1月1日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1月曜日 旧暦 11月20日、赤口(甲子)、月齢 19.1  
グレゴリオ暦で年始から1日目、年末まであと365日。
誕生花 椿(白)・スノードロップ・チューリップ(白)・福寿草・松(黒松)。

二十四節気・雑節等
雪下りて麦のびる。
七十二候の1つ(66候)。

元日(New Year's Day)。
元日は、年の最初の日であり、日付は、現行の太陽暦(地球が太陽の周りを回る周期、太陽年を基にして作られた暦)として、世界各国で用いられているグレゴリオ暦では、1月1日となる。どの季節を年初にしても記年法(年を数えたり、記録する方法)上問題はなく、太陽暦では、1月1日そのものに天文学的な意味はない。古代ローマ(イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家)時代の暦の上で、名前も付いていなかった冬の期間の前半が、ローマでの月の名前「Ianuarius(英語名ではJanuary)」と呼ばれるようになり、それが様々な変更を経ながらも現在まで続いてきた、という経緯がある。元日は、「新しい希望と決意とを持って新しい年の始めを祝う日」とする国民の祝日の1つである。日本では、昭和前期まで皇室行事である四方拝に因み、四方節と呼ばれて、祝祭日の中の四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の1つとされてきた。1948(昭和23)年公布・施行の「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」第2条により、四方節に代わって、「年のはじめを祝う」ことを趣旨とする国民の祝日となった。日本各地では、元日の1月1日から1月3日まで(三が日)、又は「松の内」(元々は1月15日までであるが、現在は一部地域を除き、1月7日までを指す)までを、特に「お正月(おしょうがつ)」と呼んでこれを尊重し、毎年、この時期独特の行事や慣習が執り行なわれる。元日に門松で年神様を迎え、井戸から若水を汲んで供え、雑煮やおせち料理を食べて祝う。なお、「元日」は1月1日のことで、1日の全時間帯、1月2日になるまでの24時間を指す。「元旦」は元日の朝・夜明け・日の出頃のことで、「旦」とは下の線が地平線を、上の日は太陽を表わしていて、「地平線から昇る太陽」を表現した漢字で、「朝」「夜明け」のことである。「元旦」で時間的な意味も含まれるため、「元旦の朝」というよりは、「元日」の朝と言った方が無難ではあるが、「元日」 = 「元旦」という使い方も一般的なものになっている。また、元日(特に、その朝)のことは「元朝(がんちょう)」とも呼び、「元旦」や「元朝」という言葉は、今でも小学校の書初めや年賀状等に使われる。 
元日節会。
元日節会は、古来の正月行事の1つである。1月1日の朝に、天皇が大極殿(古代の日本における朝廷の正殿)において、皇太子以下の文武百官の拝賀を受ける行事である朝賀の後に、天皇が大極殿、朝廷の饗宴に用いられた施設である豊楽院(後に、天皇元服や立太子、節会等の儀式が行なわれた正殿である紫宸殿)、宮中の宴会場である豊明殿等に出御し、臣や公家の皆々に宴をさせる。奈良時代の初期となる716(霊亀2)年、第44代天皇、元正天皇の治世には行なわれていたとされている。朝廷でも重要な儀式の1つとされ、応仁の乱(約11年間に亘って継続した、将軍家を始めとする室町幕府勢力の内乱で、ほぼ全国に争いが拡大した他、主要な戦場となった京都全域が、壊滅的な被害を受けて荒廃している)の開始から、1490(延徳2)年に再興されるまでの約30年間中断された他は、明治維新まで継続して行なわれた。明治時代からは1月5日の新年宴会となり、第二次世界大戦後は、1月1日の「新年祝賀の儀」となった。なお、「新年祝賀の儀」は、「日本国憲法」第7条に定める国事行為(天皇が行なうものとして規定されている行為で、「内閣の助言と承認」が必要で、内閣がその責任を負う)の1つである。
四方拝。
宮中で行なわれる1年最初の儀式で、今上天皇が、午前5時30分(昔は寅の刻)に黄櫨染御袍と呼ばれる束帯(天皇以下公家の正装)を着用し、神嘉殿(皇居内にある3つの連結された建造物の総称、宮中三殿の構内に附属する、四方拝、新嘗祭が行なわれる建造物)の南座に出御し、伊勢神宮(三重県伊勢市にある、全ての神社の上に位置する、とされる神社で、「伊勢神宮」とは通称で、正式名称は地名の付かない「神宮」である)の2つの正宮、皇大神宮(伊勢神宮内宮)と豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝し、宝祚(皇位)の無窮(永遠の意)、天下太平、万民安寧を祈る儀式である。第二次世界大戦前には、四方節と呼ばれていた。平安時代初期の第52代天皇、嵯峨天皇の御代に、宮中で始まったとされている。儀式として定着したのは9世紀の終わり頃、第59代天皇、宇多天皇の時代とされる。天皇の四方拝に倣って、貴族や庶民の間でも行なわれ、四方を拝して、1年間の豊作と無病息災を祈っていたが、時代を経る毎に、宮中行事として残るのみとなった。但し、江戸時代においても、摂家(鎌倉時代に成立した、藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家[近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家]のこと)等、一部の公家の間でも、四方拝が行なわれていた記録も残されている。明治以後は、国学的観点から、古代中国の宗教、道教の影響(北斗七星信仰[北斗七星を神と仰ぐ星辰信仰]や急々如律令[魔を払う呪文]等の呪文)は排除され、神道祭祀として再構成された上、国の行事として行なわれて四方節と呼ばれ、祝祭日の中の四大節の1つとされていた。四方拝は、「明治22年2月11日皇室典範」(現在は「皇室典範[昭和22年1月16日法律第3号]」となっている)を根拠とし、「明治22年2月11日皇室典範」に属する法体系、いわゆる「宮務法」の下で制定されていた、皇室に関係する一連の天皇の命令、「皇室令」(宮内官制、及びその他の皇室の事務に関して、勅定[天皇の命令]を経た規定で、発表を要するもの)が廃止された第二次世界大戦後においても、皇室の私的な行事とされる以外は、「皇室令」に準拠して行なわれている。 
歳旦祭。
第二次世界大戦前の祝祭日の中の「皇室祭祀令(明治41年9月19日皇室令第1号)」に基づく小祭日の1つ。現在では、新暦1月1日(元日)に宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行なわれる、年始を祝う祭祀である。元日に天皇が親行する四方拝に続いて、同日早朝午前5時30分から宮中三殿において掌典長が主宰し、祝詞を挙げ、午前5時40分頃、四方拝を済ませた黄櫨染御袍姿の天皇が拝礼し、黄丹袍(皇太子が儀式の際に着用する束帯装束の袍[上衣])姿の皇太子が続いて拝礼する。神宮(伊勢神宮[現在の三重県伊勢市に所在]は、天照坐皇大御神[天照大神や天照大御神とも称される、日本神話に登場する女神であり、皇室の祖神で、日本国民の総氏神]を祀るため、歴史的に皇室、朝廷の権威との結び付きが強く、現代でも内閣総理大臣、及び農林水産大臣が、年始に参拝することが慣例となっている)等、全国の神社においては、皇統の繁栄と、五穀豊穣と国民の加護を祈念する中祭として行なわれる。