したわきし かむのりたひと
  きみかよか みきとひたりの むかしきわたし

(自他湧きし 神法旅人 君が代が 右と左の むがしき渡し)

余談

自他(じた)は「自分と他人。」「あれとこれ。あれこれ。」、旅人(たびと)は「‘たびびと’の転。」、むがしは「喜ばしい。ありがたい。」の意味です。

余談

この歌は、下記ブログを見て、それをモチーフに書いた歌です。

『光も閉じ込める宇宙の穴に至る【窒(膣)】のブラックホール。神の子宮口から生み出された星達』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)


雑感

下記日月神示によると善も悪も末代だそうだ。

日月神示参照。

『今度 役目きまったら、末代続くのざぞ、神示に出た通りの規則となるぞ。善も末代ぞ、悪も末代ぞ。此の世は一(ひとつ)であるぞ。われの身体われに自由にならぬ時来たぞ。神に縋(すが)るより仕方なくなって、すがったのでは、間に合はんぞ。今度はいろはの世に戻すぞ。ひふみの世に戻すぞ。素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻してやるぞ。よろこびの身といたしてやるぞ。』(松の巻 第十帖)

ただ、もう善と悪は交わらない、と……。天国と地獄みたいに、全く交わらない空間に行く、と……。

しかも交わらないだけではなくて、上記ブログにもあるように、右回りの渦と左回りの渦がもう交わらないので、善は善だけが集まる世界に行って、悪は悪だけ集まる世界に行って、それが永遠に続いて、無限大に大きくなっていく、または無限にグルグル回って終わらない、という、うれしいこわい世界が近づいて来た、というわけだ。

日月神示参照。

『前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早よう改心なされよ。建替の事 学や智では判らんぞ。』(松の巻 第十二帖)

『地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。』(地震の巻 第七帖)

『○(霊)界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。』(竜音の巻 第四帖)

『天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては、生命の統一はなくなる。其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。ヽについては一なるも、〇に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神のヽは、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。即ち、死後は生前の形式による。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。これら二つが相関連せるを外の真と云う。外の愛も外の真も共に生命する。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない。先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができるのである。霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される。故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである。生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる。生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。故に、同一の環境には住み得ないのである。かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。』(地震の巻 第二帖)

『地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ。』(星座の巻 第十二帖)

『高天原に 千木高しりて 仕へまつらむ。 岩戸(言答)のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ。』(扶桑の巻 第三帖)

『人民の因縁性来はみな神示にかかしてあるぞ。そなたのこと何も彼も一目ぢゃ。因縁判ってうれしうれしで御用結構。うれしおそろしくなる仕組。』(春の巻 第五十一帖)

『我が名呼びておすがりすれば、万里先に居ても云ふこときいてやるぞ、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、と申してお願ひすれば、万里先に居ても、この世の荒れ、地震のがらせてやるぞ、神々様に届く行で申せよ。こんなよき世は今迄になかりたのぢゃ、膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ聞こえんぞ、口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが。時節来てゐるなれど、わからん人民多い故 物事遅くなりて気の毒なるぞ、今暫くの辛抱なるぞ、神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけ許してよき世に致すのぢゃ、ここまで開けたのも神が致したのぢゃ、今の文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無(のう)にいたすのぢゃ、取違ひ慢心致すなよ。日本の国いくら大切と申しても、世界中の臣民とはかへられんから、くにひっくりかへること、まだまだあるかも知れんぞ、くにの軸 動くと知らしてあろがな。此の神示キの儘であるから心なき人民には見せるでないぞ、あまりきつくて毒になるから、役員 薄めて見せてやれよ、一日も早く一人でも多く助けてやりたいのぢゃ、神まつり結構ぞ、神まつらいでいくら道説いても肚にはいらんぞ、肚に入らん道は悪の道となるのぢゃ、頭ばかりで道歩めん道理わからんか、改心足らんぞ。』(風の巻 第五帖)

