古今東西プログレレビュー垂れ流し

古今東西プログレレビュー垂れ流し

ロック(プログレ)を愛して止まない大バカ…もとい、音楽が日々の生活の糧となっているおっさんです。名盤からマニアックなアルバムまでチョイスして紹介!

Raw Material/Raw Material
ロウ・マテリアル/ファースト
1970年リリース

管弦楽器やメロトロンをフィーチャーした
実験性の高いサイケプログレッシヴロック

 稀少性の高いレーベルであるエボリューションからリリースされた英国プログレッシヴグループ、ロウ・マテリアルのデビューアルバム。そのサウンドはフルートやサックス、ビブラフォンといった楽器をはじめ、メロトロンやオルガン、ファズの効いたギターによるサイケデリック性の高いヘヴィなジャズロックとなっている。その独特なリズムからなるジャンルを越えたごった煮的なサウンドは、あまりにヴァラエティに富んでおり、サイケデリックからプログレッシヴロックに移行する1970年代初頭の英国ロックのフレイヴァーが詰まった逸品となっている。

 ロウ・マテリアルは1969年に英国のロンドンで結成されたグループである。中心メンバーはロンドン出身のコリン・キャット(ヴォーカル、キーボード)とフィル・ガン(ベース、ギター)であり、2人はノーウッド工科大学の同級生である。2人はドラマーのポール・ヤングを加えたトリオでジャムセッションを行いながら演奏レベルを上げ、大学を卒業する直前にギタリストのジョン・ブロックハーストを雇ってクリームに触発されたR&Bを演奏していたという。この頃にグループ名をロウ・マテリアルと名乗っている。彼らはロンドンのクラブを拠点に演奏していたが、プロになるためにキャットとガンが作曲したデモテープをいくつかのレコード会社に送りつけ、興味を持ったエボリューションというレーベルと契約することになる。このエボリューションは同年に設立したばかりの新進気鋭のレーベルであり、1969年にディヴ・スチュワートやゴングのスティーヴ・ヒレッジが、学生時代に結成したユリエル(URIEL)の後継グループとして知られるアーザケルの唯一のアルバムをリリースしている。こうして1969年9月にサウンドエンジニアのヴィック・カッパースミス=ヘブンによって書かれたシングル『タイム&イリュージョン/ボボズ・パーティー』をリリース。そして1970年1月にはエド・ウェルチがプロデュースとアレンジを担当した『ハイ・ゼア・ハレルヤ/デイズ・オブ・ザ・ファイティング・コック』を続けてリリースしたことで、英国と欧州地域で人気が上昇し、彼らは欧州ツアーを行っている。1970年7月にはドイツのハウプトシュタディオン・スタジアムで3日間にわたって行われたアーヘン・オープン・エア・ポップ・フェスティバルに出演している。このフェスティバルには、アモン・デュールⅡやゴールデン・イヤリング、エドガー・ブロートン・バンド、テイスト、キーフ・ハートリー・バンド、プリンシパル・エドワーズ・マジック・シアター、イフ、クインテセンス、ピンク・フロイド、クロコダイル、カン、クラフトヴェルクも出演したという。その欧州ツアーの最中に出会ったミック・フレッチャー(ヴォーカル、サックス、フルート)がグループに加入。フレッチャーは6歳の時からピアノを習い、20歳になった時にサックスに転向したばかりのアーティストであり、以前に在籍していたSteamでリードシンガー兼フルートを務めていたという。また、英国に戻った時にギタリストのジョン・ブロックハーストが脱退し、Deep Feelingのメンバーであったディヴ・グリーンをメンバーとして迎えている。こうして新たな5人のメンバーでアルバムレコーディングに臨み、エド・ウェルチがプロデューサーを務め、ロビン・シルベスターがエンジニアを担当したデビューアルバム『ロウ・マテリアル』が1970年10月リリースされる。そのアルバムはヤードバーズ風のR&Bとジャズが混同したサイケデリックな色合いの強いサウンドに、メロトロンやフルート、サックス、ビブラフォンがフィーチャーされた実験性の高い内容になっており、さまざまなスタイルが折衷的にブレンドされた1970年代初頭の芳香が漂う逸品となっている。

★曲目★
01.Time & Illusion(タイム&イリュージョン)
02.I'd Be Delighted(アイド・ビー・ディライテッド)
03.Fighting Cock(ファイティング・コック)
04.Pear On An Apple Tree(ペア・オン・アン・アップル・ツリー)
05.Future Recollections(フューチャー・リコレイションズ)
06.Traveller Man(トラベラー・マン)
07.Destruction Of America(ディストラクション・オヴ・アメリカ)
★ボーナストラック★
08.Bobo's Party(ボボズ・パーティー)
09.Hi There Hallelujah(ハイ・ゼア・ハレルヤ)
10.Days Of The Fighting Cocks ~Alternate Version~(デイズ・オブ・ザ・ファイティング・コック~オルタナネイト・バージョン~)

 アルバムの1曲目の『タイム&イリュージョン』は、フルートに導かれ、オルガンを中心に長いインストルメンタルブレイクとビブラフォンが特徴になった楽曲。ヴォーカルパートの後にはパンチの効いたドラムスと鋭いハモンドオルガン、そして澱んだベースと共に煌めくピアノによるグルーヴ感のある長いインストルメンタル演奏に突入する。後半にはサックスが少しだけ加わり、曲のテンポが巧みに上がっていく流れが味わい深い。2曲目の『アイド・ビー・ディライテッド』は、コリン・キャットの唸るようなリード・ヴォーカルと優れたサックスとジェスロ・タルを思わせるフルートをフィーチャーしたクールなブルース曲。ヴォーカルはミック・ジャガーを意識したようなシャウトがある。3曲目の『ファイティング・コック』は、悲哀のある初期のキング・クリムゾン風の嘆きから始まり、スキン・アレイやレア・バードのような熱狂的なピアノとサックスによるサイケ風アンサンブルに突入する。オルガンを中心としたバッキングの上で聴かせるサックスのソロが素晴らしい。4曲目の『ペア・オン・アン・アップル・ツリー』は、エネルギッシュなギターとピアノの連打で、足を踏み鳴らしたくなるようなシャッフルベースのブルー​​ジーな楽曲。ヴォーカルは1960年代を思わせ、全体的にノリの良いサウンドに仕上げている。5曲目の『フューチャー・リコレイションズ』は、夢見るようなきらめくエレクトリックピアノと、柔らかなギター、そして暖かなヴォーカルによるバラード曲。ビブラフォンが効果的であり、ザ・ムーディー・ブルースを思わせるメロディアスな楽曲になっている。6曲目の『トラベラー・マン』は、疾走感のあるドラミング上で、ワイルドなハーモニカとうなるギターが特徴なロックンロール。ヴォーカルがイアン・アンダーソンに似ており、ジェスロ・タルからの影響が強い楽曲になっている。7曲目の『ディストラクション・オヴ・アメリカ』は、アメリカをテーマにした詩が朗読されるオープニングのバックでメロトロンとヴァイヴを使用したプログレッシヴな楽曲。最後はカモメの鳴き声やエフェクトを使用しながら静かに幕を閉じている。ボーナストラックの3曲は、2019年のリマスター化されたベル・アンティーク盤に収録されたもの。シングルでリリースされたものだが、ツインギターによる力強いハードロックになっている。こうしてアルバムを通して聴いてみると、思った以上にフルートとサックスの演奏は素晴らしく、中でもビブラフォンを含めたオルガンの音色が非常に効果的である。繊細でソフトなサイケデリック性のあるブルースロックという感じだが、彼らなりに時代を見据えた新たな音楽を目指した野心的なアルバムと言ったところだろう。

