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「ベイジルタウンの女神」とレ・ミゼラブルと「すべた」とジェンダー?

2020年9月、ケラリーノ・サンドロヴィッチさん脚本の「ベイジルタウンの女神」を観劇。

大好きな作品で名作でしたが、この記事は演劇についての感想はほとんどありません。

 

菅原永二さんが演じるチャックの台詞に「すべた?酢豚?すべた?」というような語呂合わせがあった。

「すべた」!

 

「すべた」という単語を初めて耳にしたのは

1987年のミュージカル「レ・ミゼラブル」(日本初演は1985年)。

貧しい女工のファンテーヌが自分の思い通りにならず、腹を立てた工場長が彼女に投げつける言葉。「出て行け、このスベタ!」

 

ケラさんとほぼ同世代の私でも、

ずべ公、あばずれ、売女(ばいた)等はドラマや映画で耳にしたが、

(海外ドラマならbitch)

「すべた」はなかったし、その後もレミゼ以外で聞いたことはなかった。

 

1987年当時でも死語に近い感覚だったが、今は50歳以下の人はほとんど知らないか、昭和以前の小説の中でだけ出会う言葉ではないだろうか。

そしてレミゼは、現在の新演出版になってから「すべた」の台詞はなくなり、

ついに消えたか…と思っていたので、2020年の登場に驚きましたw

 

ニュアンスで売女、ビッチのような意味だとは知っていたが、

改めて「すべた」を調べたら↓

「スベタ」(ポルトガルespadaから。元来はカルタ用語で「剣」の意)

1. めくりカルタで、点にならないつまらない札。

2. とりえのないつまらない者
3.
顔かたちの醜い女。また、女、特に娼婦を卑しめていう語。

 

もちろん劇中では3の意味で使っている。

「すべた」が外来語だとは初めて知りました。

それにしても、あばずれ、すべた、売女、bitch…どれも基本的には

女性に対する罵り言葉。

体を売るのは女性で、娼夫?を指す一般的な言葉がないように

社会・差別の構造と言葉は切り離せない関係にあると感じた。

30年越しの「すべた」のインパクトww

 

話は飛ぶが、「慰安婦」という言葉は詐術で、

実態を正確に理解するためには「性奴隷」というほうが良いと思う。

カクシンハン「薔薇戦争」

8/4()の薔薇セット(ヘンリー六世→リチャード三世)の演劇耐久7.5hレースに参加。

7.5時間というとものすごい長さに聞こえるかもしれないが、170分前後でヘンリー六世(HⅣ)は3幕、リチャード三世(RⅢ)は2幕なので、長いーーーまだ終わらない??という感じは一度も受けなかった。

 

カクシンハンの20165月のHVI三部作+RIII以来3年ぶりの上演。

前回もシェイクスピアの史劇が大河ドラマを見ている感覚で面白かったが、キャストも大幅に変わり、今回の薔薇戦争のほうがさらに好き。

 

ヘンリー六世

フランス革命のルイ16世のように、歴史の大変動に抗うタイプではなく、性格も大人しく優しそうで、大国の王には不向きに見える。

妻マーガレットのほうがよほど権力欲が強い。(妻に愛人がいる所もルイ16世と同じ;;)

主役でありながら、周囲の思惑や運命に流されて行く受け身の演技が、リチャード三世とは対照的。

それでいながら王の知性、品位、誇りが必要とされる難しい役だと思うが、鈴木彰紀さんがすばらしかった。

王妃マーガレットによって、権力の座から追われる摂政の妻エリナー。

宮本裕子さんが演じているから下品にならずに良い。

そしてマーガレット王妃が愛している恋人サフォーク公(河内大和さん)との別れは、とても美しくて大好きな場面。

 

リチャード三世

2016年と比べ、ヘンリー六世三部作より、リチャード三世のほうが大きな変化を感じた。

2016年はリチャード三世の母・ヨーク公爵夫人をのぐち和美さんが演じ、

産まれた瞬間から、母に愛されずに育った息子と母との軋轢がフォーカスされて、

母の愛に渇望したことがリチャード三世の権力欲の原点だと感じられた。

今回、母と息子が対峙する場面は割と淡々としていた。

それはヨーク公爵夫人を演じたのが、若い女性だから…ではなく、

リチャード三世のポピュリストぶりに重点を置いたからだと思う。

戦略と言葉の巧みさによって、彼は(生まれつきの見た目のハンディを超越して)

熱狂的な支持を得て王座まで上り詰める。

(リチャードの言葉の巧みさを象徴するのが、愛する夫エドワード皇太子を彼に殺され、

恨み・憎しみの塊だったアン王女を、夫の遺体の前で口説き落としてしまう場面。)

