1月14日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

タロとジロの日、愛と希望と勇気の日。
1959(昭和34)年1月14日、南極観測船『宗谷』で第3次越冬隊の一行が昭和基地に着いた時、その前年、第1次南極観測隊の第1次越冬隊が心ならずも置去りにした樺太犬、「タロ」と「ジロ」が生きていることを発見した。この2頭の犬の勇気を称え、生きることへの希望と愛することの大切さを忘れないために制定された日で、「愛と希望と勇気の日」とも呼ばれる。南極観測船『宗谷』は、日本海軍では特務艦、海上保安庁では灯台補給船、巡視船として服務した。日本における初代南極観測船にして、現存する最も古い巡視船でもあり、さらに現存する数少ない(見方によっては唯一の)旧帝国海軍艦船である。現在でも船籍を有しており、「船舶法(明治32年3月8日法律第46号)」の適用対象で、必要であれば舫(もやい)を解いて航行でき、現在も月に1日程度、海上保安庁特殊救難隊の訓練施設として使用されている。船名は、北海道北部の宗谷岬と樺太の間にある宗谷海峡に因んで名付けられた。1957(昭和32)年7月1日から1958(昭和33)年12月31日に開催される国際地球観測年(IGY)に合わせ、日本は南極観測を行なうことにして、1955(昭和30)年7月に開催された第1回南極会議に文書で、南極観測参加の意志を伝えた。それに伴ない、南極観測を行なうこととなり、砕氷船が必要となった。鉄道省(国鉄[日本国有鉄道]、現在のJRグループの前身)が稚泊連絡船(北海道の稚内と当時日本施政下であった樺太[オホーツク海の南西部にある、現在のロシア連邦サハリン州の島]の大泊の間で運航されていた航路)で使用していた貨客船『宗谷丸』等の候補が選定され、砕氷能力や船体のキャパシティは『宗谷丸』の方が勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(第二次世界大戦時に魚雷を被弾するも不発弾等)、船齢等の結果、『宗谷』が選定された。一般的に、南極観測船として知られる『宗谷』であるが、海上保安庁での扱いは大型巡視船となっている。改造により、1mの砕氷能力を得た他、復原能力の大幅強化や航続距離の大幅増加、宇宙線観測室新設、居住区換装、舵の換装、ヘリコプター発着飛行甲板新設、ヘリコプター格納庫の新設等が施され、ソナーや音響測探儀も最新の物に再装備された。当時はまだ、護衛艦等でもヘリコプターの搭載例は無く、第二次世界大戦後日本の艦船としては、最初の本格的な回転翼機搭載を実現した。1956(昭和31)年11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾から南極観測船「宗谷」で南極へ出発した。昭和基地に到着すると、病気等でそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬達は、1957(昭和32)年の第1次越冬隊において、犬ぞり牽き等に使役された。1958(昭和33)年2月、『宗谷』は南極付近に到着したが、天候の悪化から『宗谷』は昭和基地には辿り着けなかった。昭和基地から帰還する第1次隊員の人間達でさえ、小型雪上機「昭和号」で辛うじて『宗谷』に帰還する有様であり、15頭の犬達は、犬ぞりに首輪で昭和基地付近に繋がれたままにされた。その後も、ぎりぎりまで天候の回復を待ったものの、『宗谷』自体が遭難する危険性も出てくるに至り、第2次越冬隊の派遣は断念された。それと共に、15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視されていた。1959(昭和34)年1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、個体の判別が付かなかった。急遽、超高層物理担当として参加しており、第1次越冬隊で犬係であった自然科学者の北村泰一が、次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村泰一に対しても警戒していたが、北村泰一は2頭の中の1頭の前足の先が白いのを認め、「ジロ」ではないかと考え、名前を呼んだところ、反応して尻尾を振った。もう1頭も「タロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認された。基地には、7頭の犬が首輪に繫がれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や、死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろう、と北村泰一は推測している。