 アルバムはドイツやスペイン、イタリアで評価が高まり、国内よりも欧州で人気を得たという。1970年10月にはアイマーク・レコードが、ロウ・マテリアルにカヴァーアルバムの制作を依頼。アルバムは『Kid Jensen Introduces Sounds Progressive』というタイトルでリリースされ、スペンサー・デイヴィス・グループの『I'm a Man』やクリームの『Badge』、ファミリーの『Second Generation Woman』、フリートウッド・マックの『Man of the World』などが収められている。1971年には本アルバムのジャケットに草木が生い茂った草原に立つ5人のメンバーを描き、イタリアのCBS盤、スペインのZel Recordsからもリリースされることになる。しかし、所属していたエボリューションが1971年に閉鎖することになり、同年に急遽、RCAが新たに設立したプログレッシヴ専門レーベルであるNeon Recordsに移籍する。彼らは元ウェルカムに所属していたギタリストのクリフ・ヘアウッドを新たに加えて、英国ロンドンのピカデリーにあるコマンドスタジオに入り、プロデューサーにミッキー・クラークを迎えたセカンドアルバム『Time Is…』が同年にリリースされる。そのアルバムは前作よりもインストを強めたジャズ色を前面に出した内容になっており、まるでジェスロ・タルとヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイターが合体したようなサウンドになっている。音楽評論家からは高く評価されたアルバムだったが商業的には芳しくなく、1枚のシングルをリリースした後にグループは解散している。解散後、ギタリストのディヴ・グリーンはドラマーのグレイグ・コリンジ、ベーシストのビル・ラッセル、そしてヴォーカル兼キーボード奏者のジム・マッカーティと共にThe Shootを結成。ベーシストのフィル・ガンはセッションミュージシャンとして活躍する傍ら、作曲家として活動を続けている。ヴォーカル兼サックス、フルート奏者のミック・フレッチャーは、アメリカに移住して音楽活動を続け、現在ではニュージーランドで余生を過ごしているという。ロウ・マテリアルが残した2枚のアルバムは、エボリューションとネオンという稀少レーベルからのリリースだったこともあり、いずれもプレミアの付いたレア盤となったことは言うまでもない。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回は稀少レーベルからのリリースだったためか、英国内ですらあまり認知されなかったというプログレッシヴロックグループ、ロウ・マテリアルのデビューアルバムを紹介しました。ロウ・マテリアルは2枚のアルバムを残していますが、インスト面を強化したセカンドアルバムの『Time Is…』のほうがプログレファンの評価が高いです。どちらもR&Bとジャズをベースにしたサイケデリック性の高いプログレですが、ファーストのほうがごった煮感が強く、1970年代初頭に多かった英国ロックのフレイヴァーが散りばめられていて個人的に好きです。もうひとつ彼らの稀少性を語るに外せないのが所属していたレーベルです。デビューアルバムのエボリューションというレーベルは、1969年にモハメド・ザッカリヤが所有する小さなレコード会社で、アルバム2枚とシングル17枚程度を輩出して2年程で閉鎖してしまいます。アルバム2枚というのは、本アルバムと上にも書いたディヴ・スチュワートやゴングのスティーヴ・ヒレッジが、学生時代に結成したユリエル(URIEL)の後継グループとして知られるアーザケルのアルバムです。また、セカンドアルバムをリリースしたネオンも短命に終わったレーベルで、2年程で11枚ほどのプログレッシヴなアルバムをリリースしていますが、その中にはインディアン・サマーやトントン・マクート、スプリングなどのアルバムがあります。強いて言うのであれば、どのグループもレーベルの閉鎖によって、1枚のアルバムを残して解散に追い込まれてしまったということでしょうか。そんな稀少というか弱小のレーベルに所属していたロウ・マテリアルのオリジナルアルバムが、超のつくプレミアとなったのも頷けます。

 さて、アルバムのほうですが、1960年代のサイケデリックな音楽とブルース、ジャズの影響が感じられるサウンドになっていて、フルートやオルガンが中心ですが、1曲目からビブラフォンを使用した奇妙で雰囲気のあるトーンが面白いです。特に『おせっかい』時代のピンク・フロイドや『リザード』時代のキング・クリムゾンを思い起こさせる感じがします。『ファイティング・コック』ではテンポの速いブルース風の猥雑さがあり、『フューチャー・リコレイションズ』では夢心地のアシッド・ポップになっています。『トラベラー・マン』はフルートを多用したフュージョンになっていて、そのアレンジと果敢な演奏に驚かされます。アルバムはさまざまなスタイルの折衷的なブレンドといっても良いサウンドになっていて、アンダーグラウンドに押し留めておくにはもったいない実験性にあふれた作品だと思います。

 

 ちなみにジャケットデザインは、ローブを着た古代のフルート奏者が、画面外の火山(おそらくベスビオ火山)から頭上へ上がる煙でオレンジ色の空が覆い隠される中、遠くから暗い獣たちに見守られている様子が描かれています。

それではまたっ!
 

Jean Pierre Alarcen/Tableau Nº 1
ジャン=ピエール・アラルサン/タブロー・アン
1979年リリース

壮大なオーケストラと甘美なギターによる
劇的なコントラストを生み出した名盤

 サンドローズのメンバーとして活躍しただけではなく、多くのアーティストと共演を果たしてきたフランスの天才ギタリスト、ジャン=ピエール・アラルサンのセカンドソロアルバム。そのアルバムは3つの楽章による構成になっており、壮大なオーケストラをバックに強力なリズムセクションとアラルサンが奏でる甘美なギターによる劇的なコントラストを生み出したシンフォニックロックになっている。ソフトなアンビエントミュージックがジャズ風のギター主体のロックに変わる音世界は、アラン・ホールズワースやジョン・マクラフリンを彷彿とさせ、ギターアルバムにはとどまらないフレンチシンフォニックロックの傑作の1枚となっている。

 ジャン=ピエール・アラルサンは、1948年1月9日にフランスの中北部の都市ブーローニュ=ビヤンクールで生まれたギタリストである。幼少のころからクラシックギターを学んでおり、彼が頭角を現し始めたのが、18歳になった1966年にフランスのシンガーソングライターであるアラン・レゴヴィック(アラン・シャンフォール)と共にモッズを創設した時である。シングル『Je Veux Partir』ほか2枚に参加し、その後もジャック・デュトロンやミシェル・ペレー、ジェラール・カウチンスキーらと共演している。彼は2年後にグループを脱退し、ロックグループのザ・クラプチック・システムというグループを結成し、1969年にアルバム『Aussi Loin Que Je Me Souvienne...』をリリースする。アラルサンはすぐにグループから離れて、セッションミュージシャンとして活動していた際、アルバムをレコーディングするためにパリに赴いていたマルセイユ出身のクリスチャン・クレールフォン(ベース)、アンリ・ガレラ(キーボード)、ミシェル・ジュリアン(ドラムス)と知り合う。アラルサンは3人と意気投合して1970年3月にエデン・ローズを結成し、小さなレーベルであったKatemaで唯一のアルバム『On The Way To Eden(エデンへの道)』をレコーディングしている。後にメンバーと共にフランス全土をツアーし、アルジェリアでもコンサートを行うなど精力的な活動を行ったが、レーベルとの関係が悪化したために敢え無くグループは解散。アラルサンは腕のあるミュージシャンであった3人と新たなアプローチを試み、女性ヴォーカリストであるローズ・ポドウォジニーをメンバーに招いてサンドローズを結成することになる。アラルサンは自身で作成した楽曲を元にメンバーと共にリハーサルを行い、彼が目標としていたクラシックとロックを融合したアルバム『サンドローズ』を1972年にリリース。そのアルバムは絶え間なく漂うメロトロンの音やアラルサンの甘美なギター、そしてシンガーであるローズ・ポドウォジニーの力強く澄んだ声をベースにしたフレンチプログレッシヴロックの傑作となっている。しかし、メンバー間の意見の相違や思想的な対立が起こり、結成してわずか1年余りの活動期間でサンドローズは解散することになる。

 アラルサンは再度セッションミュージシャンの道に進み、シンガーソングライターのフランソワ・ベランジェと共に活動し、3枚のアルバムに貢献。他にもベルナール・ルバやミシェル・ザシャのNOVA(ボサノバ・ラテンスタイルのジャズグループ)など、多くの尊敬されるフランスのミュージシャンや作曲家と仕事をしている。さらにミュージカル『HAIR』のフランス語のレコーディングにも取り組むなど、作曲家兼ギタリストとしてフランスを代表するアーティストの1人となっている。1978年に表舞台から遠ざかっていたアラルサンにソロアルバムの話が持ち上がり、ジェラール・コーエン(ベース)、ジャン=ルー・ベッソン(ドラムス)、セルジュ・ミレラ(パーカッション)と共に、プロデューサーにジル・ブレイヴェスを迎えて、初のソロアルバム『ジャン=ピエール・アラルサン』をリリースする。そのアルバムは主にジャズロックでありながらファンクやブルース、アンビエント、ラテンアメリカの音楽スタイルが盛り込まれており、チック・コリアやサンタナの影響が感じられる内容になっている。彼はその後もフランソワ・ベランジェとの活動を続けながら作曲活動を行っており、今度は西洋のクラシックスタイルを盛り込んだアルバムを制作しようと考え始める。今度はキーボード奏者にダニエル・ゴヨネを招き、リズムセクションを強化するためにフィリップ・ルルーが参加し、1979年8月にファミリーサウンドスタジオで録音されたのが本アルバムの『タブロー・アン』である。そのアルバムはジャズロックとズーリッシュ要素が強かった前作から、壮大なオーケストレーションを擁した3つの楽章からなるシンフォニックスタイルになっており、甘美なギターが所狭しと鳴り響くフレンチロックの傑作の1枚となっている。

★曲目★
01.Tableau Nº 1 - Premier Mouvement(タブロー・アン 第一楽章)
02.Tableau Nº 1 - Deuxième Mouvement(タブロー・アン 第二楽章)
03.Tableau Nº 1 - Troisième Mouvement(タブロー・アン 第三楽章)

