12月23日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2023年 令和5年 平成35年 
昭和98年 大正112年 明治156年 皇紀2683年 干支 癸卯(みずのと う)
第4土曜日 旧暦 11月11日、先負(乙卯)、月齢 10.1  
グレゴリオ暦で年始から357日目、年末まであと8日。
誕生花 シネラリア・プラタナス・カトレア。

上皇の誕生日(平成時代の天皇誕生日)。
天皇誕生日は、国民の祝日の1つで、「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」第2条によれば、「天皇の誕生日を祝う」ことを趣旨としている。今上天皇(現に在位する天皇)の誕生日を祝う日である。天皇誕生日は、慣例により日本の国家の日(ナショナル・デー)とされる。第二次世界大戦までは、天長節と呼ばれていた。1989(平成元)年から2018(平成30)年までは、12月23日が国民の祝日、天皇誕生日であった。1933(昭和8)年12月23日午前6時39分、第125代天皇、上皇明仁(当時の皇太子継宮明仁親王)が誕生したことによる。宮城(東京府東京市麹町区宮城、現在の東京都千代田区千代田に所在する皇居)内の産殿で誕生し、第124代天皇、昭和天皇とその皇后、香淳皇后の第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。国内の沸立ち方は並々ならぬものがあり、北原白秋(詩人・童謡作家・歌人で、生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表する等、近代の日本を代表する詩人で、近代日本を代表する詩人・作詞家である三木露風と並び、活躍した時代は「白露時代」と称された)作詞・中山晋平(多くの傑作と言われる童謡・流行歌・新民謡[地方自治体や地方の企業等の依頼によって、その土地の人が気軽に唄ったり踊ったりでき、愛郷心を高めるため、また、その地区の特徴・観光地・名産品等を全国にPRする目的で制作された歌曲]等を残した作曲家)作曲で奉祝歌「皇太子さまお生まれなつた」まで作られた程である。1952(昭和27)年11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼(内外に皇嗣たる皇太子[皇位継承の第一順位にある皇子]に就任したことを宣言する儀式)と皇太子成年式が挙行された。即位は、1989(昭和64)年1月7日。日本国憲法施行後、初めて即位した天皇であり、また、京都ではなく東京で即位の礼を執り行なった初めての天皇である。天皇誕生日に関して宮中では、祝賀の儀、宴会の儀、茶会の儀、一般参賀が行なわれる。また、 三重県伊勢市にある神宮(正式名称は地名の付かない「神宮」で、「伊勢神宮」とは通称であり、他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される)等の神社では天長祭が行なわれる。海上自衛隊では、基地や一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾(軍艦が祝祭日・記念日・式典等に際して祝意を表わすために、艦首からマストを通して艦尾までの旗線に、信号旗等の旗を連ねて掲揚して飾ること)が行なわれる。皇后の誕生日は地久節(古代中国の哲学者、老子の「天長地久[天地の存在は永遠であることで、天地が永久であるように、物事がいつまでも続くことの例え]」から天長節との対比となっている)と呼ばれるが、第二次世界大戦前から国家の祝日にはなっていない。諸外国の国王誕生日と同様、在位中の天皇の誕生日に合わせて移動する(共和制国家では、初代大統領の誕生日だけが祝日指定になっていることが多い)。天長節の名は古く、8世紀に絶頂期を迎えた中国唐朝の第9代皇帝、玄宗の誕生日を天長節と祝ったことに由来する。729(天平元)年に「千秋節」と改められたが、20年後の749(天平21)年には「天長節」に再び改められた。日本においては、27年後の775(宝亀6)年の第49代天皇、光仁天皇の時代、10月13日に天長節の儀が執り行なわれ、臣下は天皇の好物の酒を献上し、宴を賜ったという。