北村泰一らは第3次隊越冬の際、「タロ」と「ジロ」が2頭でアザラシに襲い掛かる所や食料を貯蔵する所を目撃している。この兄弟は、特に首輪抜けが得意な個体であったと言われる。樺太犬は、樺太、及び千島列島で作出された犬種で、アイヌ(東北・北海道・樺太・千島列島、及びロシア・カムチャツカ半島南部に跨る地域の先住民族))やニブフ(樺太中部以北、及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族)等の北方の民族が、犬ぞり牽きや猟犬に使っていた犬種である。1910(明治43)年から1912(明治45)年の陸軍軍人、白瀬矗を隊長とする南極探検隊に同行し、犬ぞり用の犬として活躍し、第二次世界大戦後の南極地域観測隊第1次越冬隊でも、犬ぞり用の犬として採用されたことでも有名となっている。北海道では、1965(昭和40)年頃まで、車や機械に取って替わられるまで、漁業、木材の運搬、電報配達、行商等に使役犬として働いていた。車社会の到来と共に、使役犬として必要のなくなった樺太犬は、1970(昭和45)年頃にはほぼ絶滅してしまった。「タロ」と「ジロ」の生還は、日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭を称える歌「タロー・ジローのカラフト犬」(しばざきそうすけ作詞、豊田稔作曲)までもが作られた程である。さらに、当時開業したばかりの東京タワーに、15頭の樺太犬記念像(製作者・安藤士[忠犬ハチ公像の彫刻家])が設置された。この記念像は、2013(平成25)年に国立極地研究所(立川市)へ移転されている。1956(昭和31)年、北海道稚内市にある稚内公園で、第1次南極観測隊に参加する樺太犬の訓練が実施されたことから、1961(昭和36)年から稚内公園の供養塔前で、南極観測隊で活躍した樺太犬の慰霊祭が執り行なわれている。1983(昭和58)年、「タロ」と「ジロ」の生存劇を描いた映画『南極物語』が制作され、その翌年に公開されて、当時の日本映画の興行成績新記録となる空前の大ヒット作品となった。さらに、2006(平成18)年)には、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州に本社を置くエンターテインメント会社、ウォルト・ディズニー・カンパニーによって、この話を元に設定を変えた『Eight Below(邦題:南極物語)』が製作された。「タロ」と「ジロ」は、1956(昭和31)年1月、北海道稚内市で、風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟であった。名前は、当時南極観測隊用に樺太犬を集めていた、動物学者で北海道大学の犬飼哲夫教授によって名付けられた。この名前は、白瀬矗の南極探検の際、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(「タロウとジロウ」、或いは「タローとジロー」とも)に因む。同じ1956(昭和31)年、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定される。当時の北海道には約1,000頭の樺太犬がいたが、この内で犬ぞりに適した犬は、40頭から50頭程度に過ぎなかった。この中から、3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で訓練が行なわれた。なお、サブロは訓練中に病死している。奇跡の生還を果たしたタロは、第4次越冬隊と共に、1961(昭和36)年5月4日、約4年半振りに日本に帰国する。1961(昭和36)年から1970(昭和45)年まで、北海道札幌市の北海道大学植物園で飼育され、1970(昭和45)年8月11日に老衰のため、14歳7ヶ月で没する。人間で言えば、約80歳から約90歳という、天寿を全うしての大往生であった。死後は、同園で剥製として展示されている。また、タロの血を引く子孫の犬が、日本各地に散らばっている。ジロは、第4次越冬中の1960(昭和35)年7月9日に昭和基地で、5歳で病死した。ジロの剥製は、東京都台東区上野公園の国立科学博物館に置かれている。「タロ」と「ジロ」を発見したS58型ヘリコプター1号機は、1973(昭和48)年に退役後、南極観測時代の塗装に戻し、1974(昭和48)年から1998(平成10)年まで、国立科学博物館にジロと共に保存されていたが、1999(平成11)年から茨城県つくば市の保存庫に移った。同じく、「タロ」と「ジロ」を発見した2号機は1966(昭和41)年3月5日、全日空羽田沖墜落事故の遺体捜索中、海に墜落し失われた。この事故で亡くなった3名の中の1名、里野光五郎機長は、「タロ」と「ジロ」を発見した時のパイロットであった。