 アルバムの1曲目の『タブロー・アン 第一楽章』は、壮大さのあるオーケストレーションに幽玄なギターが響き渡った20分強の楽曲。その後はシンセサイザーのソロが続く宇宙的なサウンドとなり、3分半からリズムセクションが加わって、エレクトリックピアノを交えた技巧的なジャズロックに変貌する。この時のアラルサンのギターは慟哭のような情感的なギターとなっており、緊迫感あふれる演奏になっている。再び深淵の中のような静けさのあるサウンドになり、オーケストラとギターによる神聖な音世界になっていく。最後は安らぎに近いギターの響きで締めている。2曲目の『タブロー・アン 第二楽章』は、シンセサイザーをベースによりシンフォニックな領域に踏み込んだ透明感のあるサウンドとなった楽曲。ニューエイジを小さなヴォリュームで聞いているかのように弱く儚い音から、後半のアラルサンのギターは暗闇の中からの一筋の光が差したような響きを持っている。3曲目の『タブロー・アン 第三楽章』は、重厚なシンセサイザーの響きからうなるようなギターを中心とした激しいジャズパートに変化する15分強の楽曲。まるで幻想的なシンフォニックの海の中で、激しいジャズ演奏が漂うような印象があり、極端なまでの静と動の演奏が交互に繰り返される。最後の哀愁漂う曲調を縫うように流れるギターが感動的である。こうしてアルバムを通して聴いてみると、ジャズロックの要素を加味したアンビエントとシンフォニックの両方をより強めた独自性のあるサウンドになっている。まるで幽玄なアンビエントミュージックが、激しいジャズ風のギター主体のロックに変わるのが印象的である。それでも前作よりもロマンティックな「クラシック」の中でロックスタイルを組み込み、静と動の音のコントラストを最大限に活かしたアラルサンの美学が詰まった逸品になっていると思える。

 アラルサンはアルバムリリース後もセッションミュージシャンの仕事に戻り、ワールドミュージックのシンガーソングライターであるジェフリー・オリエマやフランスのシンガー兼俳優のルノー・セシャンなどをはじめ、多くのアーティストとコラボレーションを行っている。1980年代からは1990年代はセッションミュージシャンとして活躍する一方で、作曲家としても多くのアーティストに提供している。中でもジーン・スミス・ミレシ監督の映画『Intimité(蚤の市)』の音楽を担当したことだろう。1998年には本アルバムの続編にあたるソロアルバム『Tableau Non. 2』をリリースしており、このアルバムで彼はよりアカデミックな交響曲の領域に踏み込んでいる。ソロアルバムの制作はその後は行っていないが、ミシェル・ヴィヴーとレ・シャ・メグルとのツアーを行っているなど、フランスの音楽界でアーティスト兼作曲家として現在でも精力的に活動をしているという。なお、本作の『タブロー・アン』は、2001年にリミックス化され、初ソロアルバム『ジャン=ピエール・アラルサン』とのカップリングCDとして発売されている。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はフランスで神聖なギタリストとして尊敬されているジャン=ピエール・アラルサンのセカンドソロアルバム『タブロー・アン』を紹介しました。彼はプログレのリスナーからしたらサンドローズのギタリストとして著名ですが、実は1960年代からセッションミュージシャンとして名を馳せた作曲兼アーティストとして非常に有名です。特にフランスにロックを根付かせたアーティストとして、多くのフランスのミュージシャンから尊敬されており、表舞台にあまり出ないことから神聖なギタリストと呼ばれていたそうです。そんなアラルサンが満を持して1978年にソロアルバムを出すことになり、ジャンルをものともしないそのプレイスタイルに多くの評論家から称賛されることになります。当初はジャズロックをベースにした音楽が中心でしたが、本アルバムの『タブロー・アン』は弦楽オーケストラを前面に出したシンフォニックロックの領域に踏み込んだ作品になっています。前作がマグマのようなズーリッシュスタイルを加味した内容だったのに対して、本作品はエニドタイプのシンフォニックスタイルを加味した内容と言っても過言ではないと思います。この作品からアラルサンはクラシックに傾倒して、ロックの領域から離れてよりアカデミックな音楽へと変わっていくことになります。

 さて、そんな本アルバムですが、20分近くの曲がある3つの楽章からなる構成になっており、クラシックの手法を前面に出した内容になっています。いずれもジャズロックとシンフォニックが交互に出てくる展開になっていて、ジャズの部分はオルガンソロが配置され、圧倒的なパフォーマンスを魅せてくれます。一方のシンフォニックな要素は透明感あふれる静を表現したような内容になっていて、シンセサイザーをうまく活用した幻想的なサウンドになっています。そんな激しいジャズパートと静寂なシンフォニックパートが交互に展開されたことによって、彼のギターが静謐な悲しみの淵から天空へと逆巻く慟哭のような感情を表現したようなサウンドになっています。アラン・ホールズワースやジョン・マクラフリン的な要素も聴き取れますが、この美しくも儚い甘美なギター演奏はアラルサンならではの唯一無比の音世界だと思っています。

 本アルバムはジャズロックをベースにした前作からシンフォニックな手法を多く組み入れた、アラルサンの美学が詰まったプログレッシヴロックの逸品となっています。壮大なオーケストレイションの中でフランスらしい幽玄で儚さを持った彼のギターをぜひとも味わってみてください。

それではまたっ!
 

Banzaï/Hora Nata
バンザイ/ホラ・ナタ
1975年リリース

イエス的な清涼感のあるアレンジを施した
ジャズ風味の技巧派シンフォニックロック

 奇抜なメイクと衣装のステージパフォーマンスで注目を浴びたベルギーのプログレッシヴロックグループ、バンザイの唯一作。そのサウンドはオルガンやピアノ、モーグシンセサイザーを中心としたクラシカルなキーボードとジャズ風のギター、ドラムスに加えてマリンバ、ヴァイヴ、メタロフォンといった多彩な打楽器を使用したテクニカルなシンフォニックロックとなっており、イエスにも通じるメロディアスで清涼感あふれるアレンジとアンサンブルが大きな特徴となっている。契約したレコード会社が倒産してしまい、セカンドアルバムをリリースするためのレコード会社が見つからず解散してしまったが、後にベルギーの正統派シンフォニックロックの1枚に数えられた傑作アルバムでもある。

 バンザイは1971年に、ベルギーの北部フランダース地方最大の都市アントウェルペン(アントワープ)で結成されたグループである。中心メンバーはドラムスとパーカッションを演奏するエリー・フォックスであり、彼は長年、地元でポップグループやジャズグループに所属し活躍してきたミュージシャンである。彼は英国のキング・クリムゾンやジェネシス、イエスといったプログレッシヴロックに感化され、同じく地元で"O"というグループを率いていたギタリスト兼ヴォーカリストのジョン・マク・オーと共に新たなグループを結成しようと動き始める。メンバーには8歳からクラシック教育を受けていたピアノ兼ベーシストのエバート・ヴァーヒーズ、他に管弦楽器を演奏するメンバーを加入させて、1971年に大勢で祝福の意を示す日本語のバンザイというグループ名で活動を開始している。結成後、彼らは早速、同年のベルギーのリンブルグ州にある都市ビルゼンで開催された第1回国際ジャズコンテストに出場している。セミ・プロを問わないグループを対象としたコンテストだったが、彼らは見事優勝を果たしている。その後、メンバーチェンジを行い、専門のキーボード奏者として元はフォークやブルースに傾倒していたオルガン奏者のピーター・トルフスが加入。そして、パーカッションを強化するためにメタロフォンやマリンバ、ヴィヴラフォンを操るルートヴィヒ・ケマットを採用している。こうして1972年3月にエリー・フォックス、ジョン・マク・オー、エバート・ヴァーヒーズ、ピーター・トルフス、ルートヴィヒ・ケマットという新たなラインナップで、本格的にライヴ活動を開始することになる。

 ドラマーのエリー・フォックスは、作詞を務める以外にもグループのマネジメントやプレゼンテーションを行い、特にステージショーのプランナーとして活躍。奇抜なメイクや衣装で演奏するバンザイのライヴはエリー・フォックスのアイデアであり、そのシアトリカルに似たソリッドなライヴは国内でも注目されたという。さらに1972年にオランダのジャズロックグループであるスーパーシスターとステージを共有したことで人気が高まり、1973年のHumo誌の読者からの投票ではベルギーのベストグループの第3位に選ばれている。その後も同年に開催されたビルゼンのロックフェス『ビルゼン・ロック&ジャズ・フェスティバル』に出場して、英国のプロコル・ハルムやアージェント、オランダのゴールデン・イヤリングというグループと共演。また、9月30日にはベルギーのトゥルンハウトで開催されたフェスティバルでは、オランダのフォーカスやカヤックと同じステージを踏んでおり、彼らの高い演奏力を見せつけている。その後はベルギーとオランダの両国をまたぐ活動を続け、特にオランダに出向いては頻繁に演奏したという。その結果、オランダのレコードレーベルであるデルタと契約することに成功。この契約の背景にはステージで共演したことのあるスーパーシスターのキーボード奏者、ロベルト・ヤン・スティップスの推薦があったとされている。ヤン・スティップスはバンザイというグループをいたく気に入っており、彼らが未だレコード会社と契約を結んでいないことを知って、デルタを紹介したと言われている。彼らはペブル・リュック・スメッツがプロデュースしたシングル盤『ホラ・ナタ/グッド・モーニング・ライフ』を1974年にリリース。同年にはデルタが配給しているナチュラルラベルからシングル盤『Be Careful Now/We're So Sorry』、1975年に『Talkin' About My Love』と立て続けにリリースして、いよいよアルバムの制作に入ることになる。彼らはベルギーのブリュッセルにあるリワードスタジオでレコーディングを開始し、レコードエンジニアにヨス・クラウワースとロニー・シゴが務め、グループがプロデュースを担当。ゲストにベルギーのヴァイオリニストで弦楽指揮者でもあるアルバート・スぺゲル、テナーサックスにフランソワ・マース、そしてホルン奏者であるC. フォカントとJ. ラセリンを迎えた本アルバム『ホラ・ナタ』が1975年9月にリリースされる。そのアルバムはクラシカルなオルガンやピアノをはじめ、ジャズ風のギター、手数の多いパーカッション&ドラムス、そしてハイトーンのヴォーカルによるテクニカルなシンフォニックロックとなっており、イエスやフォーカスにも似たアンサンブルと英国ロック的な貫禄やメロディが合わさった逸品となっている。

