12月6日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

1240年 - モンゴルのルーシ侵攻: モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンの孫に当たる、バトゥ率いるモンゴル軍により、キエフ(現在の東ヨーロッパに位置するウクライナの首都、キーウ)が陥落し、キエフ大公国(キエフを首都とした東ヨーロッパの国家)が滅亡する。 
1648年 - プライドのパージ。イングランドで発生したクーデターで、ニューモデル軍(議会派の軍隊)が長期議会(ステュアート朝イングランド王国第2代国王、チャールズ1世が、スコットランドの反乱鎮圧軍費を用立てる課税を承認させるために召集した議会)に対して、下院少数派の独立派の協力を得てクーデターを起こし、下院多数派の長老派議員を追放し、残った議員達でランプ議会(臀部議会)を形成、以後の展開を急進的な方向で進めていく。「プライドのパージ」という呼び名は、クーデターの実行者トマス・プライド陸軍大佐に因んで名付けられている。 
1768年 - 『ブリタニカ百科事典』第1版が発行される。『ブリタニカ百科事典』は、110名のノーベル賞受賞者と、5名のアメリカ合衆国大統領を含む4,000名以上の寄稿者と、専任の編集者約100名によって書かれており、学術的に高い評価を受けている。英語の百科事典としては最古のものであり、今もなお製作されている。1768年から1771年にかけて、イギリス中部(スコットランド南部)のエディンバラで、3巻の百科事典として発行されたのが始まりである。収録された記事は増えていき、巻数は第2版で10巻、第4版(1801年から1810年)では20巻となる。学術的な地位の向上は、高名な寄稿者を招くのに役立ち、第9版(1875年から1889年)と第11版(1911年)は、文体と学術的知識において画期的なものとなる。版権がアメリカに移った第11版からは、北アメリカ市場に売込むため、短く簡潔な記事となっていく。1933年、「ブリタニカ」は百科事典としては初めて継続的な改訂が行なわれるようになっている。2012年3月、発行元であるアメリカの出版社、エンサイクロペディア・ ブリタニカ社は、紙の書籍としての発行を取止め、オンライン版『ブリタニカ・オンライン』に注力すると発表する。2010年に32巻で印刷されたものが、紙の書籍としては最後となっている。第15版には1972年より、日本語版があり、『ブリタニカ国際百科事典』として出版されているが、2003年以降は、紙媒体での日本語版は発行されていない。 
1865年 - 公式に奴隷制を廃止するアメリカ合衆国憲法修正第13条が、27州の批准により成立する。 
1877年 - アメリカの電気技術者で発明家のトーマス・エジソンが、自身が発明した蓄音機で初めて人の声を録音する。 
1877年 - アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.の新聞(地方紙)『ワシントン・ポスト』が創刊される。『ワシントン・ポスト』は、ワシントンD.C.の地方紙であるが、世界的影響力を与える「高級紙」の部類であり、新聞の読者も、アメリカ合衆国の高学歴層が大半である。
1914年 - 1912年に、日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した作曲家・指揮者、山田耕筰によって作曲された、日本で最初の交響曲、交響曲ヘ長調『勝鬨と平和』が初演。山田耕筰の作品である『序曲 ニ長調』に続いて、2番目の管弦楽曲でもある『勝鬨と平和』の名称の由来は、初演直前に第一次世界大戦が勃発したためと言われる。1912年11月8日にドイツの首都ベルリンで、ベルリン高等音楽学校の卒業作品として完成され、1914年12月6日、帝国劇場(現在の東京都千代田区丸の内に所在する、1911年に創設された日本初の西洋式演劇劇場)における、東京フィルハーモニー会第14回演奏会において、作曲者山田耕筰の指揮により初演となる。『勝鬨と平和』は、19世紀のクラッシック音楽の潮流で、古典派音楽(18世紀後半から19世紀前半の「ウィーンで開花した形式美」とされ、16世紀末から18世紀中頃までのバロック時代の複雑な音楽形態から、すっきりとした単純な音楽形態へと変化させたもの)の音楽を発展させた音楽、後期ロマン派の流れを汲んだ作品で、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家ロベルト・シューマンや、ロマン派音楽の範疇に属するが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い19世紀ドイツの作曲家・ピアニスト・指揮者、ヨハネス・ブラームス、オーストリアの作曲家で、各分野に名曲を残したが、特にドイツ歌曲において功績が大きく、「歌曲の王」と呼ばれることもある、フランツ・ペーター・シューベルトを思わせる。 
1917年 - 北ヨーロッパに位置するフィンランドが、ロシアからの独立を宣言する。 
1917年 - ハリファックス大爆発。カナダ東部、ノバスコシア州にあるハリファックス港で、軍用火薬を積んだフランス船籍の貨物船『モンブラン』と、ベルギー船籍の貨物船『イモ』が衝突し、『モンブラン』船上にあったドラム缶入りのベンゾール(石油化学製品の基礎原料で、溶剤等に使用される)に着火し、それが船倉のトリニトロトルエン(TNT)、ピクリン酸、綿火薬等、約2,600tの火薬類に燃え移る。火災を起こした無人の船は、その後ハリファックス港の波止場に流れ着き、約25分後に大爆発する。集まっていた消火隊、救助隊、見物人等約2,000名が死亡、約9,000名が負傷し、ハリファックス市街地の大半は廃墟となる。 
1918年 - 「大学令(大正7年12月6日勅令第388号)」と「高等学校令(第二次高等学校令、大正7年12月6日勅令第389号)」が公布される。単科大学・私立公立の大学・高校を認可する。「大学令」が施行された1919年には1校、続いて1920年には10校が法的に大学として認可され、以後も認可が行なわれ、1950年まで「大学令」に基づく専門学校の大学昇格が認可されている。第二次世界大戦後の1947年、「学校教育法(昭和22年3月31日法律第26号)」の施行と共に「大学令」は廃止され、新制大学が成立する。教育内容が現在の大学教養課程に相当する旧制高等学校について定めた「第二次高等学校令」が、公布の翌年となる1919年に施行されて、新潟高等学校、松本高等学校、(再興)山口高等学校、松山高等学校の4官立高等学校が設立され、これ以降、全国各地でも従来の官立に加え、公私立の高等学校が相次いで増設されている。高等学校の数は、大正時代中期以降の大学増設に伴なって次第に増加しており、1943年度には官立・公立・私立を合わせて33校、在学者数は2万6,600名余を数えている。「第二次高等学校令」は、「学校教育法」の施行と共に廃止され、旧制高等学校は、その多くが新制大学の教養学部や文理学部に吸収されることとなる。 
1921年 - 英愛条約締結。大英帝国内の自治国として、アイルランド自由国の建国が決定。 
1922年 - 英愛条約に基づき、アイルランド自由国が建国される。アイルランド自由国は、ヨーロッパ大陸の北西、大西洋沖に位置するアイルランド島32州の内、南部26州がイギリス(グレートブリテン=アイルランド連合王国)より分離し、成立した立憲君主制国家で、1937年には国名をアイルランド(エール)と改称し、共和制に移行している。
1927年 - 政治雑誌『労農』が創刊され、第二次世界大戦前の非日本共産党系マルクス主義者集団、労農派が誕生する。労農派に参加した者の多くが、1938年2月の第2次人民戦線事件で、人民戦線(反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を共同目標とする集団)の結成を企てたとして検挙されている。