1月4日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

金の鯱鉾の日。
1937(昭和12)年、現在の愛知県名古屋市中区本丸・北区名城にある名古屋城大天守から、金の鯱鉾の尾の部分の金板2枚が盗まれた。金板2枚で金鱗58枚分に相当する。名古屋城下賜記念事業で実測調査中の1月6日朝、名古屋市建築局技師が、雄の胴体の金鱗110枚の内、58枚が盗難されていることに気付く。愛知県警察部(現在の愛知県警察[愛知県警]の前身)は、報道を全面禁止して全国指名手配するが、下賜記念事業中であったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。1月28日、金鯱の売却現場で犯人が逮捕される。江戸時代には、大凧に乗って金鯱に近付こうとした盗賊、柿木金助の伝説がある他、明治時代にも3回に亘って盗難事件が発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し、売却しようとして逮捕されている。城郭建築の天守には、金箔押の鯱瓦と金板張りの木造鯱の例がある。金箔押の鯱瓦では、創建当初に現在の岡山市北区にある岡山城天守へ載せられたとされ、それを再現したものが見られる。金板張りの木造鯱では、現在は名古屋城大天守へ載せられていたものを復元したもののみ、見ることができる。金箔押の鯱瓦は、粘土製の素焼きの鯱瓦に漆を塗り、金箔を施したものである。現在の広島市中区基町にある広島城大天守や岡山城天守、現在の長野県松本市にある松本城大天守等、豊臣恩顧と呼ばれる大名や有力な大名の一部の居城の天守等に上げられた例がある。城によって鯱瓦を金箔押とする程度であり、通常の鯱瓦を上げていた城が多かったとみられている。金板張の木造鯱は、徳川家康によって初代江戸城天守に上げられたものが初めとされているもので、金属板張の木造鯱の一種である。後に名古屋城大天守、徳川期江戸城の後2代の天守、徳川期大坂城天守等にほぼ同様、同規模のものが上げられたというのみで類例は少ない。鯱に初めて金を施したのは、織田信長の安土城天守(現在の滋賀県近江八幡市安土町に所在)とも羽柴秀吉の大坂城天守とも言われ、豊臣政権下では、許可を得ずに瓦等に金を施すことは許されていなかったと見られている。関ヶ原の戦い以降、豊臣政権の弱体化により権力が徳川家康に移ると実質の築城規制の解禁がにわかに起こり、同時に天守建設が流行すると金鯱(金箔押鯱瓦)や金箔瓦を上げる大名が増えていったが、徳川政権(徳川幕府)が固まると、築城に関する規制が起こり始め、1615(元和元)年以降は、築城・天守造営の原則禁止に伴ない、金箔や金板を張った鯱を上げられることは殆どなくなり、建物の修築後は、財政難から質を落としたり、全く張らないようにした城が多かった。1612(慶長17)年に名古屋城大天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1,940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたと言われている。高さは約2.74mあった。しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、1730(享保15)年、1827(文政10)年、1846(弘化3)年の3度に亘って金板の改鋳を行ない、金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取付けられていた。1871(明治4)年に政府に献納され、東京の宮内省(宮内庁の前身)に納められた。その後、1872(明治5)年に開催された湯島聖堂博覧会(現在の東京都文京区湯島にある湯島聖堂大成殿を会場にして開催された東京初の博覧会)への出品、雄鯱は石川・大分・愛媛等で開催された博覧会へ出品、雌鯱は1873(明治6)年のウィーン万国博覧会(オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン中心部にあるプラーター公園で開催された国際博覧会で、日本政府が初めて公式に参加する)に出品された後、雌雄金鯱が大天守に戻ったのは1879(明治12)年2月である。江戸時代以降の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945(昭和20)年に名古屋大空襲で焼失した。残骸は第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、後に大蔵省(現在の財務省の前身)に移ったが、1967(昭和42)年に名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数える程しか残っていなかった鎚金師(金属板を加熱し型に当てて鏨[たがね]で型に打込み、模様を浮出させる技法の職人)で大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88kgで、現在の鯱の大きさは、雄2.62m、雌2.57mである。第二次世界大戦後、名古屋城の三之丸を除く城跡は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋立てられる等の改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形(城郭への出入口である虎口[こぐち]の最も発達した形態で、方形空間を囲んで築かれた箱形の石垣で造られる)等は、三之丸を含めて比較的よく残されている。名古屋城大天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959(昭和34)年に再建されて、復元された金鯱と共に名古屋市のシンボルとなった。スタンプメーカーのシヤチハタ(本社は愛知県名古屋市西区)の社名は、名古屋城大天守の金鯱に由来する他、1936(昭和11)年から1940(昭和15)年まで存在したプロ野球球団に名古屋金鯱軍があり、現在では、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)クラブに名古屋グランパス(「grampus」は広義でシャチを指す)がある。さらに、名古屋市守山区守山にある守山駐屯地に司令部を置く、陸上自衛隊第10師団の愛称は金鯱師団であり、名古屋のローカルアイドルであるチームしゃちほこは、メンバーも全員名古屋在住である。「緊張して固くなる」という意味の「しゃちほこばる(「しゃっちょこばる」若しくは、「しゃちこばる」とも)」の語源にもなっていて、城の金鯱を見た旅人が、いかめしいさまを例える言葉として広まったのが転じた、とされる。名古屋名物のエビフライを金の鯱に見立てた料理等、名古屋土産や一部の飲食店で提供されている食事にも、名古屋城大天守の金鯱を模ったものが見られる。なお、名古屋城大天守に載る「金のしゃちほこ」(金シャチ)をさらに多くの人に知ってもらい、金シャチにあやかり、名古屋を元気することを目的に、愛知県名古屋市で鍼灸接骨院を経営する川村芳彦が制定した「金シャチの日」は、名古屋市の市章が「まるはち(八)」であることから8月、数字の「2」が、しゃちほこの形に似ており、左右に2つあることから22日、との理由から8月22日としている。因みに、エビフリャーは、エビフライを故意に名古屋弁風に訛って言った単語で、名古屋弁で耳に残る「~みゃあ」等の語尾の発音を茶化している。この表現は、1980年代初頭に、日本のお笑いビッグ3(タモリ、ビートたけし、明石家さんまの3人で、元々はフジテレビが、自局の高視聴率獲得に貢献していた、お笑いタレントの代表格3人を括って呼んでいたが、現在はフジテレビ以外でも使用されている)の一角を担うタレントで、知性的な部分を前面に打出すことも多く、司会者としても名高い、タモリによって考案されたもので、愛知県名古屋市を揶揄する言葉として、或いは、「名古屋ではエビフライがよく食べられている」というイメージとして広まった。その後は、エビフライを名古屋名物と勘違いする風潮に飲食業界が着目し、新しいメニューが多く作られていった。愛知県は、全国屈指の漁獲量を有する漁業が盛んな地域で、1990(平成2)年には、クルマエビが愛知県・県の魚選定委員会により、満場一致で「愛知県の魚」に選定されたが、県の魚に制定された経緯については、タモリが広めた「エビフリャー」からの影響が指摘されている。さらに、愛知県名古屋市では、約30cmの大きさを持つ「ジャンボエビフライ」、エビフライを丼に2本差し、ドミグラスソースを加えた「しゃちほこ丼」、卵とエビフライを使った「しゃちほこいなり」等、各店舗毎に趣向を凝らしたメニューが創作されるようになった。