【今日の1枚】Alas/Pinta Tu Aldea(アラス/あなたの村の情景) | 古今東西プログレレビュー垂れ流し

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Alas/Pinta Tu Aldea
アラス/あなたの村の情景
1983年リリース(1977年録音)

多彩なキーボードと変拍子からなる
ラテン色の強いシンフォニックジャズロック

 スペイン語で「翼」を意味するアルゼンチンを代表するキーボードトリオ、アラスのセカンドアルバム。そのサウンドはジャジーなピアノと攻撃的なオルガンによる変拍子を伴うインプロゼーションとなっており、前作を上回る超絶技巧のインストゥメンタル・シンフォニックアルバムとなっている。後にパット・メセニー・グループに加入する当時17歳のペドロ・アスナールをベーシストに迎えた本作は、初期のリターン・トゥ・フォーエヴァーやマハヴィシュヌ・オーケストラを彷彿とさせる名盤として現在でも高く評価されている。

 アラスは1974年にキーボーディストであるグスタボ・モレットを中心に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで結成されたグループである。グスタボ・モレットは前衛作曲家でピアニストだった母親の影響を受け、ショパンやベートーヴェンといったクラシック音楽を幼少のころから聴いて育ったという。最初に触れた楽器はトランペットで、後に母親からピアノを習ったものの正規の教育は受けていない。20歳の頃にプロとしてグループに加わったのが、地元のブラスロックグループであるAlma Y Vidaである。モレットが作曲したという『Hoy Te Queremos Cantar』がグループ最大のヒット曲となり、後にグループの中でプログレッシヴ要素の強い実験的な曲を担うようになる。グループではトランペットをはじめとする管楽器を演奏していたが、作曲を担当するようになってから自然にキーボードを演奏するようになったという。しかし、この頃から自分の内なる音楽をそのまま演奏したいという考えが強くなり、商業化するグループの方向性に疑問を持ち始めて1974年に脱退することになる。モレットはすぐに自身の音楽に共感するメンバーを集める行動を起こし、プロテスト・ソングを歌っていたフォークデュオ、ペドロ&パブロのバックを務めていたベーシストのアレックス・ズッカー、元マテリアグリスというグループに在籍していたドラマーのカルロス・リガンティに声をかけている。こうして2人のメンバーが加わり、1975年にアラスというグループで活動を開始する。モレットは当初、スペイン語で歌われるロックと自身が考え出した複雑な音楽を自由に組み合わせた演奏を披露しようとしたが、そこに母国であるアルゼンチンを反映させたものにできないかと考えたという。彼らは何度もリハーサルを行い、ブエノスアイレスのIFT劇場でステージデビューを飾ることになる。後にアルゼンチンのロザリオやコルドバ、バイアブランカといった主要都市を回る短いツアーを行い、アラスの知名度は次第に高まっていったという。やがて同年に大手EMIと契約を交わし、シングル『Rincon, Mi Viejo Rincon/Aire』をリリース。そのシングルはリターン・トゥ・フォーエヴァーの影響が感じられるテクニカルなジャズロックを披露した内容になっている。手ごたえを感じた彼らはアルバム制作に着手し、1976年の夏ごろにデビューアルバムとなる『アラス』をリリースすることになる。そのアルバムは数パートからなる2曲の大曲となっており、前者はタンゴ、後者はビダラというリズム楽器を使用したモレットが考える母国アルゼンチンを反映させた楽曲となっている。1976年10月に行われたコンサートでは、オスバルド・プリエーゼのオーケストラのメンバーであるバンドネオン奏者のダニエル・ビネリ、ファン・ホセ・モサリーニ、ロドルフォ・メデーロスの3人が参加し、大反響を呼んでいる。1977年になるとベーシストのアレックス・ズッカーが脱退。彼はアメリカに渡り、Malangeというグループを結成して活躍することになる。ズッカーの代わりに加入したのが、当時17歳の若きベーシストであったペドロ・アズナールである。彼はすでにMadre Atomicaというグループで、リト・エプメールやモノ・フォンタナといったメンバーと共に演奏していた実力者であったという。この新たなラインナップでアラスはツアーの合間にセカンドアルバムを録音している。しかし、次の年にモレット自身が音楽教育を完了するためにアメリカのボストンに渡ったことで活動が中断。このため、セカンドアルバムが遅れてリリースされることになり、6年後の1983年に本アルバムが陽の目を見ることになる。そのアルバムはモレットのジャジーなピアノをはじめとする多彩なキーボードやフルートを中心にとしたテクニカルなシンフォニックジャズとなっており、3人の息をのむインプロゼーションが素晴らしい傑作となっている。
 
