12月19日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2023年 令和5年 平成35年  
昭和98年 大正112年 明治156年 皇紀2683年 干支 癸卯(みずのと う)
第3火曜日 旧暦 11月 7日、大安(辛亥)、月齢  6.1
グレゴリオ暦で年始から353日目、年末まであと12日。
誕生花 ストロベリーキャンドル・スノーフレーク。

仏名会。
774(宝亀5)年、現在の京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している、平安京の内裏(天皇の私的区域で、御所、 禁裏、大内等の異称がある)における殿舎の1つで、天皇の日常生活の居所である清涼殿に、僧を召して行なわれたことが始まりで、「御仏名」「仏名懺悔」とも呼ばれる。過去・現在・未来の三千の仏名を唱え、その年の罪障(往生・成仏の妨げとなる悪い行為)を懺悔し、国家の安寧、皇室の息災等を祈願した法会で、845(承和12)年に宮中の恒例行事となった。煤払いは家の掃除、仏名会は心の掃除と言われる。室町時代まで恒例の行事として清涼殿で行なわれた。その後、各地に広まり、寺院等で行なわれるようになった。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行なわれる建物として知られる、奈良市雑司町に所在する東大寺二月堂では、途絶えていたものを大正年間に再興した仏名会が、12月中旬の3日間に行なわれる。薬師如来(過去)・釈迦如来(現在)・阿弥陀如来(未来)を主尊とするそれぞれ一千の仏像を描いた大きな掛け軸を3本、二月堂礼堂正面に掲げて、その前で「過去」「現在」「未来」いずれかの一千仏に、僧侶が礼拝を行なう。従って、3年掛かりで、「過去」「現在」「未来」の三千仏を巡ることになる。 
日本初飛行の日(日本人初飛行の日)。
1910(明治43)年12月19日、東京にある代々木錬兵場(現在は、東京都渋谷区代々木神園町に所在する都市公園、代々木公園となっている)で陸軍工兵大尉徳川好敏が、軍公式の飛行試験で、日本で初めて飛行に成功した。徳川好敏大尉が使用したのは、フランスで製作された推進式の複葉機、ファルマン III(アンリ・ファルマン複葉機)であった。なお、これが公式記録とされるが、実際には、5日前の12月14日に滑走試験中であった、陸軍歩兵大尉日野熊蔵が飛行に成功していた。公式の飛行実施予定日ではなかったため、「滑走の余勢で誤って離陸」と報告されたからである。日野熊蔵大尉は、ドイツ製のグラーデII型単葉機を操縦して12月19日にも飛行に成功しているが、離陸順が徳川好敏大尉が先とされたため、徳川好敏大尉が日本初、となっている。事前の報道においては、当時天才発明家等と報道されていた日野熊蔵大尉の方が、派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川好敏大尉には、直前まで殆ど取材活動をしていなかった。徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家(江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家、御三卿の1つ)の徳川好敏大尉に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという、軍、及び華族関係者の意向・圧力があったとする説がある。しかし、例え名家の出身であっても、陸軍の方針として、軍内部での扱いは平民と同じであることが原則であったため、この批判は適切ではないとする意見もある。以降、徳川好敏大尉は、陸軍の航空機畑の看板として順調に昇進し(軍人としての最終階級は陸軍中将)、一方の日野熊蔵大尉は、1911(明治44)年)から翌年にかけて、自身が機体・エンジン共に設計した日野式飛行機の開発までをも行なうが結局は失敗。その末に福岡に左遷され、以降、軍務において航空機関連に用いられることはなかった。1903(明治36)年12月17日、アメリカ合衆国南東部、ノースカロライナ州キルデビルヒルズで、ライト兄弟が飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した。以後、飛行機は、より速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が続けられた。また、陸上の飛行場だけでなく、海面や軍艦の甲板からも発進できるようになっていった。この時代の機体構造は、ライト兄弟が使用した『ライトフライヤー号』と同じく、木製の骨組に羽布張りが主体であった。また、操縦桿による操縦方法も、現在と同じ方式に統一されていった。1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦、第一次世界大戦では、飛行機は最初、偵察機として使用された。当初、敵の偵察機と遭遇しても「同じパイロット仲間同志」としてハンカチを振合ったという逸話があるが、すぐにピストルを撃合うようになり、武器自体も機関銃へと進化して、戦闘機が生まれた。また、敵地上空まで飛び、爆弾を落とす爆撃機も誕生した。イギリスは、世界最初の雷撃機を製造した。一部の機体では、骨組みや外板に金属が用いられるようになった。飛行機は、第一次世界大戦で大きく発展し、信頼性も向上した。そこで戦後は、飛行機による本格的な輸送が開始された。最初は、上流階級による旅行のための旅客機や郵便運送に利用されたが、機体が大型化するにつれて、一般の金持ち階級も利用できるようになっていった。大洋を渡る路線や長距離を飛ぶ大型機としては、離着陸や万が一の際に広大な海面が利用できる飛行艇が充当された。骨組や外板全てをアルミニウム合金(ジュラルミン等)で製作した全金属製の機体が開発されたが、鋼管骨組に羽布張り等の構造を持つ機体も残っていた。また、1930年代には高揚力装置(フラップ)が実用化され、離着陸特性が改善された。第二次世界大戦で飛行機は、戦闘の主役となった。陸上・海上を問わず、制空権を握った側が戦いに勝利した。第二次世界大戦末期に実用化されたジェットエンジンは、直ちに軍用機に採用され、戦闘機や爆撃機はジェット化されていった。また、後退翼や三角翼に関する技術も、ドイツ敗戦直後にソビエト連邦とアメリカに流出し、戦闘機や爆撃機の高速化に貢献した。レシプロエンジン爆撃機や直線翼ジェット戦闘機は、1950(昭和25)年から1953(昭和28)年まで、朝鮮半島の主権を巡り争われた朝鮮戦争でその使命を終了した。それまで超えることができないと考えられていた音の壁は、アメリカのロケット実験機ベル X-1 により突破され、その後は超音速飛行が可能な戦闘機が続々と製作された。民間航空のジェット化はイギリスが先鞭を付けたが、その後は大量のアメリカ機に圧倒されていった。飛行機の大型化・高速化に伴ない、人力による直接の操縦は不可能となり、油圧アクチュエータ(エネルギーを回転運動に変換する駆動装置)を介して舵面を操作する方式が一般化した。アメリカのボーイング社(現在、アメリカで唯一の大型旅客機メーカーであり、世界最大の航空宇宙機器開発製造会社でもある)が開発・製造する大型旅客機のシリーズ、ボーイング747は、初飛行が1969(昭和44)年であった。世界初のワイドボディ機(客室1階に通路が2本あるもの)であり、大量輸送によって、それまで一般庶民にとって高嶺の花であった航空旅行、特に、国外旅行の大衆化を可能にした画期的な機体で、基本設計から半世紀以上が経過した現在においてもなお、大型民間航空機の一角を占めている。また、外部から電波による支援を得ることなく、搭載するセンサ(慣性計測装置)のみによって、自らの位置や速度を算出する、慣性誘導装置を民間機で最初に採用した。