1月1日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

-153年 - イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した共和政ローマ(古代)において、年始の日と定められる。 
-045年 - 共和政ローマ期の軍人・政治家で、民衆派の指導者であった独裁官(あらゆる領域に及ぶ強大な権限を有する政務官)ガイウス・ユリウス・カエサルによって制定されたユリウス暦が使われ始める。ユリウス暦は、1年を原則として365日とするが、4年毎に閏年を置き、その年の2月末に1日を加えて366日とする。これにより、平均年を365.25日としている。ユリウス暦と太陽年とのずれは、長い年月と共に徐々に蓄積され、様々な不都合が生じるようになり、ユリウス暦の1582年2月24日、第226代ローマ教皇グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦10月4日(木曜日)の翌日をグレゴリオ暦10月15日(金曜日)とする。グレゴリオ暦は、日本では1873年に採用されている。 
0193年 - 自由民(解放された奴隷で、土地を所有する権限が与えられていた)階層の出身で、軍人となった後、属州(本国以外のローマ帝国の領土)総督も勤めたペルティナクス(プブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクス)が、ローマ皇帝に即位する。しかし、3月28日に暗殺され、統治期間は僅かなものとなる。 
0404年 - ローマで、最後の剣闘士(古代ローマにおいて見世物として闘技会で戦った剣士)の大会の記録。剣闘士の起源については、はっきりしたことは分かっていない。記録上、最も古い剣闘士試合は、紀元前264年にローマのマルクス・ユニウス・ブルトゥスとデキムス・ユニウス・ペラの兄弟が、父の葬儀に際して、ボアリウム広場というフォルム(古代ローマ都市の公共広場)で行なったものである。紀元前2世紀には、円形闘技場が建設されるようになり、都市ローマでの闘技会は、主に古代ローマの中心部に所在した広場、フォルム・ローマーヌムで行なわれるようになる。紀元前2世紀頃からは、故人の哀悼のための形式での追悼闘技会(ムヌース)が広まり、その規模はより大規模なものになり、やがて、故人の死を悼むものから世俗化した見世物となり、政治家のプロパガンダの場と化す。民衆は闘技会に熱狂し、政治家にその主催を要求するようになり、公職選挙と結び付いた追悼闘技会が行なわれるようになる。このため、闘技会が派手になり過ぎるとの危惧を受け、開催日数や剣闘士数の規制が設けられたが遵守されず、民衆も問題にせず、公職選挙と闘技会の結び付きは帝政初期頃まで続いている。共和政ローマの領土拡大と共に、ローマ人は大量の戦争捕虜を手に入れ、これら捕虜達が、おのおのの民族風の武装をした剣闘士にさせられ、紀元前2世紀に、初期の剣闘士のスタイルであるガリア闘士とサムニウム闘士、紀元前1世紀にはトラキア闘士が登場する。古代ローマの民衆派の指導者であった独裁官(あらゆる領域に及ぶ強大な権限を有する政務官)ガイウス・ユリウス・カエサルは、闘技会を政治プロパガンダの場として活用し、紀元前65年に640名もの剣闘士を集めた大規模な闘技会を催し、紀元前46年には、さらに大規模な総勢1,200名もの闘技会を開催している。80年、都市ローマに5万名収容のフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)が完成する。ローマ帝国第9代皇帝ティトゥス(ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス)は、このコロッセウムの落成を期して大規模な闘技会を催し、野獣狩り、剣闘士試合、模擬海戦が100日に亘って催され、剣闘士と野獣との戦いにより、1日だけで約5,000頭の野獣が殺されたという。闘技会は長らく、ローマで最も人気のある娯楽であったが、キリスト教会はこれに批判的で、380年にキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会は剣闘士や訓練士を始め、闘技会に係わる全ての者は、洗礼を受ける資格がないと定める。それでも、闘技会は規模を縮小しながらも続けられたが、人気が落ち、訓練生も集まらなくなる。404年、闘技場で試合を止めるよう呼掛けた修道士テレマクスが、観衆の投石を受けて死亡する事件が起き、西ローマ帝国初代皇帝ホノリウス(フラウィウス・アウグストゥス・ホノリウス)は、闘技場を閉鎖させる。但し、その後も各地で続けられていたようであり、681年になってようやく公式に禁止され、剣闘士による戦いは消滅する。 
