12月23日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

東京タワー完成の日。
1958(昭和33)年10月14日、東京都港区芝公園に総合電波塔である東京タワー(正式名称は「日本電波塔」)が竣工し、12月23日に完工式が開かれた。333mの高さ(より正確には332.6m、海抜351m)は、フランスの首都パリにあるエッフェル塔(建設当時の高さは312.3m)よりも約21m高く、当時では世界一のタワーであった。東京のシンボルとして知られ、展望台があり、多くの人が訪れる東京名所の1つでもある。塔脚の間隔は約88m。総工費約30億円、約1年半の期間と、延べ219,335名の人員を要して完成した。地上125m(海抜約150m)と223.55m(海抜約250m)に展望台を有したトラス構造(三角形を基本単位として、その集合体で構成する構造形式)の電波塔である。高さ60m以上の煙突・鉄塔・骨組構造等の構造物や、制限表面に近接し、航空機の航行の安全に影響を及ぼすと思われる物件等に設置される赤、又は黄赤色(インターナショナルオレンジ)と白に塗分けられた塗装、或いは旗や標示物である昼間障害標識として、頂点より黄赤色(インターナショナルオレンジ)と白色を交互に配した塗装となっている。テレビ、及びFMラジオのアンテナとして放送電波を送出、また、東日本旅客鉄道(JR東日本)の防護無線用アンテナとして緊急信号を発信する他、東京都環境局の各種測定器等も設置されている。長らく高さが日本一であったというイメージが強いが、実際に日本一高かったのは、1968(昭和43)年6月26日に東京都特別区の南南東約1,000kmの太平洋上にある30余の島々、小笠原諸島が日本に返還され、南鳥島ロランタワー(日本最東端の南鳥島にあったロラン[地上系電波航法システムの一種で、複数の送信局が同じ周波数で同期発射する信号の「到達時間差」を応用した電波航法システム]送信施設で、高さ411.48m)と硫黄島ロランタワー(小笠原諸島内の硫黄島にあったロラン送信施設で、高さ411.5m)に抜かれるまでの約9年半と、長崎県上県郡上対馬町大増(現:長崎県対馬市上対馬町大増)に設置されていたオメガ航法(地上系電波航法システムの一種で、地球上に8ヶ所ある送信局から送られてくる超長波を受信し、その位相差を測定して船の位置を知る方法)のための送信局、対馬オメガ局送信用鉄塔(オメガタワー、高さ454.83m)が解体されてから、東京都墨田区押上にある電波塔(送信所)、東京スカイツリーに抜かれるまでの約11年間である。但し、自立式鉄塔としては、東京スカイツリーに抜かれるまでの約51年半は日本一の高さであった。現在は、東京スカイツリーに次ぐ、日本で2番目に高い建造物である。東京タワーの建設前、放送事業者は個々に高さ153mから177mの電波塔を建設して、自局の塔から放送を行なっていた。しかし、この高さでは、放送電波は半径70km程度しか届かず、約100km離れた千葉県銚子市や茨城県水戸市では、満足に電波を受信することができなかった。また、受信アンテナには指向性があるため、チャンネルを変える毎に、アンテナの向きを各電波塔の方向に変えなければいけない、という不便が生じた。さらに、鉄塔の乱立は、都市景観においても好ましい状況ではなく、関係者の中で、電波塔を一本化する総合電波塔を求める機運が高まっていた。世界最大の塔を造り、そこに展望台を設けて集客すれば、建設費は約10年で元が取れる、ともされた。建設地は、安定した電波を供給するために、巨大な電波塔の建設が可能な広さと強固な地盤を有していること、魅力ある展望台のために、工場等の煙が景観を妨げないこと等、厳しい条件が求められた。当初は、東京都台東区にある上野公園付近への建設も検討されたが、海抜18mの高台にある港区芝公園地区は、基礎を打込むための東京礫層(大昔、古多摩川によって流された礫[粒径2mm以上の岩石の破片]が積もった固い地層)地盤もより浅いところにあり、国の中枢機関や各放送事業者との距離が近い等、報道と観光の両面に恵まれた立地であった。芝公園4丁目地区の周辺一帯は、建物倒壊危険度、火災危険度、避難危険度を示す地域の危険度特性評価(東京都が2002[平成14]年に実施)において「相対的に危険度の低い町」を示すAAAの評価を得ており、防災面でも、電波塔の立地に適していることが後に判明した。タワーより西側の住民は、飛行機の衝突、交通渋滞、ゴミの増加、環境が悪くなり子どもに悪影響があるのではないか、とタワー建築に反対の姿勢であった。東側は、当時の国鉄(日本国有鉄道、現在の東日本旅客鉄道[JR東日本])浜松町駅からタワーへ向かう客により潤されることを期待した。東京タワーの売上げは、観光による収入が5割を超えている。東京スカイツリーの開業後も、東京近辺を目的地とする修学旅行等における定番の行き先として定着している。また、東京タワーは地方や海外からの観光客が多く利用し、地元の東京都民は「東京タワーは『おのぼりさん』が行くところ」と、登ったことがないという人もいるため、イルミネーション等を企画して来塔者数を増やす努力もされている。東京タワーの建設に先立ち、1957(昭和32)年5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ、当時は産業経済新聞社(産経新聞社)、関西テレビ放送、大阪放送(現在のラジオ大阪)各社の社長を務めていた実業家・政治家、前田久吉により「日本電波塔株式会社」が設立された。前田久吉はタワーの建設候補地として、千葉県富津市鹿野山に山林を取得していたが、東京都港区芝公園の現在地に決定したため、これを有効活用するため、観光施設に転用し、1962(昭和37)年にマザー牧場(牧場のテーマパークで、広い園内には、牛、馬、ヤギ、羊、豚、アヒル、ダチョウ、ラマ、アルパカ等、牧畜が多種飼育され、触合いを売りにしており、東京湾を一望可能な観覧車を擁する遊園地や、マザー牧場オリジナルの乳製品やハム、ソーセージ等を扱った土産物店、ジンギスカン鍋レストラン、いちご狩り、ブルーベリー狩り、フルーツトマト狩りが楽しめるフルーツ農園、長期滞在もできる宿泊コテージ等がある)を開設、グループ企業としている。因みに、「マザー」の名の由来としては、生家が貧しい農家であった前田久吉の母親が、「家に牛が1頭でもいたら、暮らしはずっと楽なのに」と口癖のように言っていたことが心に残り、母に捧げる牧場、ということで名付けられた。1964(昭和39)年、「日本電波塔株式会社」は、敷地内に東京タワー放送センター(現在の東京タワーメディアセンター)を建設し、同年開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継したテレビ東京が、1985[昭和60)年まで本社として使用していた。東京都品川区東品川に所在する、ハイビジョン対応のテレビスタジオ、テレビ東京天王洲スタジオ完成後の2000(平成12)年より、「日本電波塔株式会社」による自主運営となり、2005(平成17)年7月には、子会社「株式会社東京タワー芝公園スタジオ」(後に「株式会社東京タワースタジオ」)に移管され、2012(平成24)年に閉鎖されるまで、テレビスタジオとして利用された。なお、「東京タワースタジオ」閉鎖後、内部改装を施して、「東京タワーメディアセンター」に名称を変更し、各種イベント等に使用されている。