かみのちの いましたまのさ
  わみるはる みわさのまたし まいのちのみか

(神の治の 今し玉の座 和見る春 神業の全し 真命の見が)

解説

治(ち)は「世の中がよくおさまっていること。また、おさまるようにすること。」「まつりごと。政治。」、今し(いまし)は「たった今。今という今。」、全し(またし)は「完全である。欠けていない。」、見(み)は「ながめ。」の意味です。

余談

この歌は、霊界物語の下記部分を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『霊界物語 第77巻 第3篇 善戦善闘 第20章 女神の復命』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


余談

大本神諭には「日本の天立君神権政治(かみのまことのみち)を立憲君主政治(がいこくのせいじ)に変更いたして」とあるので、日本は元々は「天立君神権政治」ということになり、神権政治ということになる。基本宣伝歌の「神が表に現はれて」は、そのような意味もあるようにも思う。

そして今回、悉くこの「神権政治」に戻るのではないか、とも思う。

大本神諭参照。

『大本神諭 大正元年旧7月4日』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さん)


日月神示でも「神裁」という言葉が出て来る、それも神人交流によってなされる、という。

日月神示参照。

『大奥山は神人交流の道の場である。道は口で説くものではない。行ずるものである。教は説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。 それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日) 神はうそつきぢゃと人民申しても、悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、こらえられるだけこらえてゐるのである。もう、ものばかりでは治まらんこと、キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、気の毒が来ぬ前に改心結構。遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。よくこの神をだましてくれたぞ、この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。 区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。霊かかりもやめて下されよ。 人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。科学を更に浄化弥栄させねばならん。 空間、時間が霊界にないのではない。その標準が違うから無いと考えてよいのである。 奥山は奥山と申してあろう。いろいろな団体をつくってもよいが、何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。 奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。大き一つではあるが別々ぞ。今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、これが判らねば この度の大神業、判りはせんぞ。』(月光の巻 第七帖)

王はタマで現れるとあるので、人が神となるとあるので、要は人々が内なる神に目覚めて、人々の中の直霊(なおひ)が完全に活動して、それを土台として今度は世の中を作っていくということなのだろうと思う。

日月神示参照。

『天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ。礼拝の仕方 書き知らすぞ、節分から始めて下されよ、先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、又キ整へて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)と言(こと)高くのれよ、又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ。世界の臣民 皆のれよ、身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、身魂(みたま)全体で拍手するのざぞ、終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千卍(ももちよろず)と言(こと)高くのれよ、神気整へて天(アメ)の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、これは祈るのざぞ、九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、終りて八拍手せよ、次に雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、百々(もも)の神様、世の元からの生神様、産土(うぶすな)の神様に御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな、何よりの臣民人民の生(いき)の命の糧(かて)であるぞ、病なくなる元の元のキであるぞ、八度繰り返せと申してあろ、暫くこのやうに拝めよ、神代になる迄にはまだ進むのざぞ、それまではその様にせよ、此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ。神の心となれば誠判るぞ。誠とはマとコトざぞ、神と人民 同じになれば神代ざぞ、神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まるのざぞ。雀の涙程の物 取り合ひ へし合ひ 何して御座るのぞ、自分のものとまだ思ってゐるのか。御恩とは五つの音の事ざぞ、御音(恩)返さなならんのざぞ、此の事よく考へて間違はん様にして下されよ。此の巻は雨の巻ぞ、次々に知らすからミタマ相当により分けて知らしてやれよ、事分けて一二三(ひふみ)として知らしてやるのもよいぞ。役員皆に手柄立てさしたいのぢゃ、臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、待たれるだけ待ってゐるのぢゃ、一人で手柄は悪ぢゃ、分けあってやれよ、手握りてやれよ。石もの云ふぞ、十六の八の四の二の一目出度や目出度やなあ。神の仕組の世に出でにけり、あなさやけ、あな面白や、五つの色の七変はり八変はり九(ここ)の十々(たりたり)て百千万(ももちよろず)の神の世弥栄。』(雨の巻 第十七帖)