1182年 - 平徳子が院号宣下され、建礼門院となる。武士としては初めて太政大臣(最高国家機関である太政官の長官[最高職])となった平清盛の長女、平徳子は第80代天皇、高倉天皇の中宮(皇后宮と並ぶ天皇の后の称号)となり、第81代天皇、安徳天皇の国母(天皇の生母の称号)ともなった後、院号宣下される。朝廷では、皇后や皇太后、太皇太后等の三后にも、女性に宣下された称号である院号(女院)を贈ることが慣習化されており、「院」とは太上天皇(譲位により皇位を後継者に譲った、譲位元の天皇に贈られる尊号で、主に上皇を指す)称号で、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことになり、直属の処務機関である院庁が置かれる。 
1558年 - カレー包囲戦が開始される。当時、神聖ローマ帝国(中央ヨーロッパに存在した、ドイツ王たる皇帝によって統轄された諸領域)側で第六次イタリア戦争に参加していたスペイン王国のオランダ侵攻を受けて、時のフランス王国国王、アンリ2世によって北フランスに緊急招集された貴族・軍人、ギーズ公フランソワが、カレー(現在のフランス北部に位置し、前近代からグレートブリテン島と大陸ヨーロッパを結ぶ玄関口として重要視されてきた)の地を包囲する。カレー包囲戦により1558年1月8日、1347年8月4日以来イングランド領となっていたカレーは、フランス王国領に戻ることとなる。
1651年 - 1646年にフランスへ亡命していたチャールズ2世が、スコットランド王に即位する。 
1700年 - ロシアがユリウス暦へと切替わる。 
1707年 - スペインから独立を承認されたポルトガルが、植民地としていたブラジル(現在の南アメリカに位置するブラジル連邦共和国)で銀鉱山が発見されたことから繁栄し、栄華を極めた頃、ポルトガル王となったペドロ2世が死去したことにより、ペドロ2世の次男、ジョアン5世がポルトガル王に即位する。 
1801年 - グレートブリテン議会とアイルランド議会の双方で可決成立した合同法により、グレートブリテン王国(イギリス)とアイルランド王国が合併し、グレートブリテン=アイルランド連合王国が成立する。 
1801年 - イタリアの天文学者、ジュゼッペ・ピアッツィが、イタリア南部、イタリア半島の西南の地中海に位置するシチリア島のパレルモ天文台でケレスを発見。これが、史上初の小惑星発見とされる。ケレスは準惑星の1つで、小惑星帯(太陽系第四惑星、火星と、太陽系第五惑星、木星の間にある小惑星の軌道が集中している領域で、アステロイドベルトとも呼ばれる)に位置する最大の天体である。発見当時は新しい「惑星」と見做されていたが、その後、近くの軌道に同じような天体が続々と見付かってきたこと(小惑星帯の発見)や、惑星にしては小さ過ぎる(最小の惑星である太陽系第一惑星、水星の約5分の1)こと等から、1850年頃から「小惑星」として、惑星とは区別されるようになる。それでもケレスは、直径約950kmと小惑星の中では際立って大きく、その後、何万という小惑星が発見されたにも係わらず、およそ150年の間、ケレスは「太陽系最大の小惑星」とされている。2000年代に入り、太陽系第八惑星、海王星以遠に、ケレスを上回る大きさの太陽系外縁天体(海王星軌道の外側を周る天体の総称)が複数発見されてきたことで、ケレスは最大の小惑星ではなくなったが、その質量が自己重力によって球形を保つことに十分であるため、2006年8月の国際天文学連合(IAU)総会で採択された太陽系の天体の定義により、「準惑星」として扱われることとなる。 
1804年 - 南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海(メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域)洋上の西インド諸島にあるハイチがフランスから独立。初の黒人国家となる。 
1806年 - バイエルン大公国がバイエルン王国(ドイツ連邦共和国南部、バイエルン州の前身)、ヴュルテンベルク公国がヴュルテンベルク王国(ドイツ連邦共和国南西部、バーデン=ヴュルテンベルク州の前身の1つ)となる。 
1817年 - バルト・ドイツ人(バルト海[ヨーロッパ大陸本土とスカンディナビア半島とに囲まれた海域]南岸と東岸に居住していた民族)の航海士、オットー・フォン・コツェブーが島を発見し、ノイヤール島(直訳すれば「新年島」、現在の太平洋中西部の洋上にあるマーシャル諸島内のメジット島)と名付ける。 
1820年 - スペインの陸軍軍人で、自由主義政治家のラファエル・デル・リエゴが指導した、スペイン立憲革命が勃発する。