火水伝文参照。

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 こ度の天意転換は、この宇宙創りたる始源より決まりてありたことなのぞ。汝等の宇宙、光ひとつ上ぐる仕組み、七つに別けて進み来たりたのじゃ。こ度がその最期なり。七期目の仕上げの時になりたのじゃ。しかあれ、こ度の大変は天意転換なるが由でなきこと、先ず知りおきて下され。世界の人民様ケガレ無くありたなら、マコト麗しき幕の上がりでありたのじゃ。なれどケガレ逆巻く気枯れ世と成り成してしもうたが、こ度の大変招きしワケ成るぞ。

 こ度ケガレ祓うは元つ神なるぞ。こ度はハラとアタマの戦ぞ。神力と学力の戦いであるぞ。アタマ『あやま知』用いて汝等の神気いずるを封じ込め、さんざん世を気枯れケガラし【マコト】無き世と成さしめたのじゃ。神にはアタマを操るの仕組みし企み、すべて解かりて居る由、最後の最後の最後のところで見事ひくり返し、あっぱれ新しき御代建てるも心配無きが、人民様にはこれよりひと苦労ふた苦労、地獄の苦労もせなならん者もあるから、しっかり【マコト】持ち行きて下されよ。汝等、悪神の仕組みし企み知るよりも三真釣り持ち行く【マコト】大切なるを忘るなよ。それ無くば、何を知りてもご無念ぞ。

 日本の大変が酷いのは上に立つお偉い様方、ヒノモトは《元つキの国》なるを『あやま知』に惑わされすっかりだまされ忘れ去り、神気息も出来ぬほどにケガレ気枯らしてしもうたが由なるぞ。汚してはならぬ元つ神のご神体でありたのじゃ。汚したるご無礼、末代ワビつると申せど取り返しのつかぬ事でありたのじゃ。一度は日本はもう潰れたと、誰もが思うひどき有りざまにせなならぬ。神も辛いがこれも人民様にマコト無きが由ぞ。マコト無き所にマコトの神は降りぬのぞ。

 神、幾度も注意を促し来たりたのぞ。されど汝等聞かず、『あやま知』に目がくらみ我欲に囚われておりたのじゃ。由に申して居る、こ度の災難、天意転換の仕組みより受くるのでないぞ。神仕組みで無いぞ。汝等自身の仕組みし大変の事なるぞ。巷で騒ぎつる世の破滅、汝等の仕組みし世を祓う大掃除のことであるぞ。

 今までの世でありたならケガレと光、共にあることも仕組み有りて出来たことなれど、新しき御代になりたればケガレと光、共にあること適わぬのじゃ。仕組み変わるのじゃ。このことよくよくハラに入れて下されよ。今迄の神仏説きし転生は古き教えの中でのことじゃ。今迄は中つ世の神々のお役目なればいたしかたなくありたなれど古き転生の教えこ度で終わりぞ。取り違え致すなよ。
    
 こ度の事は元つ神の仕組みなれば、中つ神々様でも解からぬ事ぞ。元つ心にスミキリてなくれば神々と申せど何処へも逃げおおせぬお仕組みなるぞ。光ひとつ上ぐるのじゃから、ケガレ持ち越せぬのじゃ。汝初めてのこと由、解かり難きも無理なきが、ケガレ持ちたまま何処へ生まれ落つるつもりぞ。こ度は汝の生まれ落つる所、何処にもなきぞ。神、許さぬが由ぞ。これ程申してもマコト持ち行けぬ者、止むなし。その者の最も避けたき苦難、万倍の有りざまにして未来へ打ち捨つる外なきも解かるであろうが。もう神、待たれんのぞ。

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 この方が陰にまわりて、三千世界を守護致し来たりたは、汝が一刻たりとも速やかに、自ら真釣るを取り戻し欲しく、願いありたからであるぞ。皆々神成る身なから、ご一柱も残す事無く、自ら取りて欲しかりたのじゃ。それ由のこの方の艱難辛苦でござりたのであるぞ。汝等がこの方をどの様な酷き扱いに成されてもそれでもじっと我慢を致し、ただただ汝等を守護致し、何とかお陰をお授け致して、少しなりと善き方にお向け差し上げたくての、至誠を貫きての願いからじゃ。

