焼き肉は食い放題、酒は飲み放題、そして今や

安い会費で、雑誌は読み放題、音楽は聴き放題。

ああホント、いい世の中になりました。

 

だけどこれは「ものづくりの国」だったはずのわが日本国で

ものづくりが、これほどまでに低く見られるようになったか、

という、もののつくり手の嘆きに支えられた「良き風潮」にほかならない。

 

作り手はいっぱいで、ものが溢れる昨今。

終戦後のものがなく、ものがありさえすれば売れるという時代とはまったく逆。

つくっても売れない。競争相手は星の数。

 

そういうところに、「オレが売ってやるから、黙ってオレの言うことを聞け」

みたいな事業者が現れる。

 

つくり手は、いわゆる「背に腹は代えられない」というわけで

最初は激しく抵抗していたはずなのに、結局は根負け。

 

有を生み出す才能よりも、

狡猾なシステムを整え、自分は何も生まずに、

人の生んだものを、右から左へと「流通」させる輩が、

居座りのままで、あぶく銭。

 

「人の褌で相撲を取るな」なんて説教はどこへやら。

今や、人の褌をたくさん集めた者が堂々、勝ち組の仲間入りを成し遂げる。

 

この構図、今話題沸騰の五輪スポンサー贈収賄疑惑にも通じますな。

 

例の高橋某という容疑者は、オレの一言で五輪が中止にならず、開催にこぎ着けた

などと、捜査員に対してもドヤ顔を押し通したというが、

五輪で偉いのは出場する選手たちであって、

組織委とやらは、選手たちの下僕に徹していればいい。

そうしておけば、やがては全出場選手や、全世界の五輪観戦者から称賛を浴びられるのに。

 

小生意気が度を超して、善良な小市民ならまずはめることのできないような
オシャレな腕輪をはめられるはめになったわけだが、
今望まれるのは、法律の許す範囲で、最大の刑を差し上げ奉っていただきたい。
ただそれだけだ。
江戸時代なら、市中引き回しの上、磔獄門だったと思うと悔しいが。

 

話を戻すと、何事も「放題」で、得した気分になっていると

最後に泣きを見るのは「ものづくり立国」の国民全員

ということになりはしまいか。

「地の縁」というものが希薄になり、
リアルな人間関係でも、
相手が信頼できるかどうか、信頼関係がいつまで続くかわからない。
都会を中心に、他人行儀がデファクトスタンダードとなる中、
表面的な人間関係しか生まれなくなる。

そういう中で、付き合う相手を、
自室にいながら探すことのできるSNSが利用者数を伸ばしている。
不特定多数の中から「良し」と思われる相手とのマッチングを支援するため、
AIが活用されるようになる。
コミュニケーションビジネスはますます隆盛。

このままだと、眼力や嗅覚が衰えるのは目に見えている。
しかし、この流れは止められるか。

ネットやAIの力で、本当に信頼できる相手と出会えるかなんて、
百パーセント、イエスであるとは言い難い。
だけど、所詮リアルな人間関係であれ、相手が信用できるかは不確かだ。

それならネットやAIに頼った方がいいかもしれない。
ただ、ネットの世界だと、タチの悪い罠にはめられる可能性も増大する。
しかしやはり、その利便性に敵うものなし。

要するに、コミュニケーションビジネス依存はやめられない。
ただ、ハイリスクだけは覚悟しなければならないということだろう。

だが、気になって仕方がないことがある。
リスクを予見、予想できる知識や力のある人はまだしも、
そいうい力のない人々、力をつけようにも流れの速さについていけない人々は
餌食になるのを待つしかないのか。

還暦を過ぎてますますそう思う。

ネットの記事には、さわりだけタダで読めて、
核心部分、結論部分を読むのは有料、

あるいは金を払った会員のみってやつがある。

見出しに釣られ、その手の記事を読み始め、

「ここから有料」の表示に出会ったらどうするか。

私の場合は、あっさりと、そこで読むのを諦める。
たいていのネット記事は、いったん立ち止まって冷静になると
「まあ読まなくってもいいだろう」と諦めがつくのだ。

たとえば「ポスト岸田の有力候補、その伏兵は」
などと書かれても、所詮誰かの推測にすぎない。
金を払うまでもないだろう、てな具合である。

著名人や人気タレントの不倫相手が誰だろうと、
結局は自分と何ら関係ないのだ。

なかなか諦めのつかない扇情的な記事もあるけれど
週刊誌の見出しと似たようなもので、
一見は激しく興味をそそられるが、読めばがっかり、
そんな勘ぐりが、財布の紐を固くする。

