12月25日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

クリスマス・カード。
クリスマスを祝って送られるカード、クリスマス・カードは、クリスマスのお祝いの言葉や、相手を思い遣る言葉等が書かれる。クリスマスに因んだイラストや絵画等が描かれているものが多く、シンプルなものから、非常に凝ったものまで、様々なタイプのものがある。ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカの諸国等、これを交換するのは、キリスト教徒であるかどうかに関わらず、一般的な習慣であり、極めて多くの人々が、クリスマスカードの交換を行なっている。発送の時期としては、一般的に12月の中旬頃からクリスマス直前で、12月25日直前の1週間は最盛期である(中には、12月の初旬に発送する人もある)。また、新年のお祝いの言葉も書き添えられることも多い。例えば英語では「Wishing you a Merry Christmas, and a Happy New Year.」等と書かれていることが多い。つまり、日本の年賀状の役割も兼ね備えていることも多い(反対に、欧米では、新年の挨拶状だけを送る風習は存在せず、送る時は、必ずクリスマスの挨拶と新年の挨拶が一緒になっている)。日本人同士では、クリスマス・カードを交換する習慣は一般的では無いが、日本でも、クリスチャン(キリスト教徒)同士では交換していることもある。また、クリスチャンでない日本人でも、欧米の人と仕事上のやりとりがある人、世界に居住する在外日本人や海外居住歴がある人、欧米人を友人・知人に持つ人等では、クリスマス・カードを受取ったり送ったりする習慣が、身に付いている人も多数存在している。
スケートの日。
1982(昭和57)年、スケート場業界の任意団体、日本スケート場協会が制定。各地のスケート場への入場料が安くなるところが多い。1861(文久元)年、蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)に滞在していたイギリスの陸軍軍人・貿易商・博物学者・探検家、トーマス・ライト・ブレーキストン(トマス・ブラキストンとも表記する)が、日本で初めてスケートをした、とされるのが由来である。スキーと並ぶ代表的な冬季スポーツ、アイススケートの日本への伝来には、他にも、1792(寛政4)年にロシア帝国の陸軍軍人アダム・ラクスマンが蝦夷地の根室(現在の北海道根室市)で滑走したという説や、1877(明治10)年にアメリカの農学者で札幌農学校(現在の北海道大学の前身)の教師であったウィリアム・ブルックスがスケート用具を日本に持込んだことが最初、という説がある他、1890(明治23)年頃に現在の宮城県仙台市在住の外国人がスケートを始めたとの記録もある。また、1891(明治24)年に教育者・思想家の新渡戸稲造がアメリカから伝えたという説もある。競技スケートには、スケートリンクを陸上競技のグランドのようにし、そこを周回する速さを競うスピードスケートや、ツアースケート(ノルディックスケート)、フィギュアスケート、アイスホッケー等がある。ツアースケート(ノルディックスケート)は、凍っている湖に行って、スノープラウ(除雪を目的として、自動車等に取付けられた板状のもの)が準備した道を通るか、自由に行く。普通にリュックに弁当を持ち、安全のためにパイク(歩兵用の武器として使用された槍の一種)等を持っていく。フィギュアスケートは、音楽に合わせて前後左右に自在に進む方向を操りながら、リンクの表面に図形を描くかのように滑走することを基本として、さらに、ジャンプやスピンの美しさを競う競技である。アイスホッケーは、天然、又は人工氷のスケートリンク上で、スケート靴を履いて行なう団体スポーツ競技で、陸上で行なわれるホッケーの形式を氷上に持込んだものである。2チームが長方形(楕円形)をしたリンクの中で、スティック(長い柄の先端部分に角度を付け、湾曲させた杖状の用具)を用いて、硬質ゴムでできた扁平な円柱状のパックを打合い、相手方のゴールに入れることで、その得点を競うゲームである。『氷上の格闘技』とも呼ばれ、漢字を当てて「氷球」と表記される。スケートリンクは、アイススケートをすることが可能な広さと丈夫さを持つ、水平に氷が張られた平面、又は、それを含む施設のことで、「銀盤」「アイススケートリンク」「スケート場」「スケートセンター」「アイスアリーナ」等とも呼ばれる。リンクは、スコットランド語で「コース」を意味する単語であり、カーリング(4人ずつ2チームで行なわれ、目標とする円を目掛けて各チームが交互に8回ずつ石を氷上に滑らせる競技)をする場所の名前として使われていた。その後、この語は、他のスポーツやさまざまな用途の氷の張った場所に対して転用されるようになった。アイススケートを実施するには、人が多数乗っても割れない程丈夫で、摩擦が小さい平面が必要である。しかし、冬季の気温が充分低くなって結氷する地域では、湖沼や運河、或いは、勾配が小さい河川が、最も簡便にアイススケートに供されるスケートリンクとなる。湖沼等が結氷しない地域でも、ある程度の広さをもった水平の陸上(学校の校庭・河川敷・田畑など)に冬季に水を撒いて氷を張り、スケートリンクとして使用される。製氷技術を使って人工のスケートリンク(パイピングリンク)を設置する場合は、冷凍機に繋いだ冷却管(ブライン管)を敷詰めて水を張り、冷凍機で氷点以下に冷却した冷却水を循環させて氷を張る。近年では、滑走可能な程摩擦が小さいプラスチック素材を使って、氷以外でスケートリンクを造る技術も開発されている。なお、トーマス・ライト・ブレーキストンは、幕末から明治期にかけて日本に滞在し、津軽海峡における動物学的分布境界線(個々の生物種の分布域の範囲を区切る線であるが、特に、生物地理学において、多くの生物の分布の境界になっている、生物相の異なる区域の境界線のことを指す)の存在を指摘しており、この境界線は後に、ブラキストン線と命名された。トーマス・ライト・ブレーキストンは、日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動植物分布の境界線があるとみて、これを提唱した。また、哺乳類にも、この津軽海峡が、分布境界線になっている例が多く知られる。この線を北限とする種は、ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンザル、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラがある。逆に、このブラキストン線を南限とする動物が、ヒグマ、エゾシカ、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコ等である。また、タヌキ、キツネ、ニホンリスは、この線の南北でそれぞれ固有の亜種となっている。但し、エゾシカとニホンジカは別種と見られていたが、近年、それ程の差がないのではないか、とも言われている。1988(昭和63)年の青函トンネル(津軽海峡の海底下約100mの地中を穿って設けられた、本州の青森県東津軽郡今別町浜名と、北海道[渡島総合振興局]上磯郡知内町湯の里を結ぶ、北海道旅客鉄道[JR北海道]の鉄道トンネル)の開通により、動物が歩いて津軽海峡を渡ることが可能となり、北海道と本州北部の生態系において、変化があることが懸念されている。実際に、2007(平成19)年には、青森県でキタキツネ(北半球に広く分布するアカギツネ[ユーラシア大陸北部と北米大陸の住民にとって、最も身近なキツネで、その名の通り、毛皮は赤みを帯びた褐色を基調とする]の亜種で、日本では主に、北海道とその周辺島嶼に生息する)の生息が確認されている。