 今今に至る始源からのマコトに辛きご苦労は、ただただ汝等皆々が、早う『あやま知』に気が付きて、真釣るマコトを取りて欲しいがため、仕え真釣りたのであるぞ。この方は与える一方で取りたるものは一に無く、汝が愛しく可愛想なから、気付け、気付け、と朝に夕に、昼夜にたがわず打ち鳴らし来たりたなれど鳴り成らず、時節はとうに実地の響きに入りてしもうて、残り無くなりてしもうた。

 一人も残す事なく気付かせるは遂に出来なんだ。残念なことになりてしもうて遂に一度に一回で改心致させる他無き様となりて、身魂相応のケガレを一度で払うは修羅の地獄を生きるもならず、死ぬもならずさ迷い行かねばならぬ者、数多居りて、人民様には可愛想でお気の毒で、この方も見ては居られん極みにてあるが、愛しき我が子をこの手で屠る、修羅の地獄のそのまた下を、慙愧慟哭堪えに堪え、血の涙を流し支える大神の、至滋至愛の御心を、少しは察して下されよ。いたらなんだところは、始源から、汝等を支えるために陰に回りて、艱難辛苦のご苦労を、至誠貫きつくし参りた、元つ神々のマコトに免じて許して下されよ。

 解かりたでござろうが。今今の時申すは、マコトの淵に辛うじて残りある者を最期の最後のご守護を出して、あちらに一人、こちらに一人と拾うて居るのじゃ。このヒノモトも、今今は獣と人とに分かれありて居るなれば、先ず先ずに汝等お一人お一人が、自ら神のお宮と鳴り成されて下されよ。汝が心底この方について参りて居るなれば、既にご守護を出しあるのじゃ。気付きあれよ。汝の感謝の響きが糸にてあるのぞ。感謝の響き大切にしおくれよ。汝を救う命綱じゃ。

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 口受けて心動くのぞ、心動きて行成るのぞ。【霊主心従体属】であるぞ。【口・心・行】のタテワケも出来て無くれば、口の御座に火の座されるマコト、マコトの神真釣る、マコト一如のハタラキも、成すは適わぬ事になるぞ。そのままにありては汝等の歩み行く所、段々狭く成りてしもうて、しまいには足場まで無う成るやも知れんぞ。そは汝等の足場申すが『あやま知』土台に作りあるが由なるぞ。『あやま知』の響き今今は、タテカエの末期であるぞ。どんどん暴かれ消え行きて居るのが解からんか。何時までも『あやま知』で作りし、土台に立ちて居りては落ち行くだけでござろうが。三真釣る行いがマコトの土台ぞ。鳴り出す響きがマコトの足場じゃ。【足場】早う創れ申すこと解かりて下されよ。

 【足場】は【ア】じゃぞ。コトの初めであるぞ。言魂であるぞ。鳴り成る響きであるぞ。三真釣り持ち行かねば、マコトの響き出すは難いぞ。三真釣り持ち行くその事が【足場】のタテカエ、タテナオシ、同時に叶える事になるのじゃぞ。マコトの響き、いずる様に成りて初めて、神のお宮と鳴りて参るのじゃ。神のお宮が【足場】でござる。神社の事にては無いぞ。汝ご自身の事にてあるぞ。この世の事は汝ご自身が変わらねば、何一つ変わりはせんのじゃ。今世に残りて居る【足場】、一厘にござるぞ。九分九厘ウソざ申す事、汝、存じて居りたかや。

 今世申すは何でも九分九厘対一厘であるぞ。何事も『あやま知』含みて成るものは、精一杯鳴りたところで、九分九厘にて仕舞いであるぞ。どうあがきても十【カミ】には鳴れぬ魔釣り道じゃ。小さき事どもから大き事ども迄、そうなりて居るのじゃぞ。身欲を基の台と成す『あやま知』病みたる母体から、産まれ鳴りたる事どもは、汝ご一人の思いから世界を統べる企み迄、総ての総てが九分九厘で引っ繰り返るぞ。もはや悪の芽切りたから新たな悪は育たぬぞ。芽吹いた先から滅んで行くがさだめであるよ。今今に悪に見ゆるは、悪を使うて悪払うこ度に使う道具なれば、まだまだ悪の世が続く思いて居ると、怪我をする伝えあろうがな。これからは悪と悪の共食いになりて参りて、悪神も苦しくあるから暴れる程に益々危うき世となりて参るから、汝等は巻き込まれん様に気を付けて下されよ。メグリ多く持ちあると巻き込まれてしもう由、早う自ら清まりてメグリ払いて下され申し参りたのじゃ。自らに厳しく三真釣り持ち行くが急ける事にてござるぞ。