★曲目★
01.You Always Like An Entree?(あなたはいつもアントレーがお好き?)
02.Try(挑み)
 a.Hopeful Strive(有望な努力)
 b.Step By Step(一歩一歩)
 c.Find The Way(進むべき道の発見)
03.Obelisk(オベリスク)
 a.Like A Stalagmite(石筍のように)
 b.Hora Nata(ホラ・ナタ)
 c.Stalagmites In My Jam(僕のジャムの中の鍾乳石)
 d.Wet The Ropes(ロープを濡らせ)
04.Hattrick(ハットトリック)
 a.My First Hot-Pants(私の初めてのホットパンツ)
 b.Kick And Rush(キック・アンド・ラッシュ)
 c.The Final Was The Third Game(最後は3番目の遊び)
05.Three Magicians ~Part 1~(3人のマジシャン~パート1~)
 a.Once(ワンス)
 b.Theme Of The Rainbow(虹のテーマ)
 c.Bermst(ベルンスト)
 d.We'll Bring You The Sun(僕たちはあなたに太陽を運ぶだろう)
★ボーナストラック★
06.Hora Nata~Single~(ホラ・ナタ~シングルヴァージョン~)
07.Good Morning Life(グッド・モーニング・ライフ)
08.We're So Sorry(ウィーアー・ソー・ソーリー)
09.Be Careful Now(ビー・ケアフル・ナウ)
10.Talking About My Love(トーキング・アバウト・マイ・ラヴ)
11.On The Rocks(オン・ザ・ロックス)

 改めてメンバーと楽器を紹介しておこう。ピーター・トルフス(オルガン、ピアノ、弦楽アンサンブル、モーグシンセサイザー、ヴォーカル)、エバート・ヴァーヒーズ(アコースティックギター、ベース、フットベース、ピアノ、ヴォーカル)、ジョン・マク・オー(アコースティック&エレクトリックギター、ヴォーカル)、ルートヴィヒ・ケマット(トゥンバ、メタロフォン、マリンバ、ヴァイブ、パーカッション)、エリー・フォックス(ドラムス、パーカッション)の5人。作曲はピーター・トルフスとエバート・ヴァーヒーズが中心となって作成しており、作詞はエリー・フォックスが担当している。アルバムは1曲と4つの組曲で構成された意欲的な内容になっており、ほとんどの曲がインストゥメンタルで固めた楽曲になっている。1曲目の『あなたはいつもアントレーがお好き?』は、リズミカルなリズムセクションの下で流暢なギターとシンセサイザーを交えた楽曲。ジャズ要素のあるスピーディーな展開になっており、軽快ながらも効果的なストリングスが味わい深い内容になっている。2曲目の『挑み』は3つの楽章からなる組曲になっており、美しいオルガンとグロッケンシュピール、そして全盛期のイエスを思わせるヴォーカルとコーラスワークからはじまり、アコースティック&エレクトリックギターを交互に使用し、荘厳なシンセサイザーの響きを持たせた色彩豊かなシンフォニックロックとなっている。後半は緩急のあるアンサンブルとなっており、非常にテクニカルな演奏を魅せつけている。3曲目の『オベリスク』は4つの楽章からなる楽曲となっており、ピーター・トルフスのオルガンソロから軽快なパーカッションとギターを加味したクラシカルなロック。全体的に英国のキャメルを思わせる美しいアンサンブルとなっており、途中からフィーチャーする生オーケストラが曲に深みを与えている。即興的な演奏を加味し、抒情的で堅実なジョン・マク・オーのギターソロとそれを支える素晴らしいリズムセクションがあり、彼らの優れたアレンジ力が如実に表れた内容になっている。4曲目の『ハットトリック』は3つの楽章からなる楽曲になっており、オルガンとサックス、ギターを中心に変拍子のあるジャズ要素の強い楽曲。ヤン・アッカーマンばりの素晴らしいギタープレイとソフトなオルガンの響きがフォーカスっぽく、多彩なジャンルを組み込んでいるものの曲調の変化がスムーズである。後半で痛快なオルガンロックで締めている。5曲目の『3人のマジシャン~パート1~』は、4つの楽章からなる楽曲であり、ピアノとギターとコーラスによる美しいメロディを主体としたブリティッシュロックを思わせるサウンドになっている。途中から複雑でアグレッシヴな展開から一転して荘厳なオルガンソロとアコースティックギター、そしてパーカッションによる静謐な流れになり、その後に哀愁感たっぷりのギターソロを聴かせてくれる。後半はリズミカルなバック上でヘヴィなギターとよる曲調に変わり、最後は生のオーケストレイションをバックに素晴らしいアンサンブルで幕を下ろしている。ボーナストラックの6曲はCD盤から収録された楽曲で、バンザイが1974年と1975年にリリースしたシングル曲になっている。それぞれヴォーカルやコーラスを中心としたポップな作りになっており、アルバムのイメージとはかけ離れた爽やかさが印象的である。こうしてアルバムを通して聴いてみると、ギターとピアノによるジャズ要素とオルガンとストリングスによるシンフォニックの要素を曲の中に練り込ませ、変化に富んだアレンジ力の高さがうかがえる楽曲が多い。多様性のある曲調をスムーズにしているのが堅実なリズムセクションであり、特にグロッケンシュピールをはじめとするパーカッションの役割が曲にコントラストや躍動感を与えている。イエスやキャメルを彷彿とさせる英国ロック的な情緒と貫禄もあり、ベルギーの隠れたシンフォニックロックの傑作と言われるのも頷けてしまう。

 リリースしたアルバムはベルギー国内とオランダで高く評価され、ベルギーに至っては同郷のプログレッシヴロックグループ、マキャヴェルと共に人気を博したという。彼らはアルバムデビューに合わせてベルギーやオランダ、ドイツでライヴツアーを行い、セカンドアルバムの制作にも着手している。ファーストアルバムの内ジャケットには「...Part2 on Second Album」という表現があり、すでにセカンドアルバム用のいくつかの楽曲が出来上がっていることをうかがわせている。しかし、1976年にグループにとって不幸な出来事が起こり、次のアルバムを担当するはずだったプロデューサーとレコード会社が仲違いをしてしまい、セカンドアルバムのリリースがキャンセルされてしまう。メンバーはすでにセカンドアルバム用の準備が整ったばかりであり、まさに寝耳に水状態だったと言われている。そこで彼らはデルタから離れて、興味を示してくれたベルギーのレコード会社であるIBCと契約することになる。しかし、不幸な出来事は重なり、何とレコーディングの直前に契約したばかりのIBCが倒産。最終的に救いの手を差し伸べてくれるレコード会社は皆無となり、グループはその年に解散することになる。解散後のメンバーのほとんどは音楽業界から離れているが、ギタリスト兼ベーシストのエバート・ヴァーヒーズは、1970年代後半にジャズフュージョングループであるトランスフュージョンを結成している。その後もザ・キャラヴァンやトーン・カラーズといったグループを歴任し、1990年以降にはベルギーに住んでいるオランダの歌手兼ソングライターのパトリシア・メーセンと組んだパット&エバートというデュオをはじめ、多くのアーティストとコラボレーションを行っている。現在はフランスのスターであるジュリアン・クレールの2021年のワールドツアーのバックバンドのメンバーとして活躍する一方、スーパートニックミュージックという会社を設立し、作曲家兼プロデュース業も行いつつ若いアーティストの育成に力を注いでいるという。本アルバムはしばらく廃盤となっていたが、1995年にオランダのPseudonymというインディレーベルが発掘し、初CD化を果たしている。また、同年に日本のベル・アンティークからもCD化され、多くの日本のプログレファンに認知されることになる。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はベルギーの隠れシンフォニックロックの名盤とも言われている、バンザイの唯一作『ホラ・ナタ』を紹介しました。以前からベル・アンティーク盤のCDを見かけていましたが、当初はバンザイという奇妙なグループ名とジャケットのメンバーの奇抜なメイクと衣装から「グラムロックかな?」というのが第一印象だったことを覚えています。しかし、実際に聴いてみると、クラシカルなキーボードをはじめ、フォーカスのヤン・アッカーマン風のギター、手数で勝負するパーカッシヴなドラミングなど、オーケストレーションを含めたなかなか優れたシンフォニックロックになっていて、これほどジャケットイメージとかけ離れたグループも珍しいな~と思ったものです。これだけ実力を持ったグループであるにも関わらず、結果的に1枚のアルバムを残し、レコード会社の倒産によって解散してしまうことになります。ベルギーにはそれなりのレコード会社はあるのですが、何せ国の人口と比例して規模が小さく、多くのベルギーのアーティストたちはもっと規模の大きいイギリスやフランス、ドイツのレコード会社と契約する流れがあったようです。バンザイも同じく国内からオランダに活動範囲を広げて、オランダの大手レーベルであるデルタと契約する幸運に恵まれましたが、ひとつの出来事で一気に運が急降下します。上にも書いた通り、彼らはセカンドアルバムのレコーディング直前にリリースがキャンセルされ、移転したIBCが突然倒産するという憂き目に遭うことになります。個人的にはセカンドアルバム用に作られた曲が世に出ていないことを考えると、もしかしたら当時の厳しい音楽界にメンバーたちは悲観したのではないかと推測しています。ファーストアルバムの内ジャケットに書かれている「...Part2 on Second Album」という文字が少しだけ物悲しく感じます。

