厚労省の決定した子供の年間被曝量20ミリシーベルトの強要には断固反対している。
この年間20ミリシーベルトがいったいどんな値なのか具体的にイメージするのは難しい。
原発作業員の労災認定された方の被曝量のまとめがあったので見て頂きたい。
累計50~70ミリシーベルト(年間ではない)で、数年後障害が現れている。
被曝労働者も、50ミリシーベルトを超えたあたりから体調が悪くなるとのこと。
「8年10ヶ月勤務~50.63ミリシーベルト被曝~慢性骨髄性白血病により死亡~労災支給」
ということは、年間20mSV被曝する校庭で指導する体育教師は十分、労災認定される。
しかし子供たちは労働しているわけではないので、もちろん労災認定はされない。
子どもに年間許容被爆量が20ミリシーベルトという基準は、考えられない。
文部科学省は、校庭など、幼稚園や学校の屋外で子供が活動する際の放射線量の基準を福島県に示す方針を固めたこの基準によれば、児童生徒の年間被爆許容量を20ミリシーベルト(2万マイクロシーベルト)としている。
20ミリシーベルトといえば、原発労働者の年間の許容被曝量。
□嶋橋 伸之
1993年5月、静岡県労働基準局磐田署に労災申請。
実名での最初の認定。(認定2件目)。
中部電力浜岡原発勤務、計測装置点検作業。81年3月から89年12月まで8年10ヶ月勤務して、50.63ミリシーベルト被曝。
慢性骨髄性白血病により91年10月20日死亡。29才。94年7月労災支給。
□大内 久
1999年9月30日、JCO東海事業所臨界事故。
16~20シーベルト(16,000~20,000ミリシーベルト)被曝。35歳。死亡。
□篠原 理人
同上。6~10シーベルト被曝。39歳。死亡。
□横山 豊
同上。1~4.5シーベルト被曝。54歳。生存。
JCO東海事業所臨界事故で水抜きの突撃隊が作られたが、当時、「針が振り切れた」というのは100ミリーシーベルトを超えたことをさした。
□長尾 光明
2003年1月、福島県富岡署に労災申請
福島第一、浜岡原発、ふげんで被曝労働。
77年10月から82年1月まで4年3ヶ月従事。70ミリシーベルト被曝。
多発性骨髄腫。2004年1月労災支給。
すべての情報開示と完全な補償を求め雇用主の石川島プラントや東電に話し合いを申し入れたが拒否され、04年10月7日、「原子力損害の賠償に関する法律」に基づき4400万円の損害賠償を求める裁判を東京地裁に提訴。
2007年12月死亡。82歳。2010年 2月、最高裁上告棄却。敗訴確定。
□喜友名 正(きゆな ただし)
淀川労働基準監督署に労災申請。
泊、敦賀原発など全国7ヶ所の原発で97年9月から6年4ヶ月間、非破壊検査に従事。99.76ミリシーベルト被曝。
悪性リンパ腫により2005年3月死亡。53歳。
2005年10月、遺族は労災を申請。2006年9月却下。2007年、不服申し立てにより厚生労働省で「りん伺」(上級官庁に伺いを立てる)決定。 2008年10月労災認定。
累計50~70ミリシーベルトで、数年後障害が現れている。被曝労働者も、50ミリシーベルトを超えたあたりから体調が悪くなるとのこと。
子どもに年間許容被爆量が20ミリシーベルトという基準は、考えられない。