猛烈な台風14号が日本列島を直撃した。気圧も(一時)910hpまで降下。上陸時の935hpでさえ(1951年の)観測開始以降4番目の低さである。幸いにも過去の台風に比べて被害は少なかったものの、まだ台風シーズンは終わっていない。地球温暖化もあって益々巨大化し、想像を絶するようなメガ台風に襲われるかも知れない。この先が思いやられるが、過去には一体、どのような大型台風があったのだろうか。

(近年の大型台風)
(昭和20年以降)

 近年では伊勢湾台風であろう。1959年9月26日に潮岬に上陸した台風は、伊勢湾岸一帯に高潮を発生させ、愛知と三重に死者行方不明5098人にも及ぶ甚大な被害をもたらしている。だがこれだけてはない。歴史を紐解くともっと恐ろしい台風があるのだ。

 元寇(蒙古襲来)の神風は台風だったとする説(実は怪しい?)があるように日本列島は台風銀座でもある。1828年9月17日には九州地方を猛暑な台風が襲った。シーボルト台風と称され、有明海から博多湾に発生した高潮によって、犠牲者は1万9千人にも達した。この台風、九州上陸時の気圧は900hpと推定されている。これは、過去300年で日本列島に上陸した中では最大規模だそうだ。

 関東地方とて例外ではない。安政年間には驚愕の大型台風に直撃されているのだ。

(安政江戸台風の推定進路)

(画像はネットから借用)

 1856年9月23日、伊豆半島付近に上陸した(安政江戸)台風が武蔵国(の北部)を通過する。江戸の街は猛烈な暴風雨に晒された。東京(江戸)湾には高潮が発生。江戸の街は下記(絵)の如く地獄絵図と化していった。

(水没した江戸)

(江戸は壊滅したとも噂された)
(安政風聞集より)

 「江戸大風雨 城中を始として市中大小の家屋殆ど損破せさる莫く芝 高縄 品川 深川 洲崎等の海岸は風浪の被害有り 本所出水床上に及ぶ 永代橋 新大橋及ひ大川橋 何れも損所を生じ築地西本願寺 芝青松寺 本所霊山寺の佛殿を始として 神社佛閣の或は潰倒し 或は破損する者少なからず 共惨害 実に乙卯(安政二年)の震災に倍すと称せらる」

(出典:東京市史稿)

 この台風による犠牲者は5万人とも10万人ともいわれる。上の絵からも甚大な被害であったことが見てとれる。10万人なら関東大震災並である。当時の江戸の人口(通説では100万人も実際は70万人未満か)からして1割以上が犠牲になったことになる。台風害としては有史以来最大級ではなかろうか。

 また、この年代は地震も多発期だった。稀に見る規模の大地震が相次いでいた。

1854年07月09日、伊賀上野地震、M7.5
(内陸直下型、死者、約1800人)

1854年12月23日、安政東海地震、M8.4
(南海トラフ型、死者2~3千人)

1854年12月24日、安政南海地震、M8.4
(南海トラフ型、死者1~3千人)

1855年03月18日、飛騨地震、M6.9
(内陸型、死者203人)

1855年11月11日、安政江戸地震、M7.0
(首都直下型、死者1万1千人)

1856年08月23日、安政八戸地震、M8.3
(北日本に津波、死者29人)

 このように(巨)大地震にも見舞われ続けた。猛烈な台風に南海トラフ型の巨大地震と、稀に見る災厄にあって、元号を嘉永から安政(1855~60年)に変えたほどだ。

 気象と地象は別物かも知れない。でもこうした一致はどう説明すれば良いのだろうか。大きな地震が特定の時期に重なる中にあって、大型台風もまた、歴史的鳴動期に歩調を合わせる如くに襲来しているのだ。この数年、頻発する大地震に、益々巨大化して接近する台風の数々。その後の政変にまで至った激動(1850年代)の再来を、どうして否定できようか。

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 日本の大都市は、東京、大阪、名古屋と、その多くが水の都である。水路の利便性によって形成されたといっても過言ではない。この水の都が危機に瀕している。キティ台風(1949年)では下町を中心に東京の多くが水没した。当時とは人口規模がまるで違う。近い将来、更に大きな台風がやって来るだろう。地震学者の石橋克彦氏はかつて、「東京は度重なる地震で無人の荒野に帰す」と述べたが、同じ帰すにせよ、地震より台風の方が先かも知れない。

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 因みに、関東大震災は九州に上陸した台風が新潟沖を通過した直接だった。大きな地震ほど、こうした最中に多い。歴史に残る大地震も(下記の如く)こうした状況の下に発生している。台湾(18日)やメキシコ中西部(20日)の地震と、このところ活発化する環太平洋地震帯との関連は不明ながら、念の為・・。


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【おまけ】

《未知との遭遇》

「ニャンじゃこれは?」

「オイラに小判は似合わニャーだ」

「😿・・ニャン??」