12月29日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2023年 令和5年 平成35年  
昭和98年 大正112年 明治156年 皇紀2683年 干支 癸卯(みずのと う)
第5金曜日 旧暦 11月17日、先負(辛酉)、月齢 16.1  
グレゴリオ暦で年始から363日目、年末まであと2日。
誕生花 プリムラジュリアン・ホオズキ。

清水トンネル貫通記念日。
新潟県南魚沼郡湯沢町と群馬県利根郡みなかみ町との境に位置する国鉄(日本国有鉄道、現在の東日本旅客鉄道[JR東日本])上越線の清水トンネル(全長9,702m)が、1929(昭和4)年12月29日に貫通した。清水トンネルという名称は、付近にある清水峠(日本の太平洋側と日本海側とを分かつ、中央分水嶺を構成する谷川連峰上にあり、標高は1,448m)に因む。運用開始は1931(昭和6)年9月1日で、新潟と上野の間が、路線距離にして約98km短縮された上、碓氷峠(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある、信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺で、標高は約960m)の難所を通らずに済む効果で、到着時間の短縮幅は約4時間に達した。その結果、新潟地区と首都圏の交通事情が飛躍的に改善された。東部が激しく侵食された結果、現在の碓氷峠は、直線距離で約10kmの間に標高差が約500m以上に達する、急峻な東側のみの片勾配となっていて、群馬県側の麓、横川の標高387m に対し、長野県側の軽井沢は標高939mと、峠(約960m)との標高差が殆どない。そのため一般的な、山脈をトンネルで抜けることで、峠越えの高低差を解消できる両勾配を持つ峠と異なり、通行には近代に至るまで、数多くの困難を抱えていた。在来線である上越線は、各々単線の清水トンネル、新清水トンネルの2本があり、上越新幹線用の複線の大清水トンネルと合わせて、合計3本のトンネルが並行している。また、この県境の長大なトンネルは、さまざまな点から注目を集めた。開通後、大正から昭和の第二次世界大戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の1人で、日本人として初のノーベル文学賞を受賞した川端康成が越後湯沢(湯沢町)を訪れるようになり、その経験を元に1935(昭和10)年から執筆されたのが、名作として国内外で名高い長編小説『雪国』である。小説冒頭の「国境の長いトンネル」とは、単線時代の(現在は上り線の)清水トンネルのことであり、冒頭の場面で、主人公の島村と同じ汽車に乗合わせた葉子が駅長を呼ぶ場面は、当時の土樽信号場(現在の土樽駅)が舞台である。なお、上越線の清水トンネルを挟む水上駅 - 石打駅間は、1931(昭和6)年の開業当時から直流電化され、電気機関車が使用されていた。これは、蒸気機関車を使用して長大な清水トンネルを越えることは、機関士や機関助士が、煤煙によって窒息する事故を起こす危険性があるために不可能であったからである。トンネルの上に聳える谷川岳は、この線の開通により、首都圏から手軽に行ける本格的山岳として大人気となったが、冬の雪の多さと岩壁の厳しさは、多くの遭難者を出し、「魔の山」と呼ばれるようになった。清水トンネルは開通当時、日本最長の鉄道トンネルで、1962(昭和37)年6月10日に北陸トンネル(福井県敦賀市と福井県南条郡南越前町に跨る複線鉄道トンネルで、総延長は13,870m)が開通するまで、30年以上その地位を保った。第二次世界大戦時の輸送量増強のため、上越線を含む単線の主要幹線では、駅間距離が長い区間を中心に多くの信号場が設置された。清水トンネルの中間部は、完成時より列車交換が可能なよう複線断面とされていたため、1943(昭和18)年に茂倉信号場が設置された。信号場の名称は、直上に聳える谷川連峰の茂倉岳に因んで名付けられたものである。新清水トンネル完成後は、上り線用の追抜き設備として用いられ、1984(昭和59)年11月1日に廃止された。現在も設備は温存されており、冬になると、除雪のための保線車両が留置されることがある。