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 汝等お一人お一人に、こ度の事をしかり解かり取りてもらうには、汝等のマコトの素型を明かさねば、進み適わぬ事なれば、汝等の基は、マコト地の日月(ヒツク)の神成るを今今に伝え知らせ参るなれど、汝がそのままにありて神そのもの申せば、今の人民様はよほどご苦労無しの、極楽蜻蛉でござるから、今より酷き好き放題をなされて、目も当てられぬ終末を迎えるが見えて居る由、この事はよくよく注意を致して、毛程の過ちも無く、分と礼節をわきまえて取りて下されよ。こ度は汝等の真ハタラキを取るる程には伝えねば、益々素性ケガレし『あやま知』にいいように弄ばれ、末代取り返しのつかんご無念となりてしもうから、この方はよくよくに気を付けて居るのざぞ。この方の申す事、悪き使いの申す事、紙一重の差にありても天国と地獄の違いにてあるから、嫌われる程にご注意致すのであるぞ。この方が今世の酷きを申すが解からぬ者は、既に危ういぞ。

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 草薙の剣いうは火土水(ヒトミ)の事であるぞ。一二三(ヒフミ)の火土水(ヒトミ)の事であるぞ。真言の事であるぞ。息吹合うた言魂の事であるぞ。生く言魂の事にござる。マコトを申すのでござるよ。余りにケガレた身魂のままである者に取りては、一挙に一回でマコトをハラに据えられては、生くるも成らず、死ぬも成らず、苦しみの余り改心致すも底の見えてる改心由、それも成らず。悶え暴れ狂いて、しまいには自らの頭を、自らが潰す末路と成り果てしもうのぞ。

 蛇はアタマを潰さねば死なぬと同じ道理でござるよ。神、頼むぞ。汝はこう成りては下さるなよ。末代地獄で暮らす事に成りてしもうぞ。二度とヒノモトのお土踏めん様な恥ずかしきザマと成りてしもうから、よくよくに注意して置くぞ。
    
 こ度タテカエの最後には、『知恵の蛇の火』もマコトに真釣れる様に向かわしめ上ぐるはこの方の仕事にてあるが、今今の汝等がこれをなすは危うき事にてござるから、くどい程に申して置くのぞ。汝は汝の三真釣りをしかり持ち行きて、汝の蛇を真釣り行くが努めぞ。天が下に仇を成す、大き蛇の火の響きはこの方に任すが善いぞ。三真釣り持たずに汝等の底底に封印せし蛇を解き放ち、これを真釣りてマコトに結ぶは、なまなかの事にありては出来はせんのぞ。十中八九逆様と成りて、真釣りた積もりが魔釣られて、知らぬうちに使われ居る由、気付けず。いつの間にか悪神のけん族と成り果てしもうて、化かされ、神民に仇成す力ばかり知らず与えられあるから、一見、善き事のように思え見ゆれども、やる事成す事、裏で世を持ち荒らす事に結びつきあるが解からんのじゃ。汝等の霊性申すは開発するモノにあらず。真先に心払い清めるが霊性顕現の基であるぞ。真釣りを外して霊性を開発なさる申すは、蛇の封印を解く事にてござるぞ。神を心底敬う心が無いから身欲が先に立ちて、そが甘き誘いにもすぐにだまされしもうのじゃ。

