【今日の1枚】Area/Arbeit Macht Frei(アレア/自由への叫び) | 古今東西プログレレビュー垂れ流し

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Area/Arbeit Macht Frei(Il Lavoro Rende Liberi)
アレア/自由への叫び
1973年リリース

色気と力強さとスピード感が光る
超絶技巧のイタリアンジャズロック

 鬼才、デメトリオ・ストラトスが率いるイタリアン・ジャズロックの金字塔であり、クランプレーベルの記念すべき第一弾としてリリースされたアレアのデビューアルバム。そのアルバムはデメトリオの強烈な個性のヴォーカルをはじめ、キレのある変拍子がもたらす緊張感、思わず唸りたくなる展開といった硬質に畳みかける圧巻の音像が魅力のプログレッシヴジャズロックとなっている。ジャズをルーツにしながら極めて早い時期にワールドミュージックの技法を取り入れ、アレアの数ある作品の中でも最もインターナショナル性の高い内容となっている。

 アレアというグループの歴史はデメトリオ・ストラトスと共にあったと言っても良いだろう。彼は1945年にエジプトのアレクサンドリアで生まれたギリシャ人で、正式な名前はエフストラティオス・デメトリオである。彼は13歳までエジプトで過ごす中、ピアノやアコーディオンを学んでおり、また、両親がギリシャ正教の信者だったため、ビザンチウムの音楽に親しみ、他にもアラビアの伝統音楽や初期のロックンロールにも触れている。そのようなアレクサンドリアで過ごした経験が後のアレアやソロでも体現され、さらに国際的な文化のポーターとしての役割に繋がっていくことになる。その後、1956年に勃発したスエズ危機に直面したため、家族と共にキプロスに移住。彼はキプロスのニコシアにあるホーリーランド大学付属の中等学校に留学している。父の仕事の都合で家を転々としていた家族だったが、1962年にイタリアのミラノに居を構えている。この時、名前をデメトリオとし、洗礼名をエフストラティオスに置き換え、正式名をデメトリオ・ストラトスと名乗るようにしている。18歳となった彼はミラノ工科大学に入学し、建築学を学びながら音楽活動を開始。最初はキーボードを演奏していたが、後にミラノのクラブを中心にソウルやR&Bのカヴァー曲を歌うシンガーとなり、1966年には彼はザ・クロックワーク・オレンジスという名で、 シングル『Ready Steady/After Tonight』で歌手デビューしている。1967年にはビートグループであるイ・リベリに加入し、ピアニスト兼リードシンガーとして1970年まで活躍。イ・リベリを離れたデメトリオは、1971年にルーチョ・バッティスティのレーベルであるヌメロ・ウーノからシングル『ダディーズ・ソング』を発表している。この頃の彼は娘のアナスタシアを見て思い立ち、音楽や声楽の研究に勤しむようになったという。デメトリオは「子どもは言葉を整えるために音を失う」という言葉を残しており、ここから観察される音の探求はその後の彼の短い音楽人生において重要な意味を持つようになる。

 デメトリオは元ザ・ボーボーズ・バンドのドラマーであるジュリオ・カピオッツォと出会っている。1966年に結成したザ・ボーボーズ・バンドはミラノの有名クラブであるサンタ・テクラで演奏して知名度を上げ、後にパーロフォンとの契約してシングル曲は大ヒットし、さらにジミ・ヘンドリックスのオープニングアクトを務めた人気グループである。ジュリオは脱退したフランキーノ・ヴェルデの後任として加入したが、1972年に解散。彼もエジプトの音楽院を卒業していたことでワールドワイドな感性を持ったミュージシャンで、デメトリオと意気投合。芸術的な個人主義を克服し、「融合と国際性を備えた総合的な音楽」を創造するグループとして、アレアを同年の1972年に結成することになる。メンバーにはデメトリオとジュリオ以外に、ベルギー人のヴィクトル・ブスネッロ(サックス)、フランス人のパトリック・ジヴァス(ベース)、イタリア人であるレアンドロ・ガエタリーノ(ピアノ)、イタリア系ハンガリー人であるジョニー・ランビッツィ(ギター)の6人編成で活動を開始。彼らはアルベルト・ラディウスのファーストソロアルバムのレコーディングに参加し、1972年のニュークリアスをサポートするツアーにも参加している。途中でメンバーであったギタリストのジョニー・ランビッツィとピアニストのレアンドロ・ガエタリーノが脱退したため、代わりのギタリストにパオロ・トファーニ、ピアニストにパトリッツィオ・ファリセッリが加入している。 彼らはレコードプロデューサー兼作詞家であるジャンニ・サッシと文化プロジェクトの活動家であったセルジオ・アルベルゴニを迎えて、グループのイメージや社会性のある歌詞を提供したという。こうしてクランプスレーベルと契約した彼らは、1972年7月6日にミラノのフォノラマ・スタジオで数週間のレコーディングを行い、デビューアルバムである『自由への叫び』が1973年にリリースされることになる。そのアルバムは卓越したテクニカルな演奏とデメトリオの強烈なヴォーカルが織り成す硬派なジャズロックとなっており、何よりもデメトリオとジュリオがエジプトで過ごした経験によるワールドミュージック的な要素が色濃く反映された作品となっている。