 さて、アルバムのほうですが、タイトルの『Hora Nata』は、ポルトガル語で「日の出の時間」、イタリア語で「今生まれた」という意味であり、主に新たな物事が始まることを差しています。1曲目からジャズ志向の強いインストゥメンタルの楽曲となっていて、彼らの演奏レベルの高さを魅せつけ、2曲目からは色彩豊かなキーボードやジャジーで甘いギター、手数の多いドラミング、生のストリングスを中心にした組曲風のシンフォニックロックになります。実際に聴いてみると多くの英国のプログレッシヴロックの影響を感じさせますが、曲のアレンジが意外にもアイデア満載で、中でも全盛期のイエスを思わせるヴォーカルやコーラスワークがあり、そこにオランダのフィンチやフォーカスと言った要素が加味されたサウンドと言っても過言ではないです。とにかく流暢で心地よいリズムと流れるようなエレクトリックギター、そしてオルガンやピアノ、ムーヴシンセサイザーを駆使した多彩なキーボードが素晴らしく、効果的にグロッケンシュピールを利用しているなど、かなり綿密に作り込まれたキャッチーなシンフォニックサウンドになっています。全体的に曲想が明るいので強烈な印象は残すことはあまりないですが、非常に変化に富んだ聴きどころのある作品だと思います。

 本アルバムはジャズコンテストで優勝を果たし、多くの名ロックグループと共演した実力派メンバーによる作品です。ジャケットからは想像もできない彼らのレベルの高い演奏力や曲のアレンジを堪能してほしいです。

それではまたっ!
 

FM/Black Noise
FM/暗黒からの使者
1977年リリース

電子ヴァイオリン&シンセサイザーを擁した
超技巧派トリオによる衝撃のデビュー作

 後にナッシュ・ザ・スラッシュという芸名で一世風靡するマルチ楽器奏者、ジェフ・プルーマンが在籍していたカナダのプログレッシヴロックトリオ、FMのデビュー作。そのアルバムはエレクトリックヴァイオリンとムーヴシンセサイザーを大胆に使用したSF的でスペーシーなプログレハードサウンドとなっており、トリオとは思えない壮大且つ綿密な音世界を演出した内容になっている。元々は限定500枚のラジオ番組の通信販売のみだったが、反響が大きく急遽米国ではVisa Recordsから、カナダではPassport Recordsからリリースされることになった傑作アルバムでもある。なお、本アルバムは2015年のローリングストーン誌「史上最高のプログレッシヴロックアルバム50選」で48位にランクインしている。

 FMは1976年にキャメロン・ホーキンス(シンセサイザー、ベース、リードヴォーカル)とジェフ・プルーマン(エレクトリックバイオリン、エレクトリックマンドリン、バックヴォーカル)によって、カナダのトロントで結成されたグループである。プルーマンはトロントのオリジナル99セント・ロキシー劇場でルイス・ブニュエルの1929年の無声映画『アンダルシアの犬』のサウンドトラックを演奏するなどソロアーティストとして知られた存在であったという。一方のホーキンスは地元でマルチ楽器奏者のソロアーティストとして活動しており、2人は1975年にClearというグループでジャムセッションをしていた時に出会っている。2人は意気投合してそれぞれの楽器をうまく活用した、ギターレスのグループであるFMを結成することになる。彼らは1976年7月に、トロントにあるサウンズ・インターチェンジというレコーディングスタジオに入り、数曲を録音している。また、TVオンタリオで11月3日に初放送されたテレビ番組「Night Music Concert」のために録音演奏をしており、コマーシャルなしの30分の番組の中で本アルバムにも収録されている『フェイサーズ・オン・スタン』や『ワン・オクロック・トゥモロウ』、『暗黒からの使者』という3曲を演奏している。この頃のFMはSF的なシンセサイザーとプルーマンの巧みなエレクトリックヴァイオリンとマンドリンが映えたややサイケデリックでユニークなグループとして認知されていたという。そしてテレビ番組が初めて放送された直後の1976年11月に、トロントのAスペースアートギャラリーでFMとして最初の公演を行っている。翌年の1977年2月にプルーマンと共演したことのあるマーティン・デラー(ドラムス)が加入し、トリオ編成となった彼らは、カナダ放送協会のバラエティ番組『Who's New』に出演。その後、カナダ放送協会(CBC)が所有・運営をするレコードレーベルからアルバム制作の打診を受けることになる。それが本アルバムの『Black Noise(暗黒からの使者)』である。レコードプロデューサーはキース・ホワイティングが担当し、レコーディングエンジニアにはマイク・ジョーンズとエド・ストーンが行い、1977年末に8曲入りのアルバムが完成。彼らは無論、通常リリースのように店頭で配布されると予想していたが、CBCは通信販売を選択。限定500枚でいくつかのラジオ番組でのみの販売を発表したという。しかし、そのアルバムを聴いたリスナーからの反響は大きく、1978年に米国ではVisa Recordsから、カナダではPassport Recordsから急遽リリースが決定することになる。本デビューアルバムはギターレスという変則的なスタイルでありながら、エレクトリックヴァイオリンとシンセサイザーを駆使したスペイシーなサウンドを展開しており、説得力のあるSFをテーマに近未来的な音世界を作り出した傑作である。

★曲目★
01.Phasors On Stun(フェイサーズ・オン・スタン)
02.One O'Clock Tomorrow(ワン・オクロック・トゥモロウ)
03.Hours(アワーズ)
04.Journey(ジャーニー)
05.Dialing For Dharma(達磨に電話)
06.Slaughter In Robot Village(ロボット村へ舞い降りて)
07.Aldeberan(アルデバラン)
08.Black Noise(暗黒からの使者)

 アルバムの1曲目の『フェイサーズ・オン・スタン』は、シンセサイザーとドラミングによる耳に心地よいオープニングから、ホーキンスの素晴らしいヴォーカルが堪能できる楽曲。舞い上がるようなエレクトリックヴァイオリンが効果的なコントラストをなしており、非常に高揚感をもたらせてくれる。2曲目の『ワン・オクロック・トゥモロウ』は、 ARP2500のシンセサイザーも演奏するドラマーのマーティン・デラーが加わった2台のキーボードによるスペイシーな楽曲。グロッケンシュピールのキラキラした音色と囁くようなヴォーカルが夢心地の雰囲気を作り出しており、ギターのような演出をするプルーマンのエレクトリックヴァイオリンが巧みである。複数のキーボードとベースを含めたリズムセクションによって、かなり重層的な音像となっている。3曲目の『アワーズ』は、エレクトリックヴァイオリンを中心にピアノ、ドラミングによるインストゥメンタル曲。中盤にはドラムソロが展開しており、心地よいテンポの速い楽曲になっている。4曲目の『ジャーニー』は、ドラムスとシンセサイザーがリードするヘヴィなアップテンポの曲。エフェクトをかけたヴォーカルやハードな楽曲は英国を意識した雰囲気になっており、伸びやかなエレクトリックヴァイオリンによるソロが素晴らしい。5曲目の『達磨に電話』は、エキゾチックなリズムとダリル・ウェイを思わせるヴァイオリンが特徴のエレクトロニックな楽曲。独特な楽曲でもまったくブレないマーティン・デラーのドラミングは注目に値する。6曲目の『ロボット村へ舞い降りて』は、近未来的なエフェクトから始まり、イエスのクリス・スクワイアばりのベースラインとエレクトリックヴァイオリンがリードするプログレッシヴな楽曲。重厚なスペースロックでありながら、緊迫感と激しいパワーに満ちた内容になっている。7曲目の『アルデバラン』は、軽快なリズムと美しいメロディ、そしてヴォーカルからなるバラード曲。ここでのプルーマンのエレクトリックマンドリンはジェネシスのスティーヴ・ハケットのギターに少し似ている。8曲目の『暗黒からの使者』は10分に及ぶ大曲になっており、長いアンビエントのパッセージや催眠的なヴォーカル、マントラのように高まるヴァイオリン、技巧的なドラミングからなる宇宙的な叙事詩である。後半はベースを活用した重厚な音世界を創生しており、静と動というコントラストを巧みに利用したドラマチックな展開になっている。こうしてアルバムを通して聴いてみると、サウンド自体はアンブロージアやカンサス、U.K.を合わせたような感じであり、全体を通して強力なシンセサイザーとエレクトリックヴァイオリン、ギターの代わりにエレクトリックマンドリンを多用したメロディアスな楽曲に仕上げている。電子楽器の音を組み合わせたエレクトロニックなサウンドスケープと言っても過言ではないが、宇宙的というよりも、どこか孤立した心地よい空虚さを感じさせるサウンドこそFMの大きな特徴と言える。