 汝等の念にて汝等も、汝等の周りも変え行くは叶う事にてあるなれど、神経綸の神法はちいとも変わりは致しはせんぞ。この事、特に気を付けて下されよ。こが悪神のまやかしの手口にござるのぞ。汝の思いを叶える事もご修行のうちでござるなれば、それはそれで良いなれど、真釣り無き思いは、必ずメグリを育む事になるから申して居るのぞ。汝等が創造出来る申すは、火水(カミ)が正位であろうとなかろうと、十字が傾きてござろうと、元つお仕組みによりて、マ十字に組み結びてあるが由、真中の何でも産み成す御座に、汝の思いを叶える力がハタラクからでござるよ。汝等皆々神成る身ゆえ、自らの真中から何でも、創り出すが出来るからであるぞ。なれど、そは真釣りて無くればマコトに結ばぬ由、末はメグリを持ちて、情けを持ちて解くしか無いものばかりでござるのじゃ。人民様の今今は、お命短き由、今さえ良けら良いなぞと申してござるが、今今の短きお命と、これからの至楽至善の永き御代に生くるお命と、どちらか選べ申すも愚かなことにてござろうが。

 このヒノモトに、今ザマの瞑想なるまやかしを持ちきたらし、普及致せし汝にキチリ申し置く由、首を洗いて聞きやれよ。汝もヒノモトにて産みなされし者なれば、このフミと縁を結べる程のミタマのござるから、一輪の花と情けを手向け取らす。一度で聞けよ。二度は無いぞ。汝、今今より他にやり直しの利かん所に立ち居るを知れ。汝の伝え広めし口の業、心の持ち業、行の結び業、今今の即座に止めよ。汝の成せしは、ヒノモトに残るマコトに仇を成す、真中の御座にケガレさす、悪き響きの蛇の業。知りて詫びるが出来ぬなら、今今、今に呼び出して、末代解く烙印を、汝の響きと致すのみ。汝にも一厘のマコト残りてあるなれば、口を慎み、心を慎み、行を慎みて、恥ずかしき事の無き様にしていて下されよ。神の人民様に仇成す者と成り果て居りては、汝の真中にも済まんであろうが。
    
 未だマコトの何たるかをよう取れん者が、蛇を上らすお手伝いの如き真似事を成さりて居りては、好い様に仇成す蛇の力に利用されるだけ利用されて、タテカエに入りて間違えだと気付きても、既に取り返しのつかぬ事でござるのぞ。身欲を汝の真中の御座に据え置かれては、末は解くしか無いと申して居ろうがな。

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感謝は神社(かんしゃ)に通じる気がする。肚(はら)の底から誠の感謝ができる人こそが、神のお宮となっている人、ということなのだろうと思う。

しかし、世の中見渡していると、心底相手を傷つけたり、だましたり、他人を食い物にしたり、骨の髄までしゃぶりつくすことが好きな人もいるけれど、悪側になると、まじできついらしい。

日月神示参照。

『一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ。此の道 難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下されたら それでよいのぢゃ。今が神国の初めぞ、今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ。まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山あるなれど、今度の俘虜(とりこ)まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ。神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな、事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用 事務所禁物ぞ、それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ。表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ、引寄せる身魂は、天で一度改めて引寄せるのであるぞ、今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ、人民の肚さへたら天もさへるぞ、心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ。我(が)はぢっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無い様な事では、我で失敗(しくじ)た此の方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふぞ。此の神示 無闇(むやみ)に見せるでないぞ、神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ。天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ、今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ。次に世に出る番頭殿 まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ、神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど、それでは臣民 可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ、神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ。人の十倍も今の仕事して其の上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らした事忘れたか、地に足つけよと申した事判らんのか、百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか、青氣(てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ。善と悪と小さく臣民分けるから判らんのざぞ、大きく目ひらけよ。松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。』(雨の巻 第十四帖 青氣は原文では「青+氣」の一文字漢字の形)

『神の申すことは一分一厘違はんのであるぞ、今度言ふことを聞かねば大変な気の毒となるぞ、地(智)の下になって了ふのであるぞ、12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910が【マコト】と申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、二二(ふじ)は晴れたり日本晴れぞ、判りたか。』(至恩の巻 第十五帖)

