【生活は豊かになっても心は貧しくなった社会】

 覚えているだろうか。東日本大震災の原発事故で相次いた心ない被曝差別。放射能を浴びているから東北地方の住民や食材は受け入れられないという。それも四国や九州からではない。首都圏でも同じであった。東京や神奈川は福島第一原発から約250キロしか離れていない。それを、東北地方であることを理由に(原発から)400~500kmも離れた岩手や青森、秋田県産まで拒否したのだ。500キロなら(福島から)名古屋に相当する。3月はまだ北東風の吹く季節でもある。ならば線量も、南西側に位置する関東や東海、場合によっては関西地方よりも遥かに低ったはすたが。


〈原発事故によるセシウム134、137の蓄積量〉
(画像はネットから借用)


 コロナ騒動だって然り。この渦中では医者や看護師といった医療従事者が非難の的に晒されたのは記憶に新しい。周辺に住んでいるだけで「疫病が移る」といった理由からである。本人だけではない。その家族までが対象になった。小学生から園児までが登校(園)を拒否される羽目に。心情的には分からなくもないが、どこまで状況を理解していたのだろうか。

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 また、こうしたことも・・。

 ゴールデンウィークは、いつも『格好の五月晴れ』かと思いきや、そうでもない。とくに今年は天気が悪い。この10日間だけでも半数近くが雨模様であった。菜種梅雨か、そうでないのかは不明ながら、何れにせよあと僅かで本格的な梅雨のシーズンを迎える

 雨期は動植物にとって待ちに待った季節でもある。新たな息吹が誕生し、そして成長してゆく。だが恵みを齎すだけではない。梅雨特有の豪雨は様々な被害を生む。河川氾濫や土砂崩れだけではない。間接的な被害もまた多い。田畑や畜舎の見回りで遭遇する事故もそうだ。でも悲しいかな、こうした災難には必ず、「嵐の中、田畑や畜舎に出向くこと自体が問題」といった非難が殺到する。如何に農業離れの昨今とはいえ、あまりにも不見識ではなかろうか。

 古来より我が国は農業国だ。戦後暫くは全人口の大半が(農業に)従事していた。多雨国だけに水害も多い。ことに稲作は水量と水質の管理が基本である。嵐は危険だからと何もしないのでは全てを無くしかねない。そこで、一家総出で、村人総動員で自然の猛威と戦ってきたのだ。当然、犠牲者も出ただろう。でもこれをどうして非難など出来ようか。

〈農業従事者の年齢別変遷〉
(画像は農林水産省データより)

❋(減り続ける農業従事者にあって、その平均年齢は上がるばかりだ)

 そして今、農業従事者は高齢化の一途にある。後継者はいない。平均年齢たるや70歳を超えるのも時間の問題にある。かといって諦めたのでは生活すら儘ならない。大雨であれ老骨に鞭打ってでも戦わなければならない。こまねいていれば、その瞬間にも手塩にかけて育てた一年分の飯の種(収入源)を失ってしまうのだ。畜産などは最たるもので、「ここ数日は荒れ模様なので餌やりは天候が回復するまで待とう」では家畜そのものを死に追いやってしまうかも知れない。それをどうして「この雨の中、○○をするのは○○だ」なんて言えようか。だからこそ我々の食が守られているのを忘れてはならないと思うが。

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 《余談、母の日を前に》

母の日父の日の違い】

 一年で最も過ごしやすいといわれるだけに、この季節はイベントも多い。メーデーや子供の日だけではない。母の日もある。そして6月の父の日へと引き継がれてゆく。しかーし・・🤫

【母の日の日常】

 いつも家族のために頑張っているお母さんに感謝を込めて、プレゼントに豪華な食事と、どこもかしこも「お母さん有り難う」一色に。

【父の日の日常】

 いつも頑張って疲れているお父さんに感謝を込めて、「この日ぐらいは家でのんびりさせてあげよう」とカップヌードル一つで留守番を託し、母子は食事に買い物、観劇と、ここぞとばかりに自由を満喫。

 「トホホ!!😩」