なお、新清水トンネルの中間地点にも、列車交換設備を設置するための空間が存在するが、線路は敷設されておらず、清水トンネル内の茂倉信号場とも繋がってはいない。大清水トンネルの工事中に偶然、大量の湧き水発見され、当時の国鉄(日本国有鉄道)社員が飲んで美味しいと評判であった。その後、社員自らがトンネルの外までパイプを通す苦労等もあり、ミネラルウォーター『谷川連峰の源水 大清水』として発売された。現在は、『From AQUA』として、東日本旅客鉄道(JR東日本)の子会社、JR東日本クロスステーション ウォータービジネスカンパニーにより、主に東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅構内にある自動販売機や小型売店「KIOSK」、コンビニエンスストア「NewDays」で販売されている。 
シャンソンの日。
1990(平成2)年12月29日、東京都中央区銀座にあるシャンソン喫茶「銀巴里」が閉店した。「銀巴里」は日本初のシャンソン喫茶店で、「東の銀巴里、西のラ・ベル・エポック(東京都武蔵野市吉祥寺にあったが、2009[平成21]年10月31日に閉店)」とも呼ばれた。シンガーソングライター・タレントの美輪明宏、シャンソン歌手・推理作家の戸川昌子、シャンソン歌手の金子由香利、シンガーソングライター・ギタリストの長谷川きよしらを輩出し、第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の1人である三島由紀夫、作詞家・作家のなかにし礼、作家の吉行淳之介、歌人・劇作家の寺山修司、画家・ファッションデザイナー・イラストレーターの中原淳一らが集い、演出に尽力した。「銀巴里」は、シャンソンを映画程度の料金で聞いてもらいたいと、消費税も取らず、コーヒー付き1,800円の料金で頑張ってきたが、地価高騰には勝てなかった。閉店日には、「銀巴里」の名が記されたコーヒーカップや食器類が、全て常連客によって持帰られたという。現在、跡地付近には石碑が立っている。本来、シャンソンは、フランス語で歌の意味である。従って、少なくとも現代のフランス語圏においては、シャンソンは歌全般を意味し、特定ジャンルの楽曲を指すものではない。他言語圏では、フランス語で歌われる曲という意味で使われることが多い。因みに、イタリア音楽のカンツォーネとは、元々の語源が同じである。日本においては、1960年代までに流行したフランスの歌謡曲全般をシャンソンと呼ぶ場合が多く、これらを日本語訳でカバーしたものも、シャンソンに分類される。アメリカン・ポップスやロックの影響を受けたフランスのシンガーソングライター、ミッシェル・ポルナレフ等は、シャンソンより新しいイメージのフレンチ・ポップスとして紹介されることが多かった。フランス語で歌われていても、例えば、ヒップホップ(アフリカ系アメリカ人やカリブ海系アメリカ人、メキシコ、キューバ、プエルトリコ等、ラテンアメリカ出自のヒスパニック系の住民等の文化から派生した、サンプリング[過去の曲や音源の一部を引用し、再構築して、新たな楽曲を製作する音楽製作法・表現技法]や打込み[電子楽器の一種であるドラムマシンや、演奏データを再生することで、自動演奏を行なうことを目的としたミュージックシーケンサー等に、前もって演奏情報を入力しておき、それを再生することで演奏を実現させる技法]を中心としたバックトラック(ボーカルのある曲からボーカルを抜いたもので、カラオケバージョンと同義)に、MC(ラッパーは、ラップ[小節の終わり等で韻を踏みながら、 余りメロディを付けずに、リズミカルに喋るように歌う方法]限定でパフォーマンスをするアーティストのことであり、MCはラップだけでなく マイクを握って、その他のパフォーマンス、又は司会をする人の総称となる)によるラップを乗せた音楽形態を指す)のアメリカン・スタイルも、通常シャンソンとは見做されない。シャンソンの生演奏を楽しめるカフェやライブハウスを、シャンソニエと呼ぶ。「銀巴里」「日航ミュージック・サロン(東京都中央区銀座に所在)」「ラ・ベル・エポック」等がシャンソンの普及に大きな業績を残して閉店した後、愛知県名古屋市千種区吹上にある「カフェ・コンセール・エルム」が、日本を代表するシャンソン・ライブ・ハウス(フランスでは「キャバレー」と呼ぶ)として注目されるようになった。