『のりのり祈らば 岩戸ひらけん。 神は一時は仏とも現れたと申してありたが、仏ではもう治まらん、岩戸が開けたのであるから、蓮華ではならん。人民も改心しなければ、地の下に沈むことになるぞ、神が沈めるのではない、人民が自分で沈むのであるぞ、人民の心によって明るい天国への道が暗く見へ、暗い地の中への道が明るく見えるのであるぞ、珍しきこと珍しき人が現れてくるぞ、ビックリ、ひっくり返らんように気つけてくれよ、目の玉 飛び出すぞ、たとへでないぞ。』(紫金の巻 第七帖)

『上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。』(雨の巻 第十二帖)

『神にすがり居りたればこそぢゃと云ふとき、眼の前に来てゐるぞ。まだ疑うてゐる臣民人民 気の毒ぢゃ、我恨むより方法ないぞ。神の致すこと、人民の致すこと、神人共に致すこと、それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ。慢心鼻ポキンぞ、神示よく読んで居らんと、みるみる変って、人民心ではどうにもならん、見当取れん事になるのざぞ、神示はじめからよく読み直して下されよ、読みかた足らんぞ、天の神も地の神もなきものにいたして、好き勝手な世に致して、偽者の天の神、地の神つくりてわれがよけらよいと申して、我よしの世にしてしまふてゐた事 少しは判って来たであらうがな。愈々のまことの先祖の、世の元からの生神、生き通しの神々様、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神ぞ、スクリと現れなさりて、生き通しの荒神様 引連れて御活動に移ったのであるから、もうちともまたれん事になったぞ、神示に出したら直ぐに出て来るぞ、終りの始の神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ、くどい様なれどあまり見せるでないぞ。』(風の巻 第七帖)

『日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ。神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、待てるだけ待ってゐるぞ、月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ。実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。出来ねばお出直しぞ。慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ。』(風の巻 第十二帖)

『牛の喰べ物たべると牛の様になるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。臣民の喰べ物は定まってゐるのざぞ、いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、獣と神とが分れると申してあろがな、縁ある臣民に知らせておけよ、日本中に知らせておけよ、世界の臣民に知らせてやれよ、獣の喰ひ物くふ時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、神に献げきらぬと獣になるのぞ、神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、くどう申すぞ、八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。』(天つ巻 第五帖)

『神の力が何んなにあるか、今度は一度は世界の臣民に見せてやらねば納まらんのざぞ、世界ゆすぶりて知らせねばならん様になるなれど、少しでも弱くゆすりて済む様にしたいから、くどう気つけてゐるのざぞ、ここまで世が迫りて来てゐるのぞ、まだ目醒めぬか、神は何うなっても知らんぞ、早く気つかぬと気の毒出来るぞ、その時になりては間に合はんぞ。』(天つ巻 第十九帖)

『一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中救ふのであるぞ、この神示腹に入れると神力出るのざぞ、疑ふ臣民沢山あるが気の毒ざぞ。一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ。生命あるうちに神の国のこと知らずに死んでから神の国に行くことは出来んぞ、神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ、お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、神のない世とだんだんなりておろがな。真通(まつ)ることは生かす事ぞ。生かす事は能(はたら)かす事ぞ。神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ、何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ。』(地つ巻 第三十帖)

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

『一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、今度は万劫末代のことぞ、気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。』(富士の巻 第四帖)

『今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ。タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、建直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。建直し急ぐぞ、建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ、元の世と申しても泥の海ではないのざぞ、中々に大層な事であるのざぞ。上下グレンと申してあることよく肚に入れて呉れよ。』(キの巻 第八帖)

『よくもまあ鼻高ばかりになったものぢゃなあ、四足(よつあし)と天狗ばかりぢゃ、まあまあやりたいだけやりて見なされ、神は何もかもみな調べぬいて仕組みてあるのぢゃから、性来だけの事しか出来んから、愈々となりて神にすがらなならんと云ふ事判りたら、今度こそはまこと神にすがれよ、今度 神にすがること出来んなれば万劫末代 浮ばれんぞ。したいことをやりて見て得心行く迄やりて見て改心早う結構ぞ。ミロクの世のやり方 型出して下されよ、一人でも二人でもよいぞ、足場早うつくれと申してある事忘れたのか。尾振る犬を打つ人民あるまいがな、ついて来る人民殺す神はないぞ、ミロク様が月の大神様。』(梅の巻 第二十帖)