中には無料会員に登録すれば月に何本かは、

本来は有料の記事が読める、ってのもあるが、
そんな面倒なこともしたくない。

パスワードの管理も厄介だし。


有料記事だって冷静になれば「読むほどの価値はあるか」との疑念が生まれる。
と考えれば、無料で読める記事なんて、と思うのだけれど、
そのネットの無料記事が多くの市民の
「意見交換」の具材になっていると思うと、
寒いというか恐いというか……

ニュースで知る限りではあるが、
プーチンの冷徹さ、ロシア兵の残忍さは目に余る。
命が大事だ、早く和平を、という声もあるが、
急いで手打ちをしてしまえば、
ウクライナの人々の被害、犠牲はどうなるのだろう。
責任の所在追及もあいまいなまま、泣き寝入りはやむなしに違いない。
補償、賠償、報復など、夢のまた夢、絵に描いた餅。
そんなことで済まされてよいものか。

プーチン以下ロシア兵には、すべての面で、
しでかした以上の苦痛を与えなければ
ウクライナの人々の腹の虫は収まらないのではないか。
それが無理でも、最低限、市中引き回しの上、磔獄門
これくらいの罰は受けるべきだ。

テレビの時代劇で見る限りだが、
江戸時代は、こういう裁きが行えたことになっている。
仮にそれがフィクションだとしても、それが成り立つのは
幕府という一般市民より身分の高い「お上」がいて、
堂々と人間を裁ける、という構造になっているからだ。
やれ平等だの、やれ人権だの、理屈をこねていたなら、こうはできまい。

もちろん切り捨て御免のような横暴は許されるべきではないが、
それぞれの共同体における良心を行動の規範とする「お上」がいて
人の暮らしや命、社会の平和を踏みにじる輩がいたなら、
裁判不要、その一存で人を裁ける。
やはり社会にはそういう構造が必要ではないか。

それぞれが言いたい放題、自分の理屈を並べたてたら、
力ある者はやりたい放題、弱き者は何をされても泣き寝入り、
というような、世も末になりはしまいか。

ロシア、ウクライナ、それぞれに言い分はあるのだろうが、
罪のない市民に対し、略樽、拷問、惨殺など非業の限りを尽くす者たちは、
どう考えても許されるべきではなかろう。
人間同士で、衝突があっても、暴力で解決するのは、絶対に許されない。
それが人間が、獣でなく人間たる理由だ。

こういう鬼畜の所業には、
「市中引き回しの上、磔獄門」と即断できるお上が
21世紀の地球上にも存在してほしいものだ。

 

都合の悪いニュースが出ると、すぐにフェイクだと開き直る者がいるが、
ウクライナの無残に破壊された建物の映像が、まさかフェイクであるはずもないし、
ウクライナ人の自作自演だとするのは、あまりに無理がありすぎないか。

さて、話は変わるが、
それぞれの共同体には、長年培われてきた文化があり、ルールがある。
それを乱す者が現れたとき、どうするか。
その共同体の歴史文化の下に構築された法体系によって裁かれる
というのが長年の基本になっているが、
国際化の美名の下に外来の価値観が乱入し、
固有の文化やルールを揺さぶり始めた。
歴史的な美風を尊重する人々より、
新規なコミュニケーションツールを巧みに使った
声の大きい人々が優位に立ってしまうのだ。

国際化にしても、さまざまな国やその文化を知り、違いを認め合うことではあるが
外国の文化と自国の文化をごちゃ混ぜにしたり、
自国の文化を捨て、外国文化の真似をすることでは決してないはず。

多様性にしても、本来は「違いを認めること」であるはずなのに、
「違いを認めないことは許されない」というふうにエスカレートして、
多数派を少数派が駆逐しそうな案配だ。

こういう場面でも、結局は声の大きな者が勝つ。
私には、複数の独裁国家が試みようとしている「力による現状変更」と、
根っ子は変わらないように思えてならないのだが。

もう、この言葉通り。

川柳だけど、あまりのむごさに「ひねり」も何も。

 

何を言いたいか、わかりますよね。

 

WHOには、この生き物は「人間でない」と宣言してもらいたい。

そして公然と、合法的に……

このごろつくづく思うのだけれど、
今の人はよく「リスペクト」とやらをしたがるようだ。
若い人ばかりでなく、結構年配の方々も。

しかし、よくわからない。
リスペクトのやり方である。
いやいや、「リスペクト」という言葉そのものがわからない。

子どものことなど
「尊敬される人物になりなさい」などと
たまに大人から言われることがあったし、
私自身、吉田拓郎や矢沢永吉や笑福亭鶴光を
心から尊敬していたけれど、