 本アルバムは米国ではVisa Recordsから、カナダではPassport Recordsからリリースされたこともあり、飛躍的にFMの知名度はアップしたという。また、シングル『フェイサーズ・オン・スタン』はアルバムのプロモーションに役立ち、FMはゴールドレコード賞を受賞することになる。しかし、アルバムの録音直後にジェフ・プルーマンはグループから離脱し、再度ソロ活動を行うようになる。彼は1977年に深刻なバイク事故から回復したものの、その後遺症でメンバーと共に活動が出来なくなってしまったのが原因とされている。プルーマンはスリーマイル島原発事故の脅威を訴えるジ・エッジでのライヴで、彼はリン塗料に浸した包帯を巻いてステージに登場し、1979年からナッシュ・ザ・スラッシュという芸名で外科用包帯を巻いたアーティストとなる。残ったメンバーは新たに同じくエレクトリックバイオリンとエレクトリックマンドリンを演奏するベン・ミンクを加入させている。このメンバーで1977年後半にアルバムのレコーディングを行い、『Direct to Disc(またはHead Room)』を1978年にリリースしている。このアルバムは録音テープを使用しないダイレクト・トゥ・ディスク録音方式を使用して制作されたもので、15分間の2曲をオーバーダブなしでスタジオでライヴ演奏したという。1979年夏には3枚目のアルバムとなる『サーベイランス』をリリース。しかし、Passport Recordsが予定リリース日の1週間前に倒産したことでリリースが遅れるハプニングが発生。一時、Passport Recordsはアメリカのキャピトルレコードに買収されるが、翌年カナダの新配給会社A&Mレコードに救済されている。1980年にはラリー・ファストがプロデュースした4枚目のアルバム『City of Fear』をリリースするが、1983年にソロアルバムにも力を入れていたベン・ミンクが脱退。また、1984年に新しいアルバムの作業が始まった時に、ついにPassport Recordsが廃業となってしまう憂き目に遭っている。そんな時、ナッシュ・ザ・スラッシュとして活躍していたプルーマンから、自身のレコードレーベルであるクオリティレコードを紹介している。ナッシュは、FMとの将来的なダブルビル・ツアーを提案しており、最終的に彼がグループに復帰することでクオリティレコードとの契約。1985年の5枚目のアルバム『Con-Test』ではナッシュの復帰作として注目されたという。しかし、今度はクオリティレコードが廃業することになり、グループはレコードレーベルの倒産に悩まされることになる。MCAと契約した彼らだったが、レコードレーベルの突然の変更によってほとんどプロモーションは行われなかったという。1986年にはドラマーのマーティン・デラーがツアーの最後に脱退。代わりにグレッグ・クリッチリーを迎え、新たにギタリストとしてサイモン・ブライアリーを加入させている。ギタリストの加入はギターレスだった彼らのサウンドに大きく影響を及ぼしたという。その後もメンバーチェンジを繰り返しながらアルバムをリリースするが、1988年のアルバム『Tonight』のツアー後に解散している。その後もホーキンスを中心に新たなラインナップで離合集散を繰り返していたが、2006年にキャメロン・ホーキンスとマーティン・デラー、そしてイタリア人ミュージシャンであるクラウディオ・ヴェナを加えたトリオで再結成し、6月24日に米国ペンシルベニア州ベツレヘムで開催されたNEARfestでライヴを行っている。その後もメンバーを替えながらライヴ活動を続け、2015年に28年ぶりとなるアルバム『Transformation』をリリースするなど健在ぶりをアピールしている。なお、作曲家、演奏家、プロデューサーとして、また古典的な無声映画の音楽も作曲するなど、カナダの偉大なミュージシャンの1人として活躍してきたナッシュ・ザ・スラッシュ(ジェフ・プルーマン)は、2014年5月12日にトロントの自宅で心臓発作の疑いで亡くなっている。66歳である。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はカナダの技巧派プログレッシヴロックトリオ、FMのデビューアルバム『Black Noise(暗黒からの使者)』を紹介しました。今でこそFMはカナダの偉大なプログレグループとして認知されていますが、1990年代までラッシュやマネイジュ、トライアンフ、サーガといったカナダのプログレ、ハードロックに押される形で、どちらかというとマイナーなグループとされてきた経緯があります。もっと、メジャーになっても良いグループだったはずですが、この記事を書いている途中で何となく理解してしまいました。契約したレコード会社が2回も倒産していたのですね。しかもリリース直後ということで当然、ほとんどプロモーションなど行われなかった可能性があります。その中でもデビューアルバムである本作の『Black Noise(暗黒からの使者)』は、CBCが権利を持ち続けつつ、その後も再発を繰り返してきましたが、 キャメロン・ホーキンスいわく、グループはカナダ版のLPから著作権料を受け取ったことは一度もないと主張していたそうです。この状況を打破するべく、ホーキンスは1994年にNow See Hear Recordsという新しいレコード会社を設立して、CBCがまだ所有していた本アルバムの『Black Noise(暗黒からの使者)』の権利を購入しています。実はこの時までにCBCはもはやアルバムのマスターテープを持っておらず、CBCでテープを探したところ、粗悪なカセットコピーが入ったリール式テープボックスが見つかっただけだったそうで、さらに旧Passport Recordsの金庫室でも音源を探したらしいのですが結局見つからなかったというから驚きです。一体マスターテープはどこに行ってしまったのでしょう? 最終的にNow See Hearによって『Black Noise(暗黒からの使者)』の再発は、ビニール盤からの転写で行われたそうです。レコードレーベルの倒産に悩まされたグループはいくつかあるでしょうが、ここまで酷いのはあまり聞いたことがありません。

 さて、本アルバムはそんな憂き目に遭ってきたFMのデビュー作ですが、このアルバムもグループが意図していない500枚限定のラジオ番組の通信販売のみだったそうです。当然、大きな反響となってアメリカとカナダのレコード会社からリリースされることになり、アルバムからのシングル『フェイサーズ・オン・スタン』が大ヒットして、カナダのアルバムチャートでもランクインすることになります。ちなみに当初のCBC盤のアルバムジャケットはマンホールの蓋をイメージしたデザインでしたが、1978年以降のすべてのレコード盤ではポール・ティルによるSFチックなジャケットアートになっています。そんな本アルバムの歌詞や曲はすべてSFをテーマにしていて、スタートレックの未来的な兵器への言及となった『フェイサーズ・オン・スタン』やトム・スナイダーの「トゥモロー・ショー」で放送されたティモシー・リアリーの宇宙旅行についてのインタビューに触発された『ワン・オクロック・トゥモロウ』、そして他の惑星への大量脱出に関する歌詞のある『ジャーニー』や『アルデバラン』などが顕著です。曲の方はホーキンスのスペイシーなムーヴシンセサイザーとギターレスの代わりに活躍するプルーマンのエレクトリックヴァイオリンが巧みであり、手数の多いドラミングを披露するマーティン・デラーがしっかり脇を固めています。技巧的な演奏が目立ちますが、繊細なグロッケンシュピールの心地よいメロディも素晴らしく、スピード感のある中で壮大且つ綿密な音世界を描いており、かなり惹きこまれること間違いないです。特に最後のタイトル曲の『Black Noise(暗黒からの使者)』のドラマティックな展開は感動モノです。

 本アルバムはニューエイジとテクノっぽい浮遊感のあるキーボードと、エレクトリックヴァイオリンをフィーチャーした重層的なプログレサウンドになっています。後に2015年のローリングストーン誌「史上最高のプログレッシヴロックアルバム50選」で48位にランクインすることになる傑作をぜひとも聴いてほしいです。

それではまたっ!
 

Dixie Dregs/What If
ディキシー・ドレッグス/ホワット・イフ
1978年リリース

表現力の高いギターとヴァイオリンによる
超絶技巧のミクスチャーミュージック

 後にカンサス、ディープ・パープルのギタリストとして名を馳せるスティーヴ・モーズが在籍したアメリカのプログレッシヴジャズフュージョングループ、ディキシー・ドレッグスのセカンドアルバム。そのアルバムはカントリー&ブルーグラステイスト調だった前作から、ジェフ・ベックやスーパートランプ、ピンク・フロイド、プロコル・ハルムなどを手掛け、マハヴィシュヌ・オーケストラのエンジニアとしても知られるケン・スコットをプロデューサーに迎え、技巧的なギター、ヴァイオリン、キーボードを中心にロックやジャズ、フュージョン、クラシック要素が加味された最高峰のインストゥメンタルアルバムとなっている。ジャンルの垣根を越えた多彩なギタープレイが魅力的なスティーヴ・モーズの原点が垣間見える傑作アルバムとして、今なお高い人気を誇る。