『一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、今度は万劫末代のことぞ、気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。』(富士の巻 第四帖)

『神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ。一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ。待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ。あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん。』(雨の巻 第六帖)

とにかく仕組みが変わって輪廻転生が無くなるので、善も悪も末代となる。

今迄は悪いことをしても、死んだら閻魔大王様がいる地獄にいって、そこで更生してから、またこの世に出て、今度は善側へと鞍替えすることも出来る可能性があったが、もうそれは叶わなくなる、ということだ。

今度は現界と霊界が一つになって、霊界的側面をもった世界に行くので、永遠に続く地獄的世界に行った人は、そこで死んだら、ちょうどRPGゲームのように、一つ前のセーブ時点に戻されて、そこからまた同じことを繰り返す、という具合になるものと思われる。

当然そこには、今では現実に居ないとされる、多種多様の悪魔や怪物達が存在していて、ちょっとそこで行われていることは、今の世界では考えられないほどの悪が行われているように感じる。

ちょっと次元が違いすぎて、なんちゅうか、やばい気がする。しかもそれが永遠に続いて、今までのように輪廻転生もなくなるので、その世界から逃れる術がなくなる、と考えると、まさに日月神示でいうところの「末代浮かばれん」状態と言えるかと思う。

まあとにかくその世界では、恐怖でひきつった顔を見ることを、至上の喜びとしている悪魔とか、気を失うほどの苦痛で、思わずあげてしまう絶叫を聴くことを、無上の楽しみとしている怪物とかが、わんさかいて、もうやばい……。

たとえば、いやらしい笑みを浮かべながら肢体切断して遊ぶとか、箱の中にいやらしい蟲を一杯に詰めて、そこに人を放り込んで遊ぶとか、遺伝子操作をしてその人のクローンを何人も作って、とある闘技場みたいな所でバトルロワイヤル的な殺し合いをさせる、とか、そんなことは序の口で、そこではありとあらゆるむごたらしい悪的なことが行われており、しかも、もうその世界には誰一人「良心」を持っていないので、その世界では「我」と「力」こそが唯一の正義となっているのだ。

逆に、そんなひどいことをされる人は、力が弱いから悪い、馬鹿だから悪い、となり、誰も手を差し伸べてくれないのだ。

だから、頼りに出来るのは唯一自分のこの強い我(が)だけであり、そしてこの我を満たすためには、何らかの力が必要であり、よって力をつけることが正義だ、となるのだ。

しかしそんな世界でも、場所によっては一見すると天国的な世界があったりもする。

そこは色とりどりの美しい花が咲いており、空も真っ青で、本当にここは地獄的世界なのか、と目を疑うばかりだ。

そして、たとえばそこには、純真無垢な子供たちが住まう、きれいな宿舎があったりするのだが、実はそこは学校でもなんでもなく、ロリコン好きな悪魔的怪物的な人のための養成施設兼工場であって、アニメ「約束のネバーランド」やゲーム「アークザラッド」や「Xenogears」みたいに、注文があれば、即出荷されるわけである。

なぜなら、その子供たちを買う者たちにとっては、劣悪な環境で育った子供には興味がなく、上質な環境で育てられ、また性格もすれていない、「純真無垢」の存在こそが価値が高いからである。

或いは別の場所に目を向ければ、今ある宗教団体的なものの教祖様になっている者もおり、何千人、何万人と呼ばれる信者を従えているのだが、そこでは真理的な教義をふりかざしつつ、実質教祖様が神様状態で、やりたい放題している。

一方、信者と呼ばれる人々はまさに奴隷状態となっているのだが、驚くべきは、その信者と呼ばれる人々は洗脳されているので、心底喜んでその奴隷状態を続けている、という点である。

たとえば、若い女性信者は教祖様の性の慰み者になっており、年老いた女性信者は、教祖様に捧げる若い女性の管理者となっていたりする。そこでは常に「〇〇しなければ、教祖様に見捨てられるかもしれない」との思いを持ちながら、一生懸命教祖様に気に入られるべく、身も心も捧げて奴隷状態に甘んじているのだ。

