12月7日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

神戸開港記念日。
兵庫県神戸市が制定。1867(慶応3)年12月7日(新暦1868年1月1日)、神戸港が外国船の停泊地として開港した。なお、新暦に換算した1月1日も、「神戸港記念日」となっている。神戸港は、兵庫県神戸市にある六甲山(六甲山系)の連なる山々から大阪湾に至る急峻な地形によって、水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる、日本を代表する国際貿易港で、「港湾法(昭和25年5月31日法律第218号)」上の国際戦略港湾に指定されている。 日本の主要な国際貿易港(五大港)の1つで、スーパー中枢港湾(アジアの主要港に比べて国内港のコンテナ取扱量が低迷していることから、国土交通省が全国で数港を指定し、国際拠点港として育成する施策)の指定を大阪港と共に受けている。東京港、北九州港と並ぶ現在の日本三大旅客港の1つである。その歴史は、12世紀頃の大輪田泊(おおわだのとまり)や13世紀頃の兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港に始まり、かつての都であった奈良や京都と、日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古くから栄えてきた。また、商業や工業が集積する大阪に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には阪神工業地帯の輸出港としてコンテナの取扱個数が世界一になる等、世界有数の港として知られていた。日本の物流機能に対する役割を担うために、オーバーパナマックス船(パナマ運河を通過できない大きさのコンテナ船)への対応をした国内初の大水深高規格コンテナバースの供用の開始や、1960年代から行なわれたポートアイランド(当時、世界最大の人工島)、六甲アイランドの建設やメリケンパーク、神戸ハーバーランドといった観光や商業施設の開発、沖合いに神戸空港を開港する等、日本のウォーターフロント開発の先駆けとなるものも多く、各地に与えた影響は小さくない。また、後背地たる神戸の市街地は、明治時代に外国人居留地として整備された建造物が数多く残っている他、エキゾチックな市街地の雰囲気や、神戸の夜景スポットとして非常に有名なハーバーランドやメリケンパーク周辺は、観光地としても人気が高い地域となっている。後白河法皇(第77代天皇、後白河天皇が譲位・出家して引続き政務に当たっていた時[院政]の称号)が日宋貿易(10世紀から13世紀にかけて行なわれた日本と中国宋朝との間の貿易)の発展を目論んで、摂津の大輪田泊を修築した際、結果として日宋貿易によって財政基盤の開拓を行ない、日本初の武家政権を樹立した平安時代末期の武将、平清盛は、隣接地の福原(現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部に相当)に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河法皇と平清盛が共同して、日宋貿易に取組んでいたことを示している。平清盛は、若い頃から西国の国司(地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏)を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。また、瀬戸内海の海賊を平氏勢力下の水軍に編成して、瀬戸内海交通の支配を強めていった。平清盛は、大輪田泊の修築を行ない、交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で人工島「経が島」を建設し、日宋貿易の拠点とした。「経が島」は、山を切崩した土で海を埋立てたもので、日本初の人工島造成とされる。日本経済が飛躍的に成長を遂げた1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間の時期である高度経済成長期には、各地の臨海工業地帯で埋立造成が進んだが、特に、神戸市では「山、海へ行く」と言われた、丘陵を切崩した土砂で海面埋立を行なうことで、同時に土地造成を図る事業が行なわれた。これによる埋立地が、ポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港である。こうした土地造成を図る事業は、平清盛の事業が嚆矢(ものごとの始まり)であったと言える。神戸港は鎌倉時代には、浄土宗の開祖法然に学んだ僧侶、重源が港の改修を行ない、国内で第一の港として「兵庫津」と呼ばれた。室町時代に、兵庫津は日明貿易(室町時代に日本が中国明朝と行なった貿易)の拠点として、再び国際貿易港としての地位を得る。江戸時代には、鎖国政策の下で兵庫津は、西廻り航路の北前船や内海船の要港、朝鮮通信使の寄港地として栄え、1万名前後の人口を誇る。また、灘五郷として、酒造りが活発になった所でもある。1863(文久3)年、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、当時の将軍であった徳川家茂に建白した。翌1864(元治元)年、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが、勝海舟の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」は閉鎖になった。1867(慶応3)年12月7日(新暦1868年1月1日)、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった辺りが、日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約、「日本国米利堅合衆国修好通商条約(日米修好通商条約)」で定められた開港地として、事実上の「兵庫港」として開港が実現した。「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなかったが、公文書に於いては、開港直後の1868(慶応4/明治元)年には、「神戸港」の名称が既に現れている。やがて、外国人の手によって居留地ができ始め、西洋文化の入り口として発展し、「神戸」の名が著名になっていった。政府の富国強兵策による近代化で工業が貿易と共に興り、神戸は次第に、大阪と共に阪神工業地帯を形成していく。1894(明治27)年7月から1895(明治28)年3月にかけて行なわれた、主に朝鮮半島(李氏朝鮮)を巡る日本と清国(中国清朝)の戦争、日清戦争後には、中国南部にある香港や、中国東部にある上海を凌ぐ東洋最大の港となって海運業が隆盛、イギリスの首都ロンドン、アメリカ合衆国北東部にあるニューヨーク、ドイツ北部にあるハンブルクと並ぶ世界四大海運市場として、世界に名を知られるようになっていった。第二次世界大戦での敗戦により、神戸港は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収される。1951(昭和26)年に占領は解除となるが、接収解除は段階的なものとなり、最後まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されていた新港第6突堤が返還されたのは、1974(昭和49)年のことである。アジア最大のマザーポート(ハブ港)としての地位は、第二次世界大戦後も揺るがず、日本の高度成長期の発展を支えた。1967(昭和42)年に日本初のコンテナターミナルを備えた摩耶埠頭が竣工。1973(昭和48)年から1978(昭和53)年までコンテナ取扱個数は世界一を誇り、常に最先端の港湾設備を持つ、世界有数の国際貿易港として栄えた。1995(平成7)年には兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)によって甚大な被害を受けるが、約2ヶ月後の3月20日には、摩耶埠頭でコンテナの積下ろしが再開される。約2年後の1997(平成9)年3月31日には全面復旧し、5月19日に神戸港復興宣言が出される。しかし、近隣アジア諸港から集荷していたトランシップ貨物は、アジア諸港のコンテナターミナルが急速に拡充され始めたことで、既に1990年代初めから減少傾向に転じていて、これが震災によって、韓国南部にある釜山港等へのシフトが加速した。震災前までは、コンテナ取扱量で世界第3位の地位を得ていた国際ハブ港であったが、釜山港にハブ機能を譲り渡した格好となった。大型化する船舶のための十分な水深を、神戸港が実現できなかったことが直接的な最大の原因であるが、その本質は、復興予算が不十分であり、震災後傷付いた港を国際ハブ港の条件を満たすように、ドラスティックに(徹底的に、思い切って)復興させる工事を実現できなかったことが原因と言われている。現在では、大阪港と連携しながら、コンテナ物流面での国際競争力強化を図るスーパー中枢港湾の指定を受け、ポートアイランド2期コンテナターミナルの一部を対象に、行政支援策が注入されている。