1月5日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

新年宴会。
新年宴会は、1874(明治7)年から1948(昭和23)年まで行なわれていた、宮中において新年の到来を祝う宴会で、奈良時代から宮中で行なわれていた、古来の正月行事の1つである元日節会に由来する。朝廷でも重要な儀式の1つとされ、応仁の乱(1467[応仁年元]年からの約11年間に亘り、足利将軍家を始めとする幕府勢力が京都を中心に争った内乱)の開始から1490(延徳2)年に再興されるまでの約30年間中断された他は、明治維新まで継続して行なわれた。元日には、宮中で様々な行事が行なわれることから、1872(明治5)年から1月5日に移され、「新年宴会」という名称とした。皇族の他、大臣や高級官僚、軍人等の親任官(明治憲法下の官僚制度での最高の位置付けの官吏[官公庁や軍等の国家機関に勤務する者])、外国の公大使等が宮中に招かれ、新年の祝賀として盛大に宴会が行なわれた。1872(明治5)年から1874(明治7)年までは1月5日と1月6日の2日に亘っていたが、1875(明治8)年から1月5日のみになった。その後は、事変(非常事態や騒乱)の勃発により中止される年もあった。また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年10月14日太政官布告第344号)」や「休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)」により、1月5日は1874(明治7)年から1948(昭和23)年まで同名の祝祭日(国家の定める休日の総称)であった。現在、元日に宮中で執り行なわれる『新年祝賀の儀』は、この新年宴会の流れを受継いだものである。
囲碁の日。
東京都千代田区五番町に本部を置く、囲碁の棋士を統括し、棋戦を行なっていくための公益財団法人、日本棋院が、囲碁の普及を進めるために提唱した。日付は、1月5日の「1」と「5」で、「囲碁(い[1]ご[5])」の語呂合わせから。囲碁は、2名で行なうボードゲーム(盤上ゲーム)の一種で、交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に、「碁」とも呼ばれる。ゲームの目的は、自分の色の石によって、盤面のより広い領域(地)を確保する(囲う)ことである。発祥は中国と考えられ、少なくとも2,000年以上前から、東アジアを中心に親しまれてきた。日本でも、平安時代から広く親しまれ、戦国期には武将の嗜みともなり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元(家伝として承継している家系)四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引続き広く親しまれ、近年ではインターネットを経由して対戦するネット碁も盛んである。1999(平成11)年頃には、漫画『ヒカルの碁』の影響で、若年層にも囲碁ブームが生まれた。漫画家・漫画原作者のほったゆみ(原作)と、漫画家・イラストレーターの小畑健(漫画)による、囲碁を題材にした少年漫画で、日本棋院所属の女流棋士、梅沢由香里が監修を務めた『ヒカルの碁』は、週刊少年漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』1999(平成11)年から2003(平成15)年にかけて連載され、テレビアニメ、小説、コンピューターゲーム等、様々な形でのメディアミックスも行なわれている。単行本は全23巻(完全版では全20巻)で、累計発行部数は約2,500万部となっている。平凡な小学生の少年が、天才囲碁棋士の霊に取憑かれたことで囲碁の世界に巻込まれ、「神の一手」を目指す姿を描く作品で、少年漫画としては異色の囲碁漫画であったが、話の主軸は少年の成長であり、緻密で繊細な作画と、熟考されたストーリーで人気を博した。『ヒカルの碁』が登場するまでは、年配の愛好家が主であった囲碁を、小学生や中学生を中心に浸透させ、囲碁ブームを引起こした。中には1989(平成元)年生まれの関達也二段のように、『ヒカルの碁』をきっかけに囲碁を始め、プロ棋士になった者もいる。『ヒカルの碁』は公益財団法人日本棋院が全面バックアップをしており、作中にも公益財団法人日本棋院内部や関連施設、イベント等が登場している。