12月31日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

シンデレラデー。 
児童向け作品として絵本やアニメ等、様々な形で公表されている童話の名作『シンデレラ』では、午前0時になると、主人公シンデレラに掛けられた魔法が解けてしまう。「シンデレラデー」という言葉には、1年の最後日、最も慌ただしくて、夜の12時までに帰らなければならない「シンデレラ」のような日、という意味が込めている。夜の時間が気になる日であることから。『シンデレラ』は、ヨーロッパに伝わる民話、及び、その物語の主人公の少女のことで、「シンデレラ」とは「灰かぶり」の意である。この民話にはさまざまなバリエーションがあるが、日本でよく知られている『シンデレラ』の物語は、フランスの詩人で、日本では民間伝承を纏めた『ペロー童話集』の作者として有名なシャルル・ペローによって編纂された物語を、さらにアレンジしたものである。それ以前の民話では、魔法使いもかぼちゃの馬車も、ガラスの靴さえ出てきておらず、ドレスは実母の遺品であったり、それを持ってきたのが小鳥であったりする。この民話の起源は諸説あり、最も古いものは古代ギリシャにまで遡り、日本にも類似する物語が存在し、世界各国にこのような話は伝承されている。19世紀にドイツで活躍した言語学者・文献学者・民話収集家・文学者の兄弟で、日本では、ドイツのメルヘン集『グリム童話』の編集者として知られるグリム兄弟(長兄のヤーコプ・グリムと、次兄のヴィルヘルム・グリム)によるバージョンは、『ペロー童話集』のものよりも、原型となった民話に近い形となっている。シンデレラは、継母とその連れ子である姉達に日々虐められていた。ある時、城で舞踏会が開かれ、姉達は着飾って出ていくが、シンデレラにはドレスがなかった。舞踏会に行きたがるシンデレラを、不可思議な力(魔法使い、仙女、ネズミ、母親の形見の木、白鳩等)が助け、準備を整えるが、魔法は午前零時に解けるので帰ってくるように、と警告される。シンデレラは、城で王子に見初められるが、午前零時の鐘の音に焦ったシンデレラは、階段に靴を落としてしまう。王子は、靴を手掛かりにシンデレラを捜すが、姉2人も含め、シンデレラの落とした靴は、シンデレラ以外の誰にも合わなかった。そして、シンデレラは王子に見出され、妃として迎えられる。日本に『シンデレラ』が紹介されたのは古く、1886(明治19)年に『郵便報知新聞』(「日本近代郵便の父」として知られる官僚・政治家、前島密らによって創刊された新聞で、現在のスポーツ紙『スポーツ報知』の前身となっている)が発表した「新貞羅(シンデレラ)」や、翌1887(明治20)年の、僧侶でジャーナリスト、菅了法翻訳による「西洋古事神仙叢話」内の「シンデレラの奇縁」がある。 1900(明治33)年、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた作家・翻訳家、坪内逍遥が、本名の坪内雄蔵名義で高等小学校(第二次世界大戦勃発前の時代に存在した、後期初等教育・前期中等教育機関で、現在の中学校の前身に相当する)の教科書用に「おしん物語」の題名で書いた。ここでは、シンデレラは名前を「おしん」とされ、登場人物や小道具等も日本風にアレンジされた。 
著作権法上の著作権の保護期間の最終日。
当該著作物は、同日まで保護される(映画作品は公開年から70年後、その他の著作の著作者の著作権は、没年50年後の翌日1月1日をもって消滅する)。発案や発明、ソフトウェア、企業や商品のブランド等、無形の財産に関する権利、知的財産権の1つである著作権の範囲と内容について定める「著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)」は、著作物の創作者である著作者に著作権(著作財産権)や著作者人格権(著作者がその著作物に対して有する人格的利益の保護を目的とする権利)という権利を付与することにより、その利益を保護している。同時に、著作物に密接に関与している実演家、レコード製作者、放送事業者、及び有線放送事業者に対して著作隣接権等を付与し、これらの者の利益も保護している。
ベルボトム・ジーンズの日。