 ディキシー・ドレッグスは、元々1970年にアメリカのジョージア州オーガスタで結成されたディキシー・グリッドから発展したグループである。ディキシー・グリッドは15歳のスティーヴ・モーズ(ギター)と兄のディヴ・モーズ(ドラムス)を中心に、フランク・ブリッティンガム(ギター、ヴォーカル)、ジョニー・カー(キーボード)、そして他の高校に通っていた友人のアンディ・ウェスト(ベース)がメンバーだったという。後にキーボーディストはマーク・パリッシュに交代するが、彼らは主に欧米のロックを自分たちでアレンジした楽曲を中心に演奏していたと言われている。その後、モーズがフロリダ州のマイアミ音楽大学に入学することになったの機にグループは解散。解散後もモーズとウェストはデュオとして活動を続けることになる。マイアミ音楽大学に入学したモーズだったが、当時、大学には将来プロのミュージシャンとなるパット・メセニーやジャコ・パストリアス、ダニー・ゴットリーブ、T・ラヴィッツ、ブルース・ホーンズビーなどがおり、活気のある音楽コミュニティがあったという。一方のアンディ・ウェストはジョージア州立大学に1年間通い、マーク・パリッシュと共にチェロと音楽理論と作曲を学んでいる。彼らは夏休み期間中にジョージア州オーガスタに戻り、モーズとウェスト、パリッシュ、そしてギルバート・フレイヤー(ドラムス)と組んで、ディキシー・ドレッグスというグループ名で地元のライヴのオープニングアクトを務めたり、ヘッドライナーを務めたりしたという。その後、アンディ・ウェストを含むドレッグスの残りのメンバーはマイアミ音楽大学に戻ったが、マーク・パリッシュはジョージア州アトランタに戻り、ジョージア州立大学でウィリアム・マセロスの指導の下で音楽演奏と作曲の学位を取得している。モーズは1973年にアンディ・ウェストと共に、マイアミ大学音楽学部で出会ったアレン・スローン(ヴァイオリン)、バート・ヤーナル(ドラムス)を加えたロック・アンサンブルIIという名で活動している。しかし、ヤーナルがサーフィン中の事故で障害を負ったため、代わりにロッド・モーゲンスタインがドラマーとして加入。また、翌年の1974年にはパリッシュの代わりにキーボード奏者のフランク・ジョセフスがメンバーに加わっている。このメンバーで初のレコーディングを行い、1975年にディキシー・ドレッグス名義で『ザ・グレート・スペクタキュラー』というアルバムがリリースされる。大学内で録音された自主制作アルバムだったため、プレス枚数は1,000枚ほどだったというが、後の1997年にCDとして再発されている。

 大学を卒業した後、ライヴを重ねていた彼らに目を付けたのは、オールマン・ブラザーズ・バンドを筆頭に数多くのグループを世に送り出したカプリコーンレコードである。特にカプリコーンレコードの再起を図っていた元オールマン・ブラザーズ・バンドのメンバーであったチャック・リーヴェルが、彼らの自主制作されたレコードと力強いライヴ演奏を聴いて彼らに契約を迫ったと言われている。こうしてスティーヴ・モーズ(ギター)、アンディ・ウェスト(ベース)、アレン・スローン(ヴァイオリン)、ロッド・モーゲンスタイン(ドラムス、パーカッション)、そしてキーボード奏者のフランク・ジョセフの代わりにスティーヴ・ダヴィドウスキによるデビューアルバム『フリーフォール』が1977年にリリースされる。そのアルバムは自主制作した『ザ・グレート・スペクタキュラー』の数曲を再録音し、新たな楽曲を追加した内容になっており、カントリー&ブルーグラステイスト調でありながらジャズフュージョンを加味させたサウンドになっている。アルバムは音楽評論家から高く称賛されたが、キーボード奏者のスティーヴ・ダヴィドウスキがフィドル奏者のヴァッサー・クレメンツと仕事をするためにグループから離脱。代わりに元ディキシー・グリッド時代に共に演奏したマーク・パリッシュが復帰している。また、デビューアルバムではアメリカの多くのポップ&ロックのアーティストを手掛けたスチュワート・レヴィンがプロデューサーとして務めていたが、今度はアビー・ロード・スタジオからトライデントスタジオで活躍した名プロデューサー兼エンジニアのケン・スコットを要請している。彼はザ・ビートルズをはじめ、スーパートランプやピンク・フロイド、プロコル・ハルム、エルトン・ジョンといったアルバム制作に携わり、何よりもマハヴィシュヌ・オーケストラのエンジニアとして著名であり、ディキシー・ドレッグスが彼をプロデューサーとして迎えたのはそれが大きい。こうしてシャトー・リコーダーズ・スタジオでレコーディングを行い、1978年3月に本セカンドアルバム『ホワット・イフ』がリリースされる。そのアルバムはカントリー&ブルーグラス調だった前作に、ロックやジャズ、クラシックといった多彩なジャンルの要素を組み込み、マハヴィシュヌ・オーケストラを想起させるハードボイルドなジャズロックとプログレ的なスタイルが混同した最高峰のインストゥメンタルアルバムとなっている。

★曲目★ 
01.Take It Off The Top(テイク・イット・オフ・ザ・トップ)
02.Odyssey(オデッセイ)
03.What If(ホワット・イフ)
04.Travel Tunes(トラベル・チューンズ)
05.Ice Cakes(アイス・ケイクス)
06.Little Kids(リトル・キッズ)
07.Gina Lola Breakdown(ジーナ・ローラ・ブレイクダウン)
08.Night Meets Light(ナイト・ミーツ・ライト)

 アルバムの1曲目の『テイク・イット・オフ・ザ・トップ』は、唸りを上げるグルーヴィーなブギーロックの演奏の中を爽やかなリードギターが掛け抜けるフュージョンタッチの楽曲。この曲からプログレッシヴロックやジャズフュージョンというより、プログレとジャズの要素が加わったクラシックロックであると明確に表している。2曲目の『オデッセイ』は、アレン・スローンのヴァイオリンをフィーチャーし、キレの良さとリリカルな演奏で変転するテクニカルなシンフォニックハードジャズ。ゆったりとしたクラシカルなヴァイオリンの響きがある一方、ジェントル・ジャイアントばりの高速アンサンブルがあり、ネオクラシカルにも通じる静と動のコントラストが素晴らしい通好みの内容になっている。3曲目の『ホワット・イフ』は、しっとりと聴かせる感傷性のあるバラード曲。メロディックな感性とシンセサイザーやワウペダルを使用したモーズのギターなどの絡みが興味深く、ヴァイオリンの弦楽器がより抒情性を生み出している。4曲目の『トラベル・チューンズ』は、ウェストが作曲したハードロックとケルト民謡のようなトラディショナル要素が交互に切り替わるジャズロック。電子楽器とヴァイオリンやギターとのコンビネーションがコミカルであり、まさにヨーロッパを旅行したような味わいのあるユーモアが随所に聴き取れる。5曲目の『アイス・ケイクス』は、モーズのギターを中心としながらも、ファンク系ドラムからジェフ・バーリン風のベース、エディ・ジョブソン風のヴァイオリンによるファンキーかつ優美なクラシカルロック。様々な楽器のパレットを通じて次第に1つの素晴らしいアンサンブルへと昇華していく内容になっている。6曲目の『リトル・キッズ』は、ヴァイオリンとアコースティックギターによるクラシックのセンスを魅せつけた楽曲。ヴィヴァルディを思わせるアイルランドのフォークジグであり、こうしたクラシカルな楽曲は後のスティーヴ・モーズ・バンドにも引き継がれている。7曲目の『ジーナ・ローラ・ブレイクダウン』は、ヴァイオリン、ギター、ピアノ、ツーステップのベースラインによる軽快なホウダウン曲。馬の足踏みのようなドラム演奏など、プログレ・フュージョン・ブルーグラスとでも言えるアメリカンバンドらしい楽曲であり、その見事なカントリー・ピッキングからモーズの才能の高さが垣間見える。8曲目の『ナイト・ミーツ・ライト』は、モーズの抒情性のあるギターフレーズを中心としたバラード曲。多彩な変拍子の中でヴァイオリンとギターが溶け込むような演奏が絶品である。こうしてアルバムを通して聴いてみると、『オデッセイ』や『アイス・ケイクス』といった玄人好みの複雑でテクニカルな演奏がある一方、『ホワット・イフ』や『ナイト・ミーツ・ライト』といった美しいフュージョンサウンド、そしてホウダウンやクラシックな曲を織り込んであり、グループの表現力の高さや豊かさが存分に感じられる内容になっている。明らかに次の時代を見越したアメリカンハードプログレになっており、トリオとなったスティーヴ・モーズ・バンドでもしっかりとディキシー・ドレッグス時代の曲調を受け継いでいるのが印象的である。