連載開始時に「世界初」と銘打たれる程、囲碁漫画は珍しいジャンルであった。囲碁漫画は地味になり勝ちなこと、また、動きが碁石を置くだけ等で、単調になり勝ちなことから、青年誌を含めても皆無に近く、少年誌での連載はこれが初めてであった。結果的に作品が成功したため、公益財団法人日本棋院自身も『ヒカルの碁』に因んだイベントを数多く行なった。また、日本国外でも翻訳刊行され、少年少女の囲碁ファンを増やす効果を呼んでいる。囲碁は、日本のみならず中華人民共和国、中華民国(台湾)、韓国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)等でも盛んに行なわれ、その他にも、北アメリカ・南アメリカ、ヨーロッパ等でも行なわれている。今日、囲碁は世界80ヶ国以上で打たれており、世界選手権も開催されている。公益財団法人日本棋院には、約300名の棋士が所属する他、職員として、事務員や棋院発行の出版物を纏める記者等が所属している。施設としては、東京に東京本院、有楽町囲碁センター、大阪に関西総本部、梅田囲碁サロン、名古屋に中部総本部がある。その他、日本国外のブラジル南東部にあるサンパウロに南米本部、オランダ西部にあるアムステルフェーンにヨーロッパ囲碁文化センター、アメリカ合衆国北西部、ワシントン州シアトルにアメリカ西部囲碁センターがあり、海外普及の拠点となっている。公益財団法人日本棋院関西総本部所属の囲碁棋士、井山裕太九段は、囲碁界・将棋界通して史上初の2度の七冠達成者であり、史上初の年間グランドスラム(その年の七大タイトルを全て独占)達成者、囲碁界史上初の七冠達成者・六冠達成者でもある。七大タイトルの数々の最年少記録を保持しており、七大タイトル獲得数も歴代1位で、2011(平成23)年からは、7年連続賞金ランキング1位となっている。そして、2018(平成30)年2月13日には、将棋界を牽引する棋士の第一人者、羽生善治と共に、国民栄誉賞を受賞した。昭和時代になって創設された、囲碁の棋戦の1つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトルが、本因坊である。安土桃山時代から江戸時代初期の囲碁棋士で、僧侶であったが、江戸幕府から俸禄を受けた本因坊算砂を初代とし、5名の名人を含め、名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった本因坊家の権威は、明治時代以後にも受継がれるが、1938(昭和13)年に二十一世本因坊秀哉が引退した際、その名跡を日本棋院(現在の公益財団法人日本棋院)に譲渡し、家元制から実力制に移行することとなった。1941(昭和16)年に第一期本因坊戦が開催され、現在まで続いている。1934(昭和9)年、東京日日新聞(日刊新聞『毎日新聞』の東日本地区の旧題号で、現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身に当たる)学芸部長であった阿部眞之助(明治時代から昭和時代前半にかけて活躍したジャーナリスト・政治評論家・随筆家で、後には日本放送協会[NHK]第9代会長も務めている)が囲碁、及び将棋の「実力名人戦」を企画し、1935(昭和10)年に将棋の名人戦が開始された。囲碁は、家元本因坊家の二十一世で、終身名人制の最後の名人、本因坊秀哉の意向もあり、本因坊戦とされ、阿部眞之助の部下の黒崎貞治郎が担当して1939(昭和14)年に開始することになった。最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉名人は、「本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきもの」という思いから、日本棋院に本因坊の名跡を譲り渡し、選手権制による本因坊戦「本因坊名跡争奪・全日本専門棋士選手権大手合」が行なわれることになった。囲碁におけるタイトル制度は、これが始まりであり、以後に始まる多くの棋戦のモデルとなった。なお、女流戦にも女流本因坊戦がある。現在では、前年度の本因坊七番勝負敗退者と前年度のリーグ戦二位から四位までの4名に加え、予選トーナメントによって4名を選出し、計8名によるリーグ戦を行なって挑戦者を決定する。本因坊リーグは、タイトル序列1位である棋聖戦、あらゆる分野で使われる「名人」という言葉の起こり、ともされる名人リーグと共に三大リーグと呼ばれ、この三大リーグに参加することが、一流棋士の証と言われる。