小学校の同級生とか、
松本人志とか、
会社の上司とかが、結婚もしくは再婚するにあたって、
寿的なことであり、正義なことであり、道徳的に善良なことであるのは間違いないのだが、
ふと、エスカレーションな思考を立ち止め、気付いてみると、
それは社会一般的な抽象的で存在しないユートピアの様な概念的思想であって、
決して、それが生じたからといって、嬉しい筈がないのである。
勿論、たくさんの他人が存在している前では、ニコニコとしていますが、
それは「仲間はずれ」にされて、協調性がないとか、KYだとみなされて、
酷い「いじめ」を受けたり、お給金が下がったり、職を失う羽目に成るのが怖いから。
変な話、一瞬で死ぬよりも、長い時間生きながら苦痛を味わうことの方が今は怖い。
私は、憶病者ですから、皆の衆に都合を合わせて暮らしています。
きっと、他の人もそうだと思うのです。
私は出来れば、その中で「他人」とは違う何かを表現ないし演出して生きていたい。
それは自分が心に決めていれば決行大いに可能なんで、
別に他人に迷惑を掛けたり、嫌な思いをさせるつもりはありませんので、
私はこの世界に生きている時、「黙る」ことを選択します。
黙っているのは、何も考えていないからではありませぬ。
考えているから、黙っているのです。
事実、この半年以上、黙り続けた私の脳内は活性化されてきたので、
知能指数は半年前とは比べ物にならないでしょう。
しかしながら、人はやはり、見える範囲でしか物事を計れない、
それは社会構造や日本教育、環境、経済性のせいなのですが、
私については「何も考えていない」だったり、「何を考えているか分からない」だったり、
ネガティブな評価です。
ただ、私がここで100%ポジティブな自分を表現することに完全に成功できたとしても、
100%の評価が返ってくる保証はどこにもありませぬ。
社会保険庁の年金と同じシステムなのですね。
別に評価を望んでいる訳ではありません。
この世界で必要なものは、色々ありすぎて、それが混乱を招いて、戦争等を引き起こしています。
結局、何なのか、ということなのです。
人は、なんやかんやいって、孤独を生きていかなければならない。
上記は結婚とか夫婦関係とか家族とか血縁とか色々のものとは次元が違っていて、
自分自身が、自分自身として生きていくときになって初めて、孤独であることを悟るのです。
それは、孤独が醸し出す寂しさ、というよりも、やらなければならない瞬間というか、
覚悟、のようなニュアンスに近いと言えます。
そんな孤独を忘れようとして、人は友達を作ったり親と話したり、何処かへ遊びに行ったりします。
それはそれで良いのです。
いつしか、その瞬間が訪れるか、訪れないかは人それぞれでしょう。
分からないことよりも、分かることをする。
会話・料理・音楽等、
我々が何も無い所から創造して表現する全ての事象は、
分かりやすい方が絶対的に良いです。
ただ、難しいのは、
分かりやすいだけ、では、
興味はすぐに薄れてしまいます。もったとしても最初の1回。
分かりやすい物事の本質的な欠陥の一つに、
飽きられやすい、ということがあります。
これは、習慣で生活する我々人間の生物学的特徴の一つでもあります。
長所であり短所、欠点であり才能です。
毎回、全く同じことを繰り返さないことがポイントです。
ほんの少しだけ変えるだけでも、印象が変わる時が在ります。
順列の組み合わせの数だけ、在りますので、
それをローテーションしていけば、
人生、少し気が楽になる気がしませんか。
私は、疲れてしまっているので、
それを行うことをすこし怠けてしまっています。
というのが最近の私のことについてです。
もしよければ、あなたのことについて聞かせて下さいな。