1月14日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1526年 - イタリア戦争: ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った戦争で、神聖ローマ皇帝カール5世と、捕虜となったフランス王フランソワ1世が、マドリード条約(フランスが領土を放棄することを約した条約)を締結する。 
1724年 - スペイン王フェリペ5世が譲位。しかし、後継の長男、ルイス1世が天然痘(非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる感染症)で急死したため、同年中にフェリペ5世は復位する。 
1814年 - スウェーデンとデンマークの間でキール条約が締結され、スウェーデンとノルウェーの同君連合が成立する契機となる。 
1858年 - イタリアの貴族階級出身で、急進的な立憲自由主義(憲法に立脚する自由主義)を掲げる秘密結社(結社の存在そのものが構成員により秘匿される、又は、結社の存在は公になっていても、その構成員であることが、組織や構成員自身の許諾によらないで、第三者等により公開されることが禁じられている組織、或いは、結社の活動目的や活動内容を、構成員以外の第三者等に公開することが禁じられている組織等のこと)カルボナリの活動家、フェリーチェ・オルシーニを主犯とした、フランス第二帝政皇帝ナポレオン3世(ルイ・ナポレオン)の暗殺未遂事件が発生する。フェリーチェ・オルシーニは、かつては仲間であったナポレオン3世が、フランス皇帝に即位してからは、イタリア問題に冷淡であることに義憤を感じ、暗殺することで世間に訴えようとする。4名の同志と共に計画したが、1名は決行直前に逮捕されたため、3名で、フランスの首都パリにある歌劇場、オペラ座(オペラ・ガルニエ)正面に止まろうとした皇帝ナポレオン3世夫妻の馬車に3発の爆弾を投込む。衝撃でガス燈は消え、辺りは真っ暗になり、民衆はパニックに陥る。皇帝ナポレオン3世夫妻は軽傷であったが、死者18名、負傷者150名を出す大惨事となる。翌日、一味は全員逮捕され、フェリーチェ・オルシーニは、投獄されると獄中で考えを改め、皇帝ナポレオン3世こそはイタリアの救世主、と主張するようになる。裁判が始まると、毅然とした態度をとり、皇帝ナポレオン3世にイタリア統一への協力を訴える。フェリーチェ・オルシーニらは世間の同情を集め、皇帝皇帝ナポレオン3世夫妻からも助命嘆願されたが、3月13日には、全員断頭台により処刑される。しかし、この一件により、フランスは積極的な姿勢を示し、イタリア統一に協力するようになる。  
1874年 - 喰違の変。公家の出身で、明治政府の首脳となっていた岩倉具視が、東京の赤坂喰違坂(現在の東京都港区に所在)で不平士族9名に襲撃される。岩倉具視は軽傷を負うが、一命を取留める。岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に日本から派遣された大使節団、岩倉使節団の外遊中には、留守政府を主導した参議(集団制の政府首班)の西郷隆盛や板垣退助らが、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張、征韓論を巡る論争に敗れ、下野したことは、征韓論に期するところのあった不平士族らにとって、一層の不満を高めることとなる。とりわけ、急病により一線を退いた太政大臣(天皇の親臨を前提に、天皇を直接補佐する政府の最高機関、正院の長官)三条実美に代わって、論争を主導した、右大臣(実質的な行政責任者)で、太政大臣代理となった岩倉具視や、初代内務卿(明治時代の太政官[最高行政機関]制における事実上の首相)大久保利通に対する恨みは次第に増幅されてゆく。西郷隆盛や板垣退助に従って職を辞した元官僚・軍人の9名は、岩倉具視の乗った馬車を襲うが、皇居の四ッ谷濠へ転落した岩倉具視を見失う。その後は逃走するも、事件の3日後の1月17日には、9名全員が逮捕され、斬罪(罪人の首を刀で切落とす刑罰)の判決を受け、処刑されている。
1881年 - 内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)警視局を改組して、警視庁を再設置。東京以外の府県警察部は、知事が管轄していたが、東京に関しては、内務省が直接統制下に置く。1877年の西南戦争(明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模の反乱で、現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、明治維新の元勲の1人、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱)終戦後に国内の治安が安定すると、武断的な警察に批判が高まり、警視庁が再設置され、本来の警察業務に戻る。なお、内務省警視局は、警保局に改称され、警察部門を所管した内部部局(行政機関において、府・省・庁・委員会の中に置かれる組織の細目の1つで、府省庁内の本体部分を構成する組織をいう)となる。内務省警保局は、第二次世界大戦終戦後の1947年に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって内務省が解体・廃止されるまで、地方局と並んで強大な権力を握っており、警保局長は、警視庁の長である警視総監や、内務次官(内務省の長、内務大臣の下に位置する官僚機構の最高位)と並んで内務省三役と言われ、退官後は、約半数が貴族院の勅選議員となっている。他の有力省庁、大蔵省(現在の財務省と、内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織]で、金融に関する制度の企画立案、金融機関の検査、監督、監視を担当する中央行政機関、金融庁の一部の前身)、外務省等では、このようなことは滅多になかった、とされる。  
1900年 - イタリアの作曲家、ジャコモ・プッチーニのオペラ『トスカ』が、イタリアの首都ローマで初演。『トスカ』はその見せ場の多さから、オペラ史における重要な作品と見做されている。 
1903年 - 宗教家の大谷光瑞率いる大谷探検隊が、インド北東部ビハール州ラージギル郊外で仏教の開祖、釈迦が住んでいたとされる霊鷲山を発見する。 
1914年 - 澤柳事件(京大事件): 京都帝国大学(現在の京都大学の前身)で、澤柳政太郎総長の人事に反発して、京都帝国大学法科大学(現在の京都大学法学部の前身)の教授全員が辞表を提出する。文教行政を担う日本の行政機関として設置されていた文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)の任命で、就任してから約2ヶ月の澤柳政太郎総長は、教学の刷新を標榜し、7名の教授に辞表を提出させる。罷免された7名の教授の中には、以前から学内自治を主張していた谷本富(京都帝国大学文科大学[現在の京都大学文学部の前身]教授)が含まれていたこともあり、京都帝国大学法科大学の教授や助教授達は、仁保亀松学長(現在の学部長)を中心に結束し、教授の人事権は教授会(教授等による合議制の組織)にありと主張する。これに対し、澤柳政太郎総長は、教授の地位を保つのは、その実であって制度的保障はなく、また、現行制度においても、教授の任免に教授会の同意は必要ではないと反論する。澤柳政太郎総長と法科大学側の対立は激化し、1914年1月になって、法科教授と助教授は、抗議の連帯辞職を敢行する。法科学生や東京帝国大学(現在の東京大学の前身)法科の首脳も法科大学側を支持する。1月23日、文部大臣(文部省[現在の文部科学省の前身の1つ]の長)の奥田義人は、「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と、法科大学側の主張を認め、これを受けて教官は辞職を撤回する。同年4月、進退窮まった澤柳政太郎総長は辞職することとなる。教官の人事権を、事実上教授会が掌握するという慣行を、文部大臣が承認したことで、大学自治は大きく前進する。また、京都帝国大学では、澤柳政太郎総長辞任の約1年後、荒木寅三郎医学部教授を総長として選出し、これ以降は、総長の学内選出が確立する。澤柳事件の経緯と結末により、「大学自治の本山」と見做された京都帝国大学は、1930年代以降、第二次世界大戦の戦時体制の下で、大学への統制を進めようとする勢力からは敵視されるようになり、教授会自治への攻撃に繋がった、とする見解もある。