もしかすると、リスペクトというのは、

尊敬と同じような意味かもしれない。

だが早合点は禁物だ。
同じような意味であるならば、
また、日本人であるならば、
尊敬すると言えばいいのだから、
わざわざリスペクトとは言わないだろう。

ただ1点、
よくリスペクトをしたがる人に限って、
人をめったに尊敬したりはしないから
不思議で不思議で仕方ない。

 

函館で旅行者に大人気の洋菓子店。
旅先の貴重な時間を、行列に費やす人々がいる。

旧世代の旅行者には信じがたい風景である。

日常を離れ、遠い町での滞在中、
できるだけ、その町ならではの風景を探しに行きたい、という目や足と
美味いもの、評判のものを食いたい、という胃袋との間で
時間の奪い合いが起こる。

旧世代にあっては、
強欲な胃袋も、昼間は文句なく目に譲り、
自分の出番は、夜くらいなものだと割り切っていた。
そして夜さえ、言いなりで、
目が選び、足の向くまま連れて行かれた店でようやく、
胃袋の時間が始まるのだった。

一方、新世代にあっては
朝昼晩、主要な時間は胃袋が独占する。
目はまさに、胃袋の「メシ使い」であって、
胃袋様のお気に召す店を、
旅に出る前から見つけておかねばならない。

足ももちろん「メシ使い」。
胃袋様の思うがまま、
朝から晩までこき使われる。

 

 

善男善女の撮り鉄さんには、まったく関係ない話だが、

 

普通にそこにいる鉄道利用者に向かって

「邪魔だ、どけ」と平気で怒鳴りつけたり

時には力で押しのけたりする撮り鉄と

プーチンは実によく似ていないだろうか。

 

自分の力の及ばないはずの土地を、

まるで自分が支配権をもつがごとく

傍若無人に振る舞う。

 

もちろん程度の差は大ありだけど、

本質は似たようなものだ。

 

しかしプーチン、我慢ならぬ。

それを厳しく取り締まれない

国連だとか国際法は、もはや時代遅れとしか言いようがなく

即刻改めるべし。

 

まずは皮切りとして

国連の事務総長に

「無辜の人々に危害を加える者には

 全加盟国が軍事力をもって阻止すべし。

 同盟関係や国際法の問題ではない」

と号令をかけてもらいたいものだ。

そして罪もない人々の

暮らしや命が奪われないための、

新たな前例となるように。

 

 

 

今回のは川柳ではありません。

歌の宣伝です。

 

今、世界でいちばんの悲劇
もう見るに堪えぬ、で作りました。

 

これでいいのでしょうか、人間として。

 

もうすぐ配信が始まります(すでに開始も)

 

SoundCloudで一部が試聴できます。

 


 

 

↓フルコーラスの歌詞はこれです

 

We wanna do so
Just like you do
If we can do
A.S.A.P.

We wanna do so
More than you do
We really hate you
No war any more

人類は許してはならない
この世に悪魔がいるということを
私たちもあの年あの時
同じ悪魔にやられたこと忘れない

悪魔はあくまでも悪魔だから
人にはできないこと平気でできる
約束破るも平気の平左
破るために結んだ約束だから

悪魔を捕らえても同じ目に遭わすことできない
地球市民の天敵なのに見た目は人間だから
だけど町も暮らしも命も奪われた人の気持ち
たとえ仕返しができたとしたって晴らせるだろうか

We wanna do so
Just like you do
If we can do
A.S.A.P.

We wanna do so
More than you do
We really hate you
No war any more

 

アプリケーションがいつの間にかアプリと呼ばれ、
クレジットカードはクレカとなる。

何でも略さねば気が済まないかのような風潮、
個人的には苦々しく思ってきたが、
ついつい自分も、スマートフォンをスマホと言うようになっていた。

それでもやはり、基本的には、
言葉を闇雲に略するのは、どうかと思い続けている。

さて、この冬だったか、
「アイホ」という新しい略語を耳にした。
てっきりApple社のiPhoneのことかと思ったが、
アイスホッケーのことだとわかって仰天した。

しかしなあ、アイスホッケーはずっとずっと
フルネームでアイスホッケーと呼ばれていたのに、
どうして急に、略して呼ぶようになったのだろうか。

 

ちなみに、今となっては遠い昔、
初めて「プリクラ」の語を耳にしたとき
新手の風俗でも登場したのか、と言ってバカにされた。

JK様たちにも大人気の「プリントクラブ」のこととはつゆ知らず。

 

いや、もっと古い話をしよう。
売れる前のビートルズが出演していたという
リバプール市のキャバーンクラブ。
今なら、さしずめ「キャバクラ」だろうか。

「あのビートルズも、売れる前はキャバクラに出ていた」
なんて、安物のネットニュースのヘッドラインのようで愉快ではあるが。