私自身も該当してしまうのが、誠に無念なのですが、
社会に生きている時、わざと一般的では無いような言葉を使って、(時には難解な)
物事の成り行きを説明しなければならない瞬間が在ります。
または、こうやって漢字を色々変換して、高等教育を受けてきたことを自慢しているような印象を、
もしかしたらこの文章の羅列を読んで下さっている人に与えてしまうのかもしれません。
何だか、言葉や文節、句読点や単語のコンビネーションによって、
表現したいことを100%簡潔に、高密度に文章で表せた時には、
自分自身に酔いしれ、悦に入り込んでしまう瞬間があるのをご存知でしょうか。
まあ文章に限らずです。
何か目標を達成した時は大いに自分を褒めるでしょう。
それは自分自身への動機づけだったり、モチベーションの維持にあたっては有効と思います。
ただし、
意味が完全に分かっていないのに、あたかもインテリぶって文章を構築している様な人もいます。
この私みたいに。
見ていると(聞いていると)悲しくなり、切なくなり、やがて憎しみが沸いてきます。
薄っぺらい意地を張ったり、自慢ばかりをしている人がどうも気に入りません。
その日に起こったことを何度も繰り返して、誇張しつつ、終いには全然別の事になってしまっているのは、
話になりませぬ。
嘘ばかりついている人は、殺したくなります。
どうも、我々は良い人や能力がある人に見られたい傾向があるために、
本来の能力以上の領域を、幻想で現してしまうケースがあるように想います。
それが時に嘘だったり、犯罪だったり、確執だったりして、信頼や命を失う場合もあるのです。
ハッタリをかますのは、自分に発破を掛けるだけにして、
周りの人に迷惑を掛けないように心掛けなければなりません。
以上のことは、日本の学校教育で果たして教えていることなのでしょうか?
私は少なくとも授業で教わった記憶はありません。
まともに授業を受けていた記憶もあまりないんですけれど。。
影響は非常に受けやすいので厄介なのですが、
人が使っている言葉は借りたくないです。
自分だけの言葉で、表現していけるはず。
それが当たり前のことなんでしょうが、
当たり前のことが当たり前のように出来ないから嫌になります。
ピアノ。
ピアノが弾きたかった。
習おうとしたけど止めてしまった。
ピアノを弾くようなイメージで、ギターも弾けないだろうか。
そうしたら、綺麗で格好良いんだろうな。