熱狂的なベルボトムジーンズ愛好家として知られるラジオDJ・翻訳家、野村雅夫が出演するラジオ番組「CIAO765」(FM COCOLO)のリスナーで結成された「CIAO(チャオ)リスナー友の会」が制定。ベルボトムジーンズのかっこ良さをもっと知ってもらい、ベルボトムジーンズを愛する人がたくさん誕生するように、との願いが込められている。日付は、野村雅夫が番組で「大晦日は一年の最後の日、つまりボトム。そして除夜の鐘、即ち、ベルが鳴る日だから最もベルボトム(ジーンズ)の日にふさわしい」と発言し、多くの共感が寄せられたことから。1995(平成7)年10月16日、FMラジオ局としては全国で46番目、大阪で3番目に開局した超短波放送局(FMラジオ)で、日本初の外国語放送として開局したFM COCOLOは、現在では、40代後半から60代のリスナーを対象とした番組編成に力を入れている。ベルボトムは、脚の筒の形が、腰から膝までは身体にフィットし、膝から裾に向かって広がっているもので、金管楽器のベルの形に似ていることから「ベルボトム」と呼ばれている。
寅彦忌、冬彦忌。
物理学者・随筆家、寺田寅彦(吉村冬彦)の1935(昭和10)年の忌日。寺田寅彦は俳人でもあり、吉村冬彦の号を使用した。寺田寅彦の研究上の業績としては、地球物理学関連のもの(潮汐の副振動[潮位の変化の内、潮汐や高潮、津波等によって発生する以外のものを指す言葉]の観測等)がある一方で、1913(大正2)年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点[ドイツの物理学者マックス・フォン・ラウエが発見した、単結晶にX線を照射し、回折像を撮影した時の写真にみられる黒い斑点群]の実験)についての発表(結晶解析分野としては非常に初期の研究の1つ)を行ない、その業績により、1917(大正6)年に帝国学士院(研究者に対する顕彰等の事業を通じ、日本の学術の発展を図る目的で設置された組織で、現在は文部科学省の特別の機関である日本学士院となっている)恩賜賞(学術上特に優れた論文や著書、その他の研究業績に対する賞)を受賞している。また、「金平糖の角の研究」や「ひび割れの研究」等、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究も行なっており、これら身辺の物理現象の研究は、「寺田物理学」の名を得ている。自然科学者でありながら、文学等、自然科学以外の事柄にも造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。その中には、大陸移動説(ドイツの気象学者であるアルフレート・ヴェーゲナーが1912[大正元]年に提唱した、大陸は地球表面上を移動してその位置や形状を変えるという学説)を先取りするような作品もある。「天災は忘れた頃にやってくる」は寺田寅彦の言葉と言われるが、著書中にはその文言はなく、発言録に残っている。今日では、寺田寅彦は自らの随筆を通じて学問領域の融合を試みている、という観点からの再評価も高まっている。寺田寅彦は、日本を代表する文豪の1人である作家・評論家・英文学者、夏目漱石の元に集う弟子達の中でも最古参に位置し、科学や西洋音楽等、寺田寅彦が得意とする分野では、夏目漱石が教えを請うこともあって、弟子ではなく、対等の友人として扱われていたと思われるフシもあり、それは門弟との面会日であった木曜日以外にも、夏目漱石邸を訪問していたこと等から推察できる。また、夏目漱石の長編小説『吾輩は猫である』の水島寒月(猫「吾輩」の飼い主、珍野苦沙弥の元教え子の理学士)や、同じく夏目漱石の長編小説『三四郎』の野々宮宗八(主人公、小川三四郎の同郷の先輩)のモデルともされる。このことは、夏目漱石が水島寒月の扱いについて伺いをたてる手紙を書いていることや、東京帝国大学(現在の東京大学の前身)理学部の描写や、そこで行なわれている実験が、寺田寅彦の案内で見学した体験に基づいていることからも裏付けられる。 
一碧楼忌。
俳人、中塚一碧楼の1946(昭和21)年の忌日。中塚一碧楼は、従来の五七五調の形に捉われない新傾向俳句の俳人で随筆家、河東碧梧桐に師事する。河東碧梧桐門から一時離脱して、定型打破、季題揚棄、自選主義等を掲げて同人活動を行なったが、後に河東碧梧桐と和解する。俳句に積極的に口語を採用し、それ故に五七五調に囚われない自由な俳句を作り出した中塚一碧楼を、自由律俳句(五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句)の創始者とする見方もある。その作風は、真実と人間味の直接的表現を求め、人間としての自然と融和した句境を目指したものである。