12月26日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

1251年 - スコットランド王アレグザンダー3世と、イングランド王ヘンリー3世の娘、マーガレットが結婚する。スコットランドで最も偉大な王の1人と言われるアレグザンダー3世は、イングランドの内乱に対しては深入りせず、イングランドとの良好な関係の維持に努めており、イングランドとの関係は良好で、国内は安定し、「黄金時代」と呼ばれる程、スコットランドの国民生活が向上している。1249年に父、アレグザンダー2世が没したため、同年7月13日、スクーン(スコットランド中部に所在し、スコットランド王国初期には首都となっていた)で戴冠(国王が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位への就任を宣明する儀式を行なうこと)し、7歳で王位を継承する。アレグザンダー3世とマーガレットとの結婚は、ヘンリー3世の押付けであり、ヘンリー3世はアレグザンダ3世ーをナイト(主に、ヨーロッパのキリスト教国家において、勲章の授与に伴ない、王室、又は教皇から授与される、中世の騎士階級に由来した栄誉称号で、特にイギリスの叙勲制度において、王室より叙任されるものが有名)に叙した上で、臣従を強要している。宮廷では、摂政のジョン・ベイリャル(1292年に戴冠した、スコットランド王ジョン・ベイリャルの父)と、王妃護衛職のロバート・ド・ロスが王妃を蔑ろにする等、専横を極める。1255年、アレグザンダー3世は親政に乗出し、ジョン・ベイリャルとロバート・ド・ロスを追放する。1261年、父のアレグザンダー2世が果たせなかったヘブリディーズ諸島(スコットランド西岸に広範囲に広がる島嶼部)のノルウェーからの奪還に成功し、1263年には、スコットランド西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世ホーコンソンを撃破する。3年後の1266年、スコットランド中部にあるパース(13世紀から15世紀まで、スコットランド王国の首都であった)でスコットランドとノルウェーの両国は条約を結び、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となる。アレグザンダー3世は、1281年から1284年にかけて、次男デイヴィッド、長女マーガレット、長男アレグザンダーを次々と失う。しかも、長男アレグザンダーには子がなく、王位継承者がいなくなったため、アレグザンダー3世は、1285年10月14日、フランス貴族ドルー家のドルー伯ロベール4世の娘ヨランド・ド・ドルーと結婚する。しかし、結婚から約半年後の1286年3月19日、スコットランド南東部に位置するエディンバラから、王妃のいるキングホーンの離宮へ向かう途中、嵐の中で落馬して死亡する。スコットランド貴族は、長女マーガレットとノルウェー王エイリーク2世の一人娘、マルグレーテ(マーガレット)を、ノルウェー宮廷に留めたまま、女王に擁立する。僅か3歳の、スコットランド初の女王が誕生したが、マルグレーテ(マーガレット)はその約4年後、7歳で死亡し、11世紀から13世紀まで続いたスコットランドのアサル王朝は断絶し、ジョン・ベイリャルら13名の王位請求者が乱立する事態となっている。 
1606年 - イングランドの劇作家・詩人、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『リア王』が初演。ブリテン(ほぼイギリスのこととされる)の王であるリアが主人公となる『リア王』は、四大悲劇(ウイリアム・シェークスピアの戯曲38編の内、『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』の4作品で、いずれも人生に対する深い洞察を示している)の1つとされる。長女と次女に国を譲った後、2人に事実上追出されたリア王が、末娘の力を借りて2人と戦うも敗れる、という内容の『リア王』は、王に従う宮廷道化師に悲哀を背負わせ、四大悲劇中、最も壮大な構成の作品との評もある。 
1634年 - 鍵屋の辻の決闘。備前国岡山藩藩主、池田忠雄が寵愛していた小姓、渡辺源太夫の兄である渡辺数馬と、その姉婿の大和国郡山藩剣術指南役荒木又右衛門が、渡辺源太夫の仇である河合又五郎を、伊賀国上野の鍵屋の辻(現在の三重県伊賀市小田町に所在)で討つ。伊賀越の仇討ちとも称され、曾我兄弟の仇討ち(1193年に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が行なった富士の巻狩り[富士の裾野付近を中心として行なわれた、鹿や猪等が生息する狩場を多人数で四方から取囲み、囲いを縮めながら獲物を追詰めて射止める大規模な狩猟]の際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を討った事件)と赤穂浪士の討入りに並ぶ、日本三大仇討ちの1つとされる。1630年、備前国岡山藩藩士の河合又五郎は、渡辺源太夫に横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため、逆上して渡辺源太夫を殺害してしまう。河合又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍に匿われる。激怒した池田忠雄は、幕府に河合又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門正珍は、旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子を掛けた争いに発展してしまう。1632年、池田忠雄が急死したが、余程無念であったのか、死に臨んで、河合又五郎を討つよう遺言する。子の池田光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きを狙い、旗本達の謹慎と、河合又五郎の江戸追放を決定する。しかし、渡辺源太夫の兄、渡辺数馬は仇討ちをせざるを得ない立場に追込まれる。主君池田忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでおり、渡辺数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩する。剣術が未熟な渡辺数馬は、姉婿の荒木又右衛門に助太刀を依頼する。渡辺数馬と荒木又右衛門は、河合又五郎の行方を捜し回り、潜伏先を突止めた上、鍵屋の辻で待伏せる。河合又五郎一行は、河合又五郎の叔父で、元大和国郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛等が護衛に付き、総勢11名に達する。待伏せ側は、渡辺数馬と荒木又右衛門、それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4名となる。待伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する河合又五郎一行に、渡辺数馬、荒木又右衛門らが切込み、決闘が始まる。岩本孫右衛門と川合武右衛門が、馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬り付け、桜井半兵衛に槍が渡らないようにする。荒木又右衛門は、馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切伏せる。次いで、荒木又右衛門は、岩本孫右衛門と川合武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打倒す。この時、川合武右衛門が斬られて命を落としている。頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、河合又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃出してしまう。逃遅れた河合又五郎は、渡辺数馬や荒木又右衛門らに取囲まれる。河合又五郎を倒すのは渡辺数馬の役目であったが、この2人は剣術に慣れておらず、延々約5時間も斬り合い、やっと渡辺数馬が河合又五郎に傷を負わせたところで、荒木又右衛門が止めを刺す。俗に、荒木又右衛門の「36人斬り」と言われるが、実際に荒木又右衛門が斬ったのは2名である。また、決闘地の領主である伊勢国/伊賀国津藩藤堂家が、河合又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置し、決闘が始まると周囲を封鎖し、河合又五郎の逃走を阻止する等、渡辺数馬、荒木又右衛門らを支援していたとも言われる。支援の理由は、この事件を外様大名と直参旗本との争いと見做したためと見られる。見事本懐を遂げた渡辺数馬と荒木又右衛門は、世間の耳目を集め、特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びる。渡辺数馬と荒木又右衛門、岩本孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に約4年間も預けられ、この間、荒木又右衛門を因幡国/伯耆国鳥取藩が引取るか、旧主の大和国郡山藩が引取るかで紛糾する。結局、3名は鳥取藩が引取ることになった。1638年に3名は鳥取に到着するが、到着の17日後に鳥取藩は、荒木又右衛門の死去を公表する。荒木又右衛門の死があまりに突然であったため、毒殺説、生存隠匿説等、様々な憶測がなされている。