その後、779(宝亀10)年の記録にも見受けられる等、平安時代初期には既に執り行なわれていた。室町時代の記録としては、主に天皇の日常の動向が記述の中心となっている、御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記『御湯殿上日記』に、天長節の記述がある。天長節が国家の祝日として表舞台に戻るのは、1868年11月6日(明治元年9月22日)に天長節として祝った時である。同年8月26日には「九月二十二日ハ聖上ノ御誕辰相当ニ付毎年此辰ヲ以テ群臣ニ酺宴ヲ賜ヒ天長節御執行相成天下ノ刑戮被差停候偏ニ衆庶ト御慶福ヲ共ニ被遊候思召ニ候間於庶民モ一同嘉節ヲ奉祝候様被仰出候事(慶応4年7月9日太政官布告第679号)」と布達されている。1868(明治2)年9月には各国公使を延遼館(幕末に幕府の海軍所施設として建造された建物が基礎となっている日本初の西洋風石造建築物で、現在の東京都中央区浜離宮庭園にある浜離宮内の迎賓館として整備され、多くの国賓を迎えた)に呼寄せ、酒饌(酒と食べ物)を賜い、1869(明治3)年9月には諸官員、非職員、華族(近代日本の貴族階級)等の拝賀があって、勅任官(高等官の一種)は禁中(天皇が住む宮中)で、奏任官(高等官の一種で、勅任官より下位の官職)以下は各官省で酺宴(祝宴)を賜い、諸軍艦で祝砲が撃たれた。天長節の儀礼が整ったのは1872(明治5)年で、同年の天長節の勅語で「茲ニ朕カ誕辰ニ方リ群臣ヲ会同シ酺宴ヲ張リ舞楽ヲ奏セシム汝群臣朕カ偕ニ楽シムノ意ヲ体シ其ノ能ク歓ヲ尽セヨ」と宣した。次いで、奏任官以上の総代として、明治政府の最高首脳人物の1人である太政大臣三条実美が、華族総代として第122代天皇、明治天皇の外祖父に当たる従一位中山忠能がそれぞれ奉答した。1873(明治6)年の太陽暦採用後、11月3日に変更され、同年10月14日の公布の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年10月14日太政官布告第344号)」によって国家の祝日と規定された。その後、即位した天皇の誕生日に合わせて天長節が定められた。1948(昭和23)年まで「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」や「休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)」等、太政官布告や勅令によって具体的な日付で規定された。第二次世界大戦前は、新年・紀元節・明治節と共に四大節の1つとして、盛大に奉祝されていた。但し、7月30日に第122代天皇、明治天皇崩御、第123代天皇、大正天皇践祚となった1912(明治45/大正元)年は、11月3日(明治天皇誕生日)を予定していた天長節を、8月31日(大正天皇誕生日)に変更する手続きが9月4日になった、という経緯から天長節がなかった。第123代天皇、大正天皇の誕生日は8月31日であるが、1914(大正3)年以降、まだ残暑の厳しい時期に各々の式典をこなすのは難しいために2ヶ月ずらし、本来の誕生日を避ける形を取った。休日(祝祭日)としては、8月31日が天長節、10月31日が天長節祝日という名称となり、8月31日は行事こそ行なわれなかったものの、休日であることに変わりなく、天皇誕生日に関する休日が大正期は年2回となっていた。第二次世界大戦後の1948(昭和23)年に「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」が制定され、1949(昭和24)年以降は天皇誕生日として国民の祝日と定められている。天皇誕生日による休日は、法律によって日が規定される。即ち、皇位継承によって天皇誕生日が自動的に移動・変更される訳ではなく、法改正をする必要がある。殆どの場合、先帝誕生日と新帝誕生日が異なるため、先帝崩御日 - 新帝誕生日 - 先帝誕生日の時系列になる場合では、1912(明治45/大正元)年のように法改正が新帝誕生日に間に合わなかったり、先帝崩御日と新帝誕生日が余りに近接していると、諒闇(天皇が、その父母の崩御に当たり喪に服する期間)の兼合いも生じる。また、新帝誕生日 - 先帝崩御日 - 先帝誕生日の時系列になる場合は、必然的に天皇誕生日による休日がない年になる。