 

トランプ、ドゥテルテ、ボリス・ジョンソン、アベ…

現代の私たちが置かれている状況とリンクさせるのがとてもカクシンハンらしい。

 

2016年も今回も、リチャード三世の河内大和さんの魅力は圧倒的。

見た目に恵まれずに生まれたために、実の母からも愛されないし、

女性からの愛についても自信が持てずにいた。

そのコンプレックスを弾き返して行く彼の熱いエネルギーが爽快ですらある。

河内さん自身の熱さ・エネルギー・魅力を最も強く感じさせる役ではないかと思う。

(プルカレーテ演出版での佐々木蔵之介さんも良かったが、もっとクールでシニカルな感じ)

 

2016年と違う小道具。市民(民衆)の前で「自分が王になるなんてとんでもない」と一度は断り、屋敷の中で神に祈りを捧げていた所を無理やり表に引っ張り出される場面。

リチャードは背中に盛り上がった瘤があり(ウェストポーチのような黒い布)、

民衆が彼こそが我らの王!と熱狂する前で、初めて、

その瘤の上に金色の薔薇を中心にした金色の放射線状の細い棒のオブジェを背負っている。

(自転車タイヤのスポークだけみたいな)

それは絵画のキリストの光輪のようでもあり、彼のカリスマ性を表すと共に、

彼のパワーの源がコンプレックスの瘤から発していると感じられてとても印象に残った。

※追記:カクシンハンの小道具ご担当・近藤修大さんのtweetに画像が。おお、「後光」で合っていた!

https://twitter.com/nobuhiro_kondou/status/1156208288419074048?s=19

 

リチャード三世、ヘンリー六世両方を連続して観ると、歴史・登場人物の繋がりがわかりやすい。

でも特に両方を1日で観るには、両作品の主役二人の魅力・牽引力が不可欠だと思う。

鈴木彰紀さんと河内大和さんはお二人とも大好きな俳優さんで、お互いが似たタイプではないのもプラス。

この2作品はカクシンハンにとっても劇団の代表作であり、ライフワーク的にずっと再演を重ねてほしいと願うが、できればまた同じお二人で観たい。

 

両作品を通じて、生のBGMはユージ・レルレ・カワグチさんのドラム1台のみだが、

疾走感、緊張感があってとても雄弁。

楽器のプレイヤーとしてだけでなく、演劇の伴奏者として優れた方はかなり限られるのではないかと思う。

(ミュージカルや音楽劇のように譜面がある場合と違い、ゼロから創り出しているので)

カクシンハンとユージさんの出会いは本当にミラクル、僥倖だと改めて感じた。

カクシンハン「ヴェニスの商人」その2

カクシンハンはずっと松岡和子先生の翻訳を上演台本として使用している。

「ヴェニスの商人」で翻訳が非常に気になった所があった。

ポーシャがシャイロックに、担保としてアントーニオの肉1ポンドを取らせるという、見せ場。

松岡さんの翻訳(ちくま文庫)では

「切り取る肉は正確に1ポンド、それ以上でも以下でもならない。」

(もしかしたら、劇中では

「1ポンド以上でも 1ポンド以下でもならない」と言っていたかも)

以上と以下は1ポンドを含むので、「以上でも以下でもNG」にすると

「正確に1ポンド」の場合もNGになってしまう。

 

あまりに気になり、他の方の訳も見てみたところ、

新潮文庫・福田恆存版
「目方の狂いはならぬ、きっかり1ポンド。

たとえわずかでも、それが重すぎたり軽すぎたりした場合…」

岩波文庫・中野好夫版
「肉はきっかり1ポンド。それより多くてもならん、少なくてもならん。
もしそれよりも重かったり、軽かったりした場合…」

 

福田さんと中野さんバージョンだと、論理的にすんなり入る。

Wikiのダイジェスト版では(正確に原文通りかはわかりませんが)

He must cut precisely one pound of flesh, no more, no less
なので、その翻訳としてはやはり

「重すぎても軽すぎてもならない」、

1ポンドより重くても、1ポンドより軽くてもならない」が正しいと思います。

 

松岡先生の翻訳は、新感線のメタルマクベスでも推奨されているし、

蜷川さんシェイクスピアでも使われていて私も大好きですが、

ここだけは変更されるほうがよいのではないかと、生意気にも思いました。

(日頃明細書で数値については意識しているので、職業病だ…と苦笑しながら

そこで一瞬思いっきり現実に戻ってしまいました)

 

それにしても、「きっかり」って懐かしくていい響き。最近あまり聞かないですね…