『誰の苦労で此の世出来てゐると思ふてゐるのぢゃ。此の世を我がもの顔にして御座るが、守護神よ、世を盗みた世であるくらゐ、わかってゐるであらうがな。早う元にかへして改心いたされよ、神国(かみくに)の王は天地の王ざぞ、外国(とつくに)の王は人の王ざぞ。人の王では長う続かんのぢゃ。外国にはまだまだ、きびしいことバタバタに出て来るぞ、日本にもどんどん出て来るぞ。云はねばならんことあるぞ。出づ道は二つ、一はひらく道、二は極む道、道出で世に満つ、ゑらぎゑらぐ世ぞ。前に書かしてあること、よく読めばわかるのぢゃ、御身(みみ)に利(き)かして御身でかかしたもの二曰(じし)んの巻といたせよ。いよいよア@九(あらく)なって来るのざぞ。因縁みたま結構となるのざぞ。』(岩の巻 第十一帖 @は原文では「渦巻」の記号)

『今度の戦済みたら てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。神の国が勝つばかりではないのざぞ、世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ。人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ、てんし様は申すもかしこし、人民さま、犬猫にも済むまいぞ。人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな、目に見せてあらうがな、これでも分らんか。』(天つ巻 第十六帖)

『みろく出づるには、はじめ半(なか)ばは焼くぞ、人、二分は死、みな人、神の宮となる。西に戦争(いくさ)しつくし、神世とひらき、国毎に、一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)たりて百千万(ももちよろず)、神急ぐぞよ。』(天つ巻 第二十一帖)

『新しき世とは神なき世なりけり。人、神となる世にてありけり。世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ。この世の頭(かしら)いたして居る者から、改心致さねば、下の苦労いたすが長うなるぞ、此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか。世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下されよ。金も銀も銅も鉄も鉛も皆出てござれ。それぞれにうれしうれしの御用いくらでも与へてとらすぞ。』(風の巻 第十四帖)

『四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ、天も変るぞ地も変るぞ。此の方等が世建直すと申して此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ。此の神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん 此方(こちら)でくづれぢゃ、大事な仕組 早う申せば邪魔はいるし、申さいでは判らんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才があるからざぞ。鼻高ぢゃからざぞ。神の国は神の国のやり方あると申してあろがな、よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って神の国は神の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も何も彼も裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ、神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ。ひふみがヨハネとなり、五十連(イツラ)となりなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワとほりだして十二の流れ結構ざぞ。知らしてあろがな、是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ、外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさるのざぞ、竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ。今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後の十十※(トドメ)(透答命)ざぞ、今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ。信心なき者ドシドシ取り替へるぞ、此の中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな、神厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ、と申してあろがな。役員多くなくても心揃へて胴(十)すへて居りて下されよ、神がするのであるから此の世に足場作りて居りて下されよ、神無理申さんぞと申してあろがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ。身魂相当に皆させてあろがな、掃除早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ、此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心悪ぢゃぞ』(雨の巻 第十五帖 ※は原文では「目のマーク」の形)』(雨の巻 第十五帖)

『御光(みひかり)の輝く御代となりにけり、嬉し嬉しの言答(一八十)明けたり。あなさやけ、三千年の夜は明けて、人、神、となる秋(とき)は来にけり。日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ、二二晴れるぞ、一八十開けるぞ。御神名書かすぞ、ひかり教会のりとは、ひかりの大神、弥栄ましませ弥栄ましませ、ひかりの大神守り給へ、幸へ給へと、申せよ。弥栄弥栄(やさかいやさか)。』(空の巻 第十四帖)

それで神の行う政治とは何ぞや、ということだが、日月神示の下記部分では、与える政治、とある。

日月神示参照。

『今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、@(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、ささげられたものだけがまことじゃ、乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでないぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与へぱなしぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、この方の申す様にやって見なされ、お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見なされ、お上も余るのぢゃ、此の道理判りたか。仕事させて呉れと申して、人民 喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ、皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。むさぶると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、そろばん捨てよ、人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。』(光の巻 第三帖 @は原文では「渦巻」の記号)

『われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ、日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ、いくらあかりつけても夜は夜ぞ、神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分らぬか、神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。腹にチャンと神鎮まって居れば何事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか、ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならんのざぞ。神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流れる水のやり方ぞ。神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ。飛行機も船も臣民もみな同じぞ。足元に気つけて呉れよ、向ふの国はちっとも急いでは居らぬのぞ、自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。神の申すこと取り違ひせぬ様にして呉れよ。よくこの神示(ふで)よんで呉れよ、元の二八基(じゃき)光理(こり)てわいて出た現空(あく)の種は二八基(じゃき)と大老智(おろち)と世通足(よつあし)となって、二八基には仁本の角、大老智は八ツ頭、八ツ尾、四通足(よつあし)は金母であるから気つけておくぞ。世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐるから、守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ。』(地つ巻 第十八帖)

『与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。神示よく読めば示してあるのであるぞ。ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。生れ赤児になれば判るぞ。知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。つけ焼刃は危ない、危ない。気狂ひに刃物ぞ。平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ。』(春の巻 第四十三帖)

