12月9日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0536年 - 東ローマ帝国(東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域)の将軍フラウィウス・ベリサリウスが、東ゴート王国(現在のイタリアのほぼ全域を支配下においていた国)のローマ(現在のイタリアの首都)に入城。フラウィウス・ベリサリウスは、少ない兵力で勝利を続ける等、用兵に長けていたが、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世に嫉妬され、司令官を何度も解任された後、隠棲生活に追込まれ、不遇な生涯を送っている。 
0887年 - 藤原基経が、初の人臣(皇族以外の者)関白に就く。平安時代前期の公卿(司法・行政・立法を司っていた最高国家機関、太政官の最高幹部として国政を担う職位)、藤原基経は、第56代天皇、清和天皇から、その皇子の第57代天皇、陽成天皇、第54代天皇、仁明天皇の第三皇子であった第58代天皇、光孝天皇、光孝天皇の第七皇子であった第59代天皇、宇多天皇の四代に亘り朝廷の実権を握っている。宇多天皇は大政を藤原基経に委ねることとし、「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」との詔(天皇の命令)を発する。関白の号は、ここで初めて登場する。実質上の公家の最高位であった関白は、成人の天皇を補佐する官職である。天皇が幼少、又は病弱等のために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者は、あくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議等を通じて合意を図りながら、政務を進めることが基本となる。大抵の場合、摂政が引続き関白となる例が多い。関白の語源は、天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ている。なお、関白職を子弟に譲った前関白を唐名で太閤と呼び、太閤は出家すると禅閤と呼ばれる(禅定太閤の略)。関白職の初任者は、藤原基経で、続いて、関白に任命されたのは、約半世紀後の藤原基経の四男、藤原忠平である。太政官の長官、太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた藤原基経の長男、藤原時平は、若くして栄達するが、父の藤原基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇は親政を始め、皇親(天皇の親族)である源氏や学者の菅原道真を起用する。宇多天皇の長男に当たる第60代天皇、醍醐天皇が即位すると、菅原道真と共に左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に菅原道真を讒言して大宰府へ左遷させる。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳で死去している。藤原時平の死後、藤原忠平が嫡家を継ぎ、醍醐天皇の下で出世を重ねる。醍醐天皇の第十一皇子が、第61代天皇、朱雀天皇として即位すると、藤原忠平は新帝が幼少であるため、摂政に任じられる。朱雀天皇が元服した時に摂政を辞すが、詔して引続き万機を委ねられ、関白に任じられている。これが記録上、摂政が退いた後に引続き関白に任命されたことが確認できる最初の例である。 
1425年 - ベルギー中北部にあるルーヴェンに、ルーヴェン・カトリック大学が創立される。中世において、既に主要な大学の1つとして有名であったルーヴェン・カトリック大学は、現代人体解剖学の創始者とされるベルギーの医師・解剖学者、アンドレアス・ヴェサリウスが教鞭を取り、三角測量(基線の両端にある既知の点から、測定したい点への角度をそれぞれ測定することによって、その点の位置を決定する方法)を発展させたオランダの数学者・地図製作者、ゲンマ・フリシウスや、等角航路(地球上の2点間を結ぶ航路の内、進行方向が経線となす角度が常に一定となるもの)が直線で表わされるため、海図・航路用地図として使われてきた、地図に使われた投影法(三次元立体の表面を、二次元の平面上に表現する方法)、メルカトル図法で有名なベルギーの地理学者、ゲラルドゥス・メルカトルらも学び、また、教えている。
1851年 - 北アメリカ州初めてのキリスト教青年会(YMCA)が、カナダ東部、ケベック州モントリオールに設立される。なお、1844年にイギリスの首都ロンドンで創立されたキリスト教青年会(YMCA)は、キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化等の分野の事業を展開する非営利公益団体である。 
1872年 - 明治改暦。明治政府が、この年の12月31日(12月2日[旧暦])の翌日から、月の満ち欠けの周期を基にした暦、太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦、太陰太陽暦を廃止して、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にして作られた暦、太陽暦(グレゴリオ暦)の採用を決定する。「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(改暦ノ布告、明治5年11月9日太政官布告第337号)」が公布され、社会的な混乱をきたす。暦の販売権をもつ弘暦者(同年には、現在の三重県伊勢市にある、伊勢神宮に関する事務を行なう機関、神宮司庁が奉製し、頒布している暦、官暦[正式には本暦といい、一般向けに、小型にして日常生活に必要な項目だけを記載した、略本暦もある]の発行を独占的に行なっていた組織、頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年も既に、翌年の暦が発売されている。急な改暦によって、従来の暦は返本され、また、急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を被ることになる。一方、「近世の教育に功績ある故教育家の代表者」として顕彰された6名の教育家、明治六大教育家の1人として列される、著述家・啓蒙思想家・教育者、福沢諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと、直ちに、改暦を易しく解説する書籍『改暦弁』を著して、改暦の正当性を論じる。太陽暦施行と同時の1873年1月1日付けで、慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れ、内務官僚(地方行財政と警察行政の総括官庁である内務省[現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身]の高官)の松田道之に宛てた福沢諭吉の書簡(1879年3月4日付)には、このできごとを回想して、「忽ち10万部が売れた」と記している。これ程の急な新暦導入が行なわれた理由として、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。旧暦のままでは、明治6年は閏月があるため、13ヶ月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば、閏月はなくなり、12ヶ月分の支給で済む。また、明治5年12月は、2日しかないことを理由に支給を免れ、結局、月給の支給は11ヶ月分で済ますことができる。当時は、1と6の付く日を休業とする習わしがあり、これに節句等の休業を加えると、年間の約4割は休業日となる計算であったが、新暦導入を機に、週休制に改めることで、休業日を年間50日余りに減らすこともできる。このような事情から、明治改暦が断行された訳である。なお、この明治改暦には、グレゴリオ暦の肝心な要素である、「400年に3回、西暦年数が100で割切れるが、400で割り切れない年を、閏年としない」旨の規定が欠落しており、このままでは、導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて、日付が12日ずれているため、ユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。そこで、1898年には、改めて「閏年ニ關スル件(明治31年5月11日勅令第90号)」を公布し、修正を行なっている。