★曲目★
01.A Quinenes Sino(見知らぬあなたに)
02.Pinta Tu Aldea(あなたの村の情景)
03.La Caza Del Mosquito(モスキート狩り)
04.Silencio De Aguas Profundas(水底の静寂)
★ボーナストラック★
05.Live Session(大気~インプロヴィゼーション~ライヴ)
06.Bs.As. Solo Es Piedra(ブエノスアイレスはただの石ころ~ライヴ~)

 アルバムの1曲目の『見知らぬあなたに』は、モレットのストリングシンセサイザーによるイントロから、フルートを交えたエネルギッシュなキーボードアンサンブルになっていく楽曲。リズムセクションが加わり、パトリック・モラーツの『i~ストーリー・オブ・アイ~』や『アウト・イン・ザ・サン』に通じる疾走感のあるラテンフュージョン的な展開となる。オルガン、ストリングスシンセサイザー、ピアノなど多彩なキーボードをうまく配置し、特に中間部のジャジーなピアノソロが素晴らしいアクセントとなっており、技巧的なプレイと合わさって官能的ですらある。2曲目の『あなたの村の情景』は、バンドネオンによるアルゼンチンタンゴを導入したユニークな曲になっており、変拍子や緩急を交えたテクニカルな演奏となった楽曲。バンドネオンを効果的に使用したタンゴによる速い展開から、クラシカルなエレクトリックピアノによるスローパートがあり、曲に二面性を与えた内容になっているところが印象的である。遠くから聴こえるトランペットに哀愁があり、喧噪と静寂が伴うアルゼンチンの情景を描いているようである。後半はペドロ・アズナールの技巧的なベースとキーボードを主軸としたテクニカルなフュージョンを魅せている。3曲目の『モスキート狩り』は、フルートとピアノによる繊細なアンサンブルから始まり、テンポが上がるとアコースティックギターが加わったスリリングなジャズロックとなる楽曲。後に強烈なシンセサイザーやエレクトリックベースが加わり、変幻自在ともいえるテクニカルなアンサンブルが素晴らしい。後半はフルートとストリングスによる夢想的なシンフォニックな展開になっている。4曲目の『水底の静寂』は、美しいエレクトリックピアノとフルートのアンサンブルによる幻想的なイントロから、バンドネオンが加わってアルゼンチン色が強まっていく楽曲。途中から華麗なピアノソロとなり、アコースティックギターやベースを加えたテクニカルなアンサンブルに変化する。長尺ながらもリターン・トゥ・フォーエヴァーを彷彿とさせるイマジネーションたっぷりの多彩なキーボードがたまらない。後半には再びバンドネオンによるアルゼンチンを思わせる楽曲となって幕を下ろしている。ボーナストラックはVinyl Record盤に収録されているもので、最初の2曲は詳細不明だが、結成当初のライヴ曲だと思われる。キース・エマーソンばりのモレットのキーボードと疾走するリズム隊によるインプロゼーションによる豪快な演奏になっている。こうしてアルバムを聴いてみると、モレットの創造するキーボードを主体としたクラシカルな要素とジャズ要素をベースに、疾走感を加えながらテクニカルに演奏する一方、バンドネオンによるラテン要素を巧みに取り入れた独自性のあるサウンドになっていると思える。彼らの音楽には凄まじく削ぎ落とした洗練さがあり、演奏はもはや達人レベルである。こうしたモレットの音楽的な探求から生まれた技巧的な楽曲は、後に時代を越えてアルゼンチンを代表するジャズロックグループの1つとして評価されることになる。