『アメツチノトキ、アメミナカヌシノミコト、アノアニナリマシキ、タカアマハラニ ミコトトナリタマヒキ。 今の経済は悪の経済と申してあろがな、もの殺すのぞ。神の国の経済はもの生む経済ぞ。今の政治はもの毀(こわ)す政治ぞ、神の政治は与へる政治と申してあろが。配給は配給、統制は統制ぞ。一度は何もかも天地に引上げと申してあるが、次の四(よ)の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。それで神がくどう申してゐるのぞ。種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐるぞ。上下に引繰り返ると申してある事近づいて来たぞ。種は百姓に与へてあるぞ。種蒔くのは百姓ぞ。』(日月の巻 第六帖)

『慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてあるのぞ。よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。昔からのメグリであるから、ちょっとやそっとのメグリでないから、何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならんのざぞ。どこにゐても救ふ臣民は救うてやるぞ。真中動くでないぞ、知らぬ顔しておる事も起るぞ。』(日月の巻 第十六帖)

『楽してよい御用しようと思ふてゐるのは悪の守護神に使はれてゐるのざぞ。人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。魂は鉄砲では殺せんのざぞ。魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ。和合せんとまことのおかげやらんぞ、一家揃ふたらどんなおかげでもやるぞ。一国そろたらどんな神徳でもやるぞ、おのづから頂けるのざぞ。神いらん世にいたして呉れよ。』(風の巻 第十三帖)

『まつりてない時はお日様とお月様おろがめよ、マトとせよ。裁判所(しらす)いらんぞ、牢獄(ろうや)いらんぞ、法律いらんぞ、一家仲ようしたらいらんのぢゃ、国も同様ざぞ。そんな事すれば、世の中メチャメチャぢゃと申すであらうが、悪人がとくすると申すであろが、誰も働かんと申すであらうが、与へる政治だめぢゃと申すであろ、人間の小智恵ぢゃ。其処に人間の算盤(そろばん)の狂うたところ気付かんか、上に立つ人もっともっと大き心 結構ぞ、算盤なしで梶とらすぞ、神の申す通りに進むのぢゃ、これが出来ねば一段さがって頭下げてござれ、余り大き取違ひばかりぢゃぞ、悪の守護となってゐるからぢゃ、此処の道理判るまでは動きとれんのぢゃぞ。世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱(かむはしら)現はしてあろが、これは皆この方の仕組ぢゃから、皆 仲良う手引き合ってやって呉れよ。』(光の巻 第四帖)

『金(かね)いらん事になると申してあろが、世界の人民 皆青くなって、どうしたらよいかと何処尋ねても判らん事近づいたぞ、早うこの神示読ましてくれよ、神の心が九分通り臣民に判りたら、神の政治判るのぢゃ、与へる政治いくらでもあるぞ、一通りと思ふなよ、時と所によっていくらでもあるのぢゃ、つまることない神のまつりごとぢゃ。人民の政治 神国には用いられんのぢゃ、三千世界天晴れの政治 早う心得て、まつり呉れよ。悪神の眷族はまだよいのぢゃ、箸にも棒にもかからん、話の判らん動物霊に化かされて、玩具(おもちゃ)にされてゐて、まだ気付かんのか、神は何時迄も待たれんから、こんな身魂(ミタマ)は一所に集めて灰にするより他ないから心得て居りて下されよ。』(マツリの巻 第七帖)

ということで、やはり日本は、善人悪人分け隔てなく、無料で誰にでもそのエネルギーを与えているお天道様(=太陽)のあの姿に倣って、税金を撤廃して、何もかも無料にする代わりに、皆がタダ働きする「日の光の政治」「与える政治」を、一日も早く始めるべきだ。

 

いわゆる神、火水(かみ)、火水(ひみづ)、秘密の「一厘の仕組み」とは、「秘密」は日光(ひみつ)で、そして「一厘」は一輪、一つの輪、天に輝く一つの日輪、お日様、ということなのではないかとも思う。

 

つまり、秘密は秘密でもなんでもなく、日光(ひみつ)であり、既に皆の前に現れている明らかな光であり、我々は、無料で誰にでもそのエネルギーを与えている、あの日の光の姿に倣って、税金を撤廃して、何もかも無料にする代わりに、皆がタダ働きする「日の光の政治」「与える政治」を、一日も早く始めることが、一厘の仕組みの成就に繋がっているのではないか、とも思うのだ。

下記参照。