★曲目★ 
01.Luglio, Agosto, Settembre~Nero~(7月、8月、9月~黒~)
02.Arbeit Macht Frei(自由への叫び)
03.Consapevolezza(自覚)
04.Le Labbra Del Tempo(時間の唇)
05.240 Chilometri Da Smirne(スミルネから240キロ)
06.L'Abbattimento Dello Zeppelin(ツェッペリン号の崩壊)

 アルバムの曲はピアニストであるパトリッツイオ・ファリセッリが作成している。アルバムの1曲目の『7月、8月、9月~黒~』は、女性のアラビア語による詠唱から始まり、デメトリオのヴォーカルから一気にアラビック調の明朗なメロディによるアンサンブルに変化する楽曲。途中からピッチが上がり、多彩な楽器が飛び交うフリージャズになり、独特とも言える雰囲気に包まれる。ポップでありながらフリーの要素を取り入れ、テクニカル性を強調した彼ら無国籍な音楽性が垣間見れる楽曲である。2曲目の『自由への叫び』は、ドラムスを中心とした即興からエフェクトをかけたフルートやギターが加わり、キーボードやサックスを交えたプログレッシヴなジャズサウンドに変化していく作曲。サックスとギター、キーボードによるパワフルな演奏は、メル・コリンズ在籍時のキング・クリムゾンにも通じる。3曲目の『自覚』は、インタープレイがアルティ・エ・メスティエリにも通じるテクニカルなジャズロック。サックスやギターがブルージーであり、それに合わせるかのようにデメトリオのヴォーカルが非常にソウルフルである。4曲目の『時間の唇』は、サックスを中心としたブラスロックからギターのアルペジオとサックスのユニゾンに移り、デメトリオの力強いヴォーカルが印象的な楽曲。中盤からパワフルなリズム隊をバックにしたキーボードソロが展開し、次第にアップテンポになっていくと凄まじく畳みかける演奏となる。後半ではスペイシーな雰囲気に包まれたシンセサイザーとデメトリオの吠えるようなヴォーカルを経てクライマックスへ突き進んでいく。5曲目の『スミルネから240キロ』は、サックスやエレクトリックピアノといった各楽器のソロ回しを中心としたストレートなジャズロックナンバー。中盤からはパトリック・ジヴァスの華麗なベースソロが展開している。6曲目の『ツェッペリン号の崩壊』は、本アルバムの中でも最もフリー色の強い楽曲。エフェクトを加えた即興から始まり、多重録音といえるギターソロやデメトリオの色気さと狂気のあるヴォーカルが印象的である。