一方男性信者は奉仕しなさい奉仕しなさいで、朝から晩まで働かされて、搾取されていたりする。そして教祖や幹部だけが贅沢三昧していて、一般信者は涙がちょちょぎれるほどの質素な生活を強いられていたりする。

恐ろしいのは、今のこの世界では人は「良心」というものを持っているので、万が一そういう状態に置かれた時にも、何らかの違和感を感じて、「なんか、この状況はおかしくないか?」と、気付くことが出来る場合もあるが、もうこの世界では「良心」がないので、疑問に思うこともなく、永遠にその状態を続けている、ということだ。

その世界はある意味、我善し力善しの世界で、我が強く力が強く、やりたい放題出来る人にとっては、そこは大変におもしろい天国的世界であり、上記の奴隷信者の人々も、傍から見れば奴隷状態だが、もうその時にはその状態に疑問もわいてこないので、当の本人にとっては、神に等しい教祖様にご奉仕することが、最上の喜びとなっており、それが当人にとっては天国的世界になっている、という点も忘れてはならないと思う。

日月神示参照。

『人間の死後、自分の命(イノチ)の最も相応(フサワ)しい状態におかれるのであるそ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。心の世界を整理せよ。そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。神の理(ミチ)が判れば、判っただけ自分がわかる。 めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ。白銀(しろがね)、鉄(くろがね)、これで終り。』(黒鉄の巻 第三十八帖)

そして、その地獄的世界では、どんな悪魔でも、どんな怪物でも、元は人間であって、その地獄的世界に最初から独立して居た存在ではない、という所がミソで、だからこそ、そこに住まう人々は逆に、我を強くして力をつけていけば、どんな悪魔にでも、怪物にでもなれる、という寸法なのだ。

一方、天国的世界に住まう人々は、誰もが魂の芯の芯から光を発していて、よく見るとその光り方や色が、一人一人微妙に違っているのだ。そして皆が皆、常に嬉し楽しの状態なので、常時顔が輝いているのだ。

このように一人一人の個性が如何なく発揮されているのだが、しかし、いわゆる国常立大神様と呼ばれる唯一神を拝んで祭っている、という点では一致しており、今のようにいじわるする人とか、嫉妬する人とか、暴力を振るう人とか、誰一人いないので、皆一様に安心して楽しく暮らしており、人々はお互いに礼拝する存在となるのだ。

また、みんな愛善深い人ばかりなので、何か困ったことがあったらすぐ手助けしてくれるし、いろんな知識や才能にすぐれているので、神様を土台としたその科学の文明が非常に発達しているのだ。

そして皆が皆、自らの心も体も才能も、全て神から流れて来ていることを理解しているため、たとえどんなに素晴らしい仕事やどんなに素晴らしい発明をしても、そこに「所有権」を主張しないのである。

つまり、全ての恵みを所有しているのは、大神様だけだ、ということを皆理解しているがゆえに、それら全ての働きや恵みは、全部無料で分け分けされているのだ。

日月神示参照。

『神から出る真、善、美、愛の用に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。為にその用は無数であり、且つ千変万化する。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。そして、その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。故に、何れの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。即ち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。為に、命令的なものはない。只、ひたすら奉仕があるのみである。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。』(地震の巻 第十八帖)

『神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから、気長に神求めよ。総ては神から流れ出てゐるのであるから、神にお願ひして実行しなければならん。この判り切った道理、おろそかにして御座るぞ。そこに天狗出てゐるのぞ。』(夏の巻 第十七帖)

『今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、@(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、ささげられたものだけがまことじゃ、乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでないぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与へぱなしぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、この方の申す様にやって見なされ、お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見なされ、お上も余るのぢゃ、此の道理判りたか。仕事させて呉れと申して、人民 喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ、皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。むさぶると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、そろばん捨てよ、人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。』(光の巻 第三帖 @は原文では「渦巻き」の記号)

下記参照。


直接関係ないけれど、偶然見かけた下記動画もおもろい。

『地球を統べる神が変わる!天照大御神から国常立太御神へ。2024年 初日の出、大戸開きで感じたこと』(「みこゆかり」さん)