っている最古の禁酒令とされ、古代ギリシャや古代ローマでも発令されている。20世紀初頭頃の、北ヨーロッパ諸国、及び北アメリカでの強力な禁酒運動は、プロテスタント(新教)のアルコールへの警戒心に由来するものであった。デンマーク以外の北ヨーロッパ諸国では、長い禁酒の伝統があり、今日でも、デンマークを除く北ヨーロッパ諸国は、アルコールの販売を厳しくコントロールしている。イスラム教(イスラーム)国の中には、イスラム教(イスラーム)の聖典、クルアーン(コーラン)の教えに背くとして、アルコールを禁じている国がある。中東・西アジアのアラビア半島に位置するサウジアラビアやクウェート等は、完全にアルコール飲料の生産・輸入・消費を禁止しており、厳格な禁酒国となっている。アフリカ北東部に位置するエジプトや、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有するトルコといった、他のアラブ諸国やムスリム(イスラム教[イスラーム]の教徒)主体の諸国では、禁酒令は敷かれておらず、生産も消費も、一定の条件付きながら合法である。日本でも、646(大化2)年に最初の禁酒令が発令され、その後何度も、禁酒令の発令や酒造の制限が行なわれた。1922(大正11)年、「未成年者飲酒禁止法(大正11年3月30日法律20号)」が公布された。「未成年者飲酒禁止法」は、満20歳未満の者の飲酒の禁止に関する法律で、未成年者の飲酒は、喫煙と並んで青少年の非行の温床になるという懸念等を背景に、その取締りを強化するため、後に数次に亘って改正されるが、現在も有効な法律である。2018(平成30)年6月13日、「民法(明治29年4月27日法律第89号)」の成年年齢を20歳から18歳に引下げること等を内容とする「民法」改正が成立し、「民法の一部を改正する法律(平成30年6月20日法律第59号)」として公布されたことにより、「未成年者飲酒禁止法」も「二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律」と改題され、対象も第1条第2項と第3条第2項を除き、全て「満二十年ニ至ラザル者」から「二十歳未満ノ者」に改正された。