1月15日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0069年 - 四皇帝の年(ローマ帝国皇帝として、4人が次々と擁立された年): ローマ帝国第5代皇帝ネロ(ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス)の第一の親友であったオト(マルクス・サルウィウス・オト)が、ローマ帝国皇帝ガルバ(セルウィウス・スルピキウス・ガルバ)と、その養子のピソ(ルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌス[人格者として知られ、セルウィウス・スルピキウス・ガルバは、自らの後継者として公表していた])を暗殺し、自ら皇帝に即位する。しかし、セルウィウス・スルピキウス・ガルバの治世末期に、ゲルマニア(概ねライン川の東、ドナウ川の北の地域で、現在のドイツ、ポーランド、チェコ、スロバキア、デンマークとほぼ重なる一帯)で叛乱したウィテッリウス(アウルス・ウィテッリウス・ゲルマニクス)はこれを認めず、なお兵を挙げてローマに迫る。マルクス・サルウィウス・オトは、ドナウ川付近に駐留していた軍団を呼戻すことを図る等、アウルス・ウィテッリウス・ゲルマニクスに対抗を図ったものの、アウルス・ウィテッリウス・ゲルマニクスはクレモナ(現在のイタリア北西部に所在し、この時代には、北イタリア最大の町の1つとなっていた)近くで、マルクス・サルウィウス・オトの軍を破る。まだ挽回の機会はあったものの、敗戦の報を受けたマルクス・サルウィウス・オトは4月15日に自殺し、僅か3ヶ月という短い治世を終えている。 
1181年 - 南都焼討。武士としては初めて太政大臣に任ぜられ、政治の実権を握っていた平清盛の五男、平重衡らの大軍が、畿内(現在の奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に当たる、京[現在の京都]に近い国々、山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制国[律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分]5ヶ国を指す呼称)最大の反平氏勢力となっていた興福寺の脅威を排除するため、興福寺や東大寺等の南都(現在の奈良市中心部)を焼払う。これにより、平清盛は「仏敵」の汚名を着ることとなる。南都焼討により、奈良の主要部を巻込む大火災が発生し、興福寺や東大寺等の有力な寺院が焼落ち、多数の僧侶や避難していた住民等、数千名が焼死したという。武家政権の性格を持つ平氏政権を確立した平清盛は、大和国(現在の奈良県)を自身の知行国(有力貴族・寺社・武家が、特定の令制国[律令制に基づいて設置された地方行政区分]の知行権[国務権、吏務ともいう]を獲得し、収益を得た制度、及び、その令制国)とし、南都寺院が保持していた旧来の特権を無視し、大和全域において検断(警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務)を行なう。これに対して、南都寺院側は強く反発し、特に、第45代天皇、聖武天皇の発願によって建立され、以後鎮護国家体制の象徴的存在として、歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、皇室と姻戚関係を結んで、摂関政治(天皇の外戚[天皇の母親、又は妃の一族]として、政治の実権を代々独占し続けた政治形態)を行なっていた藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また、大衆と呼ばれる僧侶集団が元来、自衛を目的として結成していた、僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗しており、やがて、諸国の源氏とも連携し、反平氏活動に動き始める。現在の滋賀県大津市園城寺町に所在する園城寺(一般には「三井寺」として知られる)は、第80代天皇、高倉天皇の兄宮である以仁王と、源氏の長老であった源頼政が、打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件、以仁王の乱が鎮圧された後、以仁王の乱に関わったとして処分を受け、さらに、興福寺の大衆と共に、平氏軍と戦った近江源氏の軍に加勢する。その将才は「武勇の器量に堪ふる」と評された平重衡は、園城寺を攻撃して焼払い、次の矛先を興福寺へ向ける。平氏の軍勢は、興福寺の大衆と激戦を繰広げ、僧坊等に火を放つ。それが、折からの強風に煽られて大火災を招くが、興福寺や、東大寺の大仏殿までも焼払うような大規模な延焼は、平重衡達の予想を上回るものであった、と考えられる。寺の主要建築物の殆どが焼失した興福寺は、所領を悉く没収された上、寺院の再建も認められなかったが、親平氏政権派の高倉上皇(平清盛の孫に当たる第81代天皇、安徳天皇に譲位して、上皇[譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号]となっていた)が崩御し、続いて、平清盛も謎の高熱を発して死去して、人々は、これを南都焼討の仏罰と噂する。また、東国の源頼朝の動きも不穏、との情報が入って来たために、平清盛に代わって政権を継承した平宗盛(平清盛の三男)は、興福寺への処分を全て撤回している。興福寺は、南都焼討から約30年以上を経て、凡その復興事業を終える。そして、一国平均役(朝廷の認可の下、一国単位において、原則として荘園・公領を論ぜず、臨時に賦課された租税・課役)として、大和国内全体における人夫の徴発や棟別銭の徴収、それに従わない者を処罰するための検断権が、朝廷や鎌倉幕府から認められるようになり、興福寺はこれらの権限を根拠として、大衆や組織化されて国民(国内の武士を、自寺の衆徒として組入れたもの)と呼ばれた在地武士らによる実力行使により、大和国内における支配を強め、鎌倉時代を通じて正式な守護が置かれなかった、大和国の実質的な守護ともいうべき地位を確立することになる。
1493年 - イタリア出身(定説)の航海者・探検家、クリストファー・コロンブスが、スペインへ向けイスパニョーラ島(南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海[メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域]洋上の大アンティル諸島に属する島)を出航する(コロンブスの最初の航海)。 
1559年 - イングランド女王エリザベス1世が、ウェストミンスター寺院(現在のイギリスの首都ロンドンに所在)で戴冠(国王が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位への就任を宣明する儀式を行なうこと)。 
1759年 - 現在のイギリスの首都ロンドンに所在する世界最大の博物館の1つ、大英博物館が一般向けに開館する。大英博物館は、古今東西の美術品や書籍や略奪品等、約800万点が収蔵されている(その内、常設展示されているのは約15万点)。収蔵品は、美術品や書籍の他に、考古学的な遺物・標本・硬貨やオルゴール等の工芸品、世界各地の民族誌資料等、多岐に亘り、常設展示だけでも1日で全てを見ることはほぼ不可能であるが、イギリスの他の国立博物館と同様、貸出し展示を除き、入場料は無料となっている。来館者の半数以上が外国人観光客と言われている。 
1777年 - ニューコネチカット共和国(バーモント共和国、現在はアメリカ合衆国の14番目の州、バーモント州)建国。 
1873年 - 八代県を白川県に併合。白川県は1876年に熊本県と改名し、現在の熊本県の県域が確定する。 
1873年 - 日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令、「学制(明治5年8月2日太政官第214号)」に基づいた日本で最初の小学校、東京師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)が設立される。 
1874年 - 初代警視総監(大警視)を任ぜられた薩摩国/大隅国薩摩藩出身の警察官僚(後に陸軍軍人も兼任)川路利良が、警視庁(「東京警視庁」とも呼ばれた、現在の警視庁の前身となる組織)を創設。 
1890年 - ロシアの作曲家、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーのバレエ『眠れる森の美女』が、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク(ロシア西部の都市で、1917年までロシア帝国の首都であったが、外国からの干渉を恐れ、首都はより国境から遠いモスクワに移転されている)にあるオペラとバレエ専用の劇場「マリインスキー劇場」で初演される。この初演は好意的な評価を受け、『眠れる森の美女』は、クラシック・バレエ(フランス人振付家マリウス・プティパが、19世紀末にロシアで確立した様式)作品の最も有名なものの1つに数えられるようになる。