 アルバムはクランプスレーベルの第一弾としてリリースされたことで注目を浴び、テクニカルな演奏を好む人たちから高い評価を得たという。しかし、一方で政治的テーマに加えて、社会的関与のある歌詞に対して批評家から一般のリスナーまで賛否両論が巻き起こったとされている。アルバムリリース後、メンバーであったサックス奏者のヴィクトル・ブスネッロとベーシストのパトリック・ジヴァスが、P.F.M.(プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ)に加入するために脱退。1973年はイタリアでも国際的な動きをみせるグループが次々と誕生した時期であり、P.F.M.は1973年のアルバム『幻の映像』でマンティコア・レコードから国際デビューを果たしている。代わりのベーシストにアレス・タヴォラッツィが加わり、黄金期のメンバーが出揃うことになる。以降、1974年に『汚染地帯』、1975年に『アレ(ア)ツィオーネ』、さらに1976年にはフリージャズの傾向を強めて多彩なゲストを迎えたアルバム『呪われた人々』など、イタリア屈指のジャズロックグループとして君臨し続けることになる。この時、デメトリオはソロや他のアーティストとのデュオなど、様々なアルバムをレコーディングしている。1978年にはギタリストにパオロ・トファーニが脱退して4人編成となり、クランプスレーベルからAscoltに移籍。同年にアルバム『1978 Gli Dei Se Ne Vanno, Gli Arrabbiati Restano!』をリリースした後に、デメトリオ自身がグループから脱退することになる。デメトリオはソロ活動を中心に行い、ジョン・ケージは彼をニューヨークのラウンドアバウトシアターでコンサートを開催するよう招待し、ジャスパー・ジョーンズの芸術監督の下でマース・カニンガム・ダンス・カンパニーのイベントに参加。この時にケージが用意した衣装によるミュージカルを行っている。しかし、デメトリオは再生不良性貧血という難病を患っていることを知り、1979年3月30日にモンツァのテアトリーノ・デッラ・ヴィッラ・レアーレで最後のコンサートを開催。彼は4月2日にミラノ総合病院に入院し、そこからニューヨークの記念病院に転院している。このニュースはイタリアの音楽シーンでも広まり、クランプスの創設者でアリアの作詞家であったジャンニ・サッシは、高額な入院と治療を保証する資金を集める目的で、ミラノの市民アリーナで開催されるコンサートを企画。しかし、ストラトスの病状が予想よりも急速に悪化し、チャリティーイベントの予定日の前日である1979年6月13日に心血管虚脱により34歳で亡くなることになる。このため、チャリティーイベントは彼の功績を讃える追悼コンサートになったという。


 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はフリージャズをベースに様々なジャンルを取り入れて独自のスタイルを構築したアレアのデビューアルバム『自由への叫び』を紹介しました。アレアはアルティ・エ・メスティエリと双璧を成すイタリアのテクニカルジャズロックグループとして早くから聴いていましたが、最初はフリージャズ特有のとっつき悪さが祟ってか、あまり良いイメージがありませんでした。実は今まで未入手だった1978年のアルバム『1978 Gli Dei Se Ne Vanno, Gli Arrabbiati Restano!』を最近になって聴くことがあって、超絶技巧の演奏の中に美しいポップ性が垣間見える瞬間があり、彼らが自称するインターナショナル・ポピュラー・ミュージックに触れたことで改めてアレアを通して聴くようになりました。黄金メンバーによるセカンドアルバムの『汚染地帯』以降が、アレアの音楽の歴史からして重要かもしれませんが、私はデビューアルバムである本アルバムこそ、デメトリオ・ストラトスが経験した民族性やイタリアにおける社会性の強さが前面に出た攻撃的な作品だと思っています。ジャズやロックをルーツにしながら極めて早い時期にバルカン民謡やホーミーまで、ワールドミュージックの技法を取り入れていて、さらに社会性を色濃く反映した歌詞による民衆の音楽として、本アルバム以降、アレアの果たした役割は非常に大きいです。

 さて、本アルバムですが、タイトルの『Arbeit Macht Frei』は直訳すると「働けば自由になる」という意味のドイツ語ですが、実はアウシュビッツ収容所に掲げられていた極めて忌み嫌われてる表現です。このタイトルからすでに彼らの政治的、社会性を反映した独特のグループであることが分かります。このアルバムはロックやフリージャズ、ポップ、電子音楽、前衛音楽などのジャンルを組み合わせた楽曲が多いです。女性のアラビア語の詠唱で始まり、デメトリオの強烈な声によるイントロ、当時の若者たちが無伴奏で歌えたというある種の讃歌である最初の曲は彼らの持つ音楽の本質を体現しています。その後はダンサブルなアンサンブルが縦横無尽に飛び交い、ポップでありながらそのエスニックなジャズロックは衝撃的です。インタープレイを含む畳みかけるような演奏と存在感のあるデメトリオの凄まじい歌唱力に引きずられる形で進んでいくスタイルは唯一無二だと思います。一聴すると自由奔放なデメトリオのヴォーカルとキレのある変拍子がもたらす緊張感のある演奏に圧倒されてしまいますが、ふとそこから生まれる美しいフレーズが聴き取れるのが何とも言えません。

 フリージャズは確かに最初は取っつき悪い印象が持たれがちですが、彼らのあらゆるジャンルを通しながら吐き出すようなエネルギーが感じられる作品です。ワールドミュージックの先駆けともいえる本作品を一度じっくり聴いてみることをオススメします。

それではまたっ!