 アルバムは6年遅れて1983年にリリースされたが、すでにアルゼンチンの市場は変化しており、彼らが望むような反響は無かったという。モレットが名門バークリーで勉強を続けており、音楽教育を完了させるためにアメリカのボストンに渡ったため、グループは活動休止。グスタボ・モレットはアルゼンチンに戻らず、そのままアメリカのニューヨークに住み続け、コロンビア大学の教授となっている。ドラマーのカルロス・リガンティは、需要の高いドラマーとしていくつかのアルゼンチンのグループに参加。1979年にスペインに移り、チロ・フォグリアッタとグスタボ・グレゴリオ、そしてアルゼンチンの伝説的なソングライターであるマウリシオ・ビラベントと共演している。ベーシストのペドロ・アズナールは、1978年にアルゼンチンのロックグループであるセル・ギランに加わり、5枚のスタジオアルバムに参加するなど1982年まで活動。その後シンガーソングライターとしてソロアルバムを1枚リリースした後、アメリカの名ジャズギタリストのパット・メセニーから声をかけられ、パット・メセニー・グループのヴォーカリストとして参加。グラミー賞を受賞した3枚のアルバムに貢献している。活動休止してから20年以上経った2003年に、アメリカで一連のショーを行うためにアラスが活動を再開。グスタボ・モレット(ピアノ)、カルロス・リガンティ(ドラム)、アレックス・ズッカー(ベース)のオリジナルメンバーに、モレットの息子のマルティン・モレット(ギター)が加わった4人によるアコースティック編成となっている。ゲストにバンドネオン奏者のネストル・マルコーニ、そして一躍有名となったペドロ・アズナールが参加している。8月には地元であるブエノスアイレスでも公演を行い、この編成によるスタジオライヴアルバム『MIMAME Bandoneón』を2005年にリリースし、多くのファンを喜ばせている。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はテクニカルなシンフォニックジャズにタンゴやバンドネオンの要素を組み入れたアルゼンチンのロックグループ、アラスのセカンドアルバムを紹介しました。今ではパット・メセニー・グループに加入して、国際的に有名なミュージシャンとなったペドロ・アズナールが参加したアルバムとして高く評価されていますが、個人的に何も知らないまま技巧的なジャズロックをイメージして入手したアルバムです。実際に聴いてみると、オルガン、ストリングスシンセサイザー、ピアノといった多彩なキーボードを擁したクラシカルな要素のあるジャズロックですが、全体的にスリリングです。1曲目から畳みかけるようなテクニカルなユニゾンが炸裂していて、ピアノやストリングスのアクセントが素晴らしく、まさしくキーボードを中心としたマハヴィシュヌ・オーケストラのようなエネルギッシュな演奏になっています。若きペドロ・アズナールのベースも才気にみなぎっていて、カルロス・リガンティのドラムは達人レベルです。アルバムの後半の曲では夢想的なエレクトリックピアノやフルートによるアンサンブルがあって、単にテクニックを見せつけたグループではないところが魅力的です。モレットいわく「私たちがやりたいのは、十代の酔狂でも商業的な離れ業でもなかった。私たちは派手なPR活動も伴わない。正直なものを求めていた。私たちの音楽を聴いてほしい。ただそれだけだ」というように、当時、モレット自身の描いた音楽に対する情熱の全てがアルバムに注ぎ込まれているのだと思います。後に聞いた話では、ロックにアルゼンチンの伝統的な楽器であるバンドネオンを取り入れたことは、これまで試みられたことはないらしく、ブエノスアイレスのポピュラー音楽の歴史において画期的な出来事だったそうです。そんなジャズやロックにラテン音楽を融合した本アルバムは、個人的に今でも重宝している1枚となっています。

 さて、アルバムをリリースするはずだった1977年頃にモレットはアメリカへ、リガンティはスペインへと母国アルゼンチンを離れています。なぜ、そんな動きをしたかというと、アルゼンチンで1976年3月24日に軍事クーデターが勃発し、国内のロック音楽が厳しい弾圧と検閲を受けていたからです。ロックはアンダーグラウンド化していきますが、前にも紹介したエテルニダやアルコ・イリスなど活躍します。しかし、1977年にFIFAワールドカップがアルゼンチンで開催されてディスコがブームとなって、多くのグループが解散に追い込まれてプログレッシヴロックは衰退していくことになります。本アルバムはそんな衰退していった1983年にリリースされたことになります。それでも国際的に有名なミュージシャンとなったペドロ・アズナールの影響もあって、後に本アルバムは最も洗練されたアルゼンチンのプログレッシヴグループと呼ばれるようになります。良いアルバムは時代を越えるとはこのことですね。

 本アルバムはシンフォニックジャズにタンゴやアルゼンチンフォークなど、急進的なスタイルを組み合わせたプログレッシヴなジャズロックアルバムです。ブエノスアイレスの雰囲気を捉えたフォークロア的な要素と凄まじいほどのテクニカルな要素を融合したサウンドをぜひ一度聴いてみてくださいな。リターン・トゥ・フォーエヴァー好きな方にオススメです。
 
それではまたっ!