1月2日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1火曜日 旧暦 11月21日、先勝(乙丑)、月齢 20.1  
グレゴリオ暦で年始から2日目、年末まであと364日。
誕生花 椿(赤)・ヒヤシンス(白)・ロウバイ・水仙(黄)・竹・孟宗竹。

初夢の日。
1月2日の夜から1月3日の朝にかけて見る夢を、初夢とすることから生まれた日。その夢で1年の良し悪しを占った昔は、よい夢を見るために、枕の下に宝船の絵を敷いて寝る人も多く、商人が宝船の絵を売歩いた。文献での初夢の初出は、平安末期の歌僧である西行法師の歌集『山家集』である。そこでは、暦上の新年とは無関係に、節分から立春の夜に見る夢を初夢としている。この時代は、初夢に限らず、立春を新年の始まりと考えることが多かったが、その後、暦上の元日を新年の始まりと考えるようになったが、単純に、大晦日から元日の夜に見る夢が必ずしも初夢とはならず、江戸時代には、「大晦日から元日」「元日から1月2日」「1月2日から1月3日」の3つの説が現れた。「元日から1月2日」は、大晦日から元日にかけての夜は眠らない風習ができたことが理由とされる。「1月2日から1月3日」の由来ははっきりしないが、書初めや初商い等、多くの新年の行事が1月2日に行なわれるようになったことに影響されたため、とも言われる。江戸時代後期以降には、「1月2日から1月3日」が主流となった。室町時代頃から、良い夢を見るには、七福神の乗っている宝船の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」という回文(上から読んでも下から読んでも同音になる文)の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされている。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをする。初夢に見ると縁起が良いものを表わすことわざに「一富士二鷹三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」がある。江戸時代に最も古い富士講(富士山とその神霊への信仰を行なうための講社[集団])組織の1つがあった駒込富士神社(現在の東京都文京区本駒込に所在)の周辺に鷹匠(狩猟に使われた鷹を扱う人)屋敷(現在は東京都立駒込病院が建っている)があり、駒込茄子が名産であったため、当時の縁起物として「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれている。徳川家縁の地である駿河国(現在の静岡県中部と北東部)での高いものの順、富士山、愛鷹山、初物の茄子の値段が「一富士二鷹三茄子」の由来とする説の他、富士山、鷹狩り、初物の茄子を徳川家康が好んだことから、とする説や、富士は日本一の山で、鷹は賢くて強い鳥で、茄子は事を「成す」から、とする説、富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉から、とする説、富士は、1193(建久4)年に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が行なった富士の巻狩り(富士の裾野付近を中心として行なわれた、鹿や猪等が生息する狩場を多人数で四方から取囲み、囲いを縮めながら獲物を追詰めて射止める大規模な狩猟)の際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を討った事件である、曾我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は、1701(元禄14)年に起きた赤穂事件(江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介義央に斬り付けたとして切腹に処せられた、播磨国赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47名が吉良上野介義央を討った事件)を基にした創作作品の忠臣蔵(主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は、1634(寛永11)年備前国岡山藩藩主池田忠雄が寵愛していた小姓、渡辺源太夫の兄である渡辺数馬と、その姉婿の大和国郡山藩剣術指南役荒木又右衛門が、渡辺源太夫の仇である河合又五郎を、伊賀国(現在の三重県西部)上野の鍵屋の辻(現在の三重県伊賀市小田町に所在)で討った鍵屋の辻の決闘(伊賀国の名産品が茄子)という、日本三大仇討ちに関連しているとする説等、諸説が伝えられている。四以降については、地域・文献等から幾つか存在しており、それについても諸説ある。「四扇(しおうぎ、よんせん)、五煙草(多波姑)(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)」というものは、19世紀前期に備後国福山藩の漢学者太田全斎が著した国語辞書『俚言集覧』に記載があり、同じ内容を挙げた辞典類の多くは、これを出典としている。一説として、「一富士二鷹三茄子」と「四扇五煙草六座頭」はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売等の繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭(琵琶法師[琵琶を弾くことを職業とした盲目僧]や按摩[撫でる、押す、揉む、叩く等の手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法]等で生計を立てていた剃髪の盲人)は毛がないので「怪我ない」と、洒落て家内安全を願うという。四、又は五を「葬式・葬礼」としたものには、「四そうろう(葬礼)に五せっちん(雪隠、便所) 」「四葬式、五雪隠」「四雪隠、五葬式」「四葬礼、五糞」「四に葬式、五に火事」「四葬式、五火事」等があるとされ、俗信(社会において広く流布され伝承されてきた、ものごとの捉え方や考え方、また、考えられた内容)により、逆夢としたり、予兆としたり、内容によって良悪が違う等、幾つかの解釈がある。
皇室一般参賀(新年一般参賀)。
天皇陛下他、皇族の方々が、新年を祝うため皇居宮殿内にある長和殿(宮殿で一番長い建物で、長さが160mあり、中の廊下の長さは100mある)のバルコニーで国民の参賀に応える。元日には各皇室行事があるため、1月2日に開催される。1925(大正14)年に中止されていたが、1948(昭和23)年に再開された。1948(昭和23)年の新年一般参賀では、宮内府(皇室関係の国家事務、及び天皇の国事行為に関する事務を担当する内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁]の1つ、宮内庁の前身)庁舎屋上から、第124代天皇、昭和天皇が1人で民衆に対し手を振るというものであったが、昭和40年代には左翼活動が激化し、昭和天皇に対しパチンコを撃った、昭和天皇パチンコ狙撃事件等もあり、長和殿に厚いガラスを設け、ガラスの向こうから天皇・皇后を筆頭に成年皇族が参加するようになった。民衆は、長和殿前の庭で、日の丸の小旗を振りながら皇族を迎えるようになった。昭和天皇の病状が悪化の一途を辿り、テレビ等でも血圧等の情報が流れるようになった、1989(昭和64)年の新年一般参賀は中止となった。昭和天皇は、同1989(昭和64)年1月7日に崩御したため、翌1990(平成2)年の一般参賀も中止となったが、再開以来、この2ヶ年以外に中止となった年はない。天皇と内廷皇族(独立した宮家[宮号を賜った皇族の一家]を持たない宮廷内部の皇族を指す語で、具体的には、皇后、太皇太后、皇太后、皇太子とその家族、未婚の皇子女を指す)、秋篠宮(第125代天皇、天皇明仁[現在の上皇明仁]の第二皇子で、皇位継承順位第1位の皇嗣、文仁親王の宮号)家は5回、それ以外の皇族は3回、又は1回参加するのが通例となっているが、病気療養中や服喪中の皇族は欠席することがある。1回目の一般参賀の模様は、日本放送協会(NHK)総合テレビで生中継され、宮殿から天皇が、参集者に対して言葉を述べるのが慣例である。なお、「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の観点から」、2021(令和3)年1月2日の新年一般参賀は中止となり、2022(令和4)年1月2日の新年一般参賀も中止された。2023(令和5)年1月2日の新年一般参賀は3年振りに実施され、2024(令和6)年1月2日の新年一般参賀は、参観者の抽選をすることなく、実施される予定となっている。