 プロデューサーにケン・スコットを起用したことが成功し、自分たちの本来求めるサウンドを追求した本アルバムは、当時のジャズフュージョンの傑作というだけではなく、プログレッシヴハードロックとしても最高傑作と言われるようになる。彼らはアルバムリリース後に、ジョージア州をはじめ、フロリダ州やサウスカロライナ州、ノースカロライナ州など、10の州をまたぐ初のツアーを敢行。さらに1978年7月23日に開催されたスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルにも出演して、その時の音源とスタジオ作品を組み合わせたアルバム『ナイト・オブ・ザ・リヴィング・ドレッグス』を1979年4月にリリースしている。この年のディキシー・ドレッグスは最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門で初めてグラミー賞にノミネートされる。結果としてポール・マッカートニーが率いるウイングスが受賞したが、彼らの知名度はアメリカ中に広く知れ渡っていたという証だろう。1979年10月にカプリコーンレコードが破産宣告を受けたことで、グループは1980年1月にアリスタレコードと契約。キーボード奏者のマーク・パリッシュが脱退して、代わりにT・ラヴィッツが後任となり、また、バイオリニストのアレン・スローンが医者の道に進んだため、代わりにマーク・オコナーに加入するなど、メンバーチェンジを行いながら3枚のアルバムを制作。この時にグループ名をディキシー・ドレッグスからザ・ドレッグスに変更している。さらにドゥービーブラザーズのパトリック・シモンズやサンタナのアレックス・リガートウッドをゲストヴォーカリストとして招えて、ラジオ放送向けにヴォーカル曲を制作するなど、グループの存続の為にいろいろ試みたが売り上げに結びつかず、最終的に解散して個々のプロジェクトに取り組むことを決定している。スティーヴ・モーズは1984年に自身のグループであるスティーヴ・モーズ・バンドを結成し、ベーシストのジェリー ピークとドラマーのロッド・モーゲンスタインと共にトリオとしてライブ活動を開始。また、自身のグループと並行してカンサスのアルバムにもギタリストとして参加し、1994年にはリッチー・ブラックモアの後任としてディープ・パープルのギタリストとして活躍することになる。一方のアンディ・ウェストはマイク・ケネリー、ヘンリー・カイザー、ポール・バレア、ヴィニー・ムーアなど多くのアーティストのアルバムに参加している。1989年にはスティーヴ・モーズ、ロッド・モーゲンスタイン、T・ラヴィッツ、アレン・スローンが顔を合わせ、ディキシー・ドレッグスを再結成してツアーを敢行。1989年に復帰作として、ベスト・オブ・アルバム『Divided We Stand』をリリース。また、1992年にもベーシストにデイヴ・ラルーを迎えて7日間のツアーを行い、同年にライヴアルバム『Bring 'em Back Alive』をリリースしている。彼らは1994年に、以前のレーベルであるカプリコーンレコードと契約し、10年ぶりのスタジオアルバム『Full Circle』をリリースしてファンを歓喜させている。各メンバーは他のプロジェクトと並行しながらも散発的にディキシー・ドレッグスの活動を行っており、最近では2018年2月28日にフロリダ州クリアウォーターを皮切りに「ドーン・オブ・ザ・ドレッグス」と名付けられたライヴツアーを行っている。そのライヴではスティーブ・モーズ(ギター)、アンディ・ウェスト(ベース)、ロッド・モーゲンスタイン(ドラムス)、アレン・スローン(ヴァイオリン)、スティーヴ・ダヴィドウスキ(キーボード)のオリジナルラインナップのメンバーが出演したという。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回は私が敬愛するギタリストの1人、スティーヴ・モーズが在籍したディキシー・ドレッグスのセカンドアルバム『ホワット・イフ』を紹介しました。スティーヴ・モーズというギタリストを初めて知ったのは、当時まだ学生でアメリカンTOP40やビルボードを追っかけていた時に聴いたカンサスの1986年のアルバム『パワー』です。その技巧的で存在感のあるギタープレイはカンサスの復帰作に大きく貢献したことは間違いないでしょう。ただ、当初は単なる超絶技巧を極めたギタリストの1人としての認識でしたが、その後、スティーヴ・モーズ・バンドの『ハイ・テンション・ワイヤーズ』や『サザン・スティール』を聴いて、ロックギタリストであるにも関わらず、ジャズやカントリー、クラシック要素といったジャンルをモノともしないプレイスタイルに、一気に好きになったものでした。彼のサウンドはハードロック、ジャズ・フュージョン、サザンロック、プログレッシヴロックといったカテゴリーには収まらないレンジの広さがあり、常に新たなギタープレイをまい進する姿にただただ驚愕するばかりです。そんな多彩なプレイスタイルだからこそ、結果的に同時代に席巻するアメリカンプログレッシヴハードに繋がることになり、雄であるカンサスに加入する流れになったのはある意味必然だったのかも知れません。また、スティーヴ・モーズといえば技巧的なギタープレイに目が行きがちですが、実は作曲能力も非常に高く、ディキシー・ドレッグス時代から楽曲制作を一手に引き受けているところも偉大なギタリストたる所以だと思っています。

 さて、そんなジャンルの垣根を越えた多彩なギタープレイが魅力的なスティーヴ・モーズが、作曲を担い自分たちが本来求めるサウンドを追求したアルバムとなっています。前作では時代が求めるややライトな音作りに徹した感がありますが、本アルバムではマハヴィシュヌ・オーケストラを想起させるハードなジャズロックとプログレッシヴロックの要素がより強調された内容になっています。そのサウンドに貢献しているのはプロデューサーのケン・スコットの手腕によるところもありますが、元メンバーだったキーボーディストのマーク・パリッシュの復帰も大きいです。彼のキーボードはテクニカルでアグレッシヴな演奏の中でしっかりとしたメロディを刻んでおり、プログレッシヴロックの要素をもたらしてくれます。また、静と動の組み合わせが素晴らしく、アレン・スローンのヴァイオリンのトーンが軽やかなジャズフュージョンとクラシカルな要素を作り出しており、ギターロック一辺倒にはならない絶妙なアンサンブルになっています。すべてインストゥメンタル曲となっていますが、随所にジャズやクラシックの要素も含ませつつ、さらにカントリー要素を何気なく織り交ぜているところが、このアルバムの音楽性の凄さが如実に表れている気がします。

 スティーヴ・モーズ・バンドやカンサス、ディープ・パープルのギタリストとして活躍するスティーヴ・モーズの原点ともいえるグループのアルバムです。多彩なジャンルを盛り込み、それを昇華させた最高峰のインストアルバムをぜひとも味わって欲しいです。

それではまたっ!
 

Iceberg/Tutankhamon
イセベルグ/ツタンカーメン組曲
1975年リリース

「ツタンカーメン王」をテーマにした
シンフォニック色の強いコンセプト作

 ギタリストのマックス・スニェールを擁するスペインのプログレッシヴジャズロックグループ、イセベルグのデビュー作。本アルバムは古代エジプトのツタンカーメン王をテーマにした壮大なコンセプト作となっており、後にジャズロックグループとして君臨するイセベルグがメロトロンを含む多彩なキーボードを駆使したグループ史上最もシンフォニック色の強い内容になっている。当初はレコード会社と契約に至らず自主で録音されたが、それを聴いたプロデューサーのアラン・ミローが高く評価して、後に契約したCFEからリリースされて一躍トップグループに輝くことになる傑作アルバムでもある。

 イセベルグは1973年にスペインのバルセロナで結成したグループである。元々は1960年代から活躍するスペインのポップシンガー、トニー・ロナルドのバックバンドとして集められたグループで、メンバーはマックス・スニェール(リードギター)、ホセプ・マス(キーボード)、アヘル・リパ(ヴォーカル、サックス、リズムギター)、プリミティウ・サンチョ(ベース)の4人である。そして1974年になると彼らは英国の影響からシンフォニックスタイルの音楽を追求するため、トニー・ロナルドと袂を分かち、新たなグループを立ち上げようと考えたという。しかし、シンフォニックなスタイルの演奏を経験しているのは、ギタリストのマックス・スニェールのみであり、シンフォニックスタイルの音楽はスペイン国内でも過去になりつつあったという。彼らは後にルイス・アギーレのバックで演奏していたドラマーのホルディ・コロメルと連絡を取り、彼を加えた5人となった際にグループ名を「氷山」を意味するイセベルグとしている。彼らのスタイルはマックス・スニェールのギターとホセプ・マスのキーボードを中心に、ホロディ・コロメルとプリミティウ・サンチョによる力強いリズムセクションとアヘル・リパのサックスがサポートするジャズ風味のシンフォニック調の演奏だったという。彼らは早速メンバーと共に作曲と演奏を行い、デモテープを何本か制作。EMI-Odeonをはじめ、いくつかのレコード・レーベルからの関心を呼び起こしたものの契約には至らなかったという。彼らは1975年3月27日にカタルーニャ州にある都市ルスピタレート・ダ・リュブラガートでデビューコンサートを行い、レコード契約ができなかったため、制作会社を立ち上げることになる。彼らは知り合いのマリア・アルベロやカルケス・セラトと連絡を取り、彼らの招きでマドリードのキリオス・スタジオに入り、ファーストアルバムを1975年5月5日から11日までの期間に録音している。このアルバムでは伸びやかなシンセサイザーによるシンフォニックな要素と、ギタリストのマックス・スニェールを主軸においたジャズロック要素を新たに加味したサウンドとなっており、何よりも後にインストゥメンタルスタイルとなる彼らが英語とスペイン語を兼ねたヴォーカル曲が多いのが特徴となっている。その作品を聴いたプロデューサーを担当したアラン・ミローが作品に興味を示し、彼の力でSpanish Phonographic Company(CFE)というレコード会社と契約して同年6月リリースされたのが、本アルバムの『Tutankhamon(ツタンカーメン組曲)』である。

★曲目★ 
01.Tebas(テーベ)
02.Prólogo(プロローグ)
03.Sacerdotes De Amón(アモンの司祭)
04.Amarna(アマルナ期)
05.Lying On The Sand(砂に横たわり)
06.Amenofis IV "El Hereje"(アメノフィス四世"異端者")
07.Himno Al Sol(太陽賛歌)
08.La Muerte(死)
09.Close To God(神に近づいて)
10.Too Young To Be A Pharaoh(ファラオは若すぎる)
11.Tebas "Reprise"(テーベ"リプライズ")
★ボーナストラック★
12.Close To God(神に近づいて~別バージョン~)
13.Too Young To Be A Pharaoh(ファラオは若すぎる~別バージョン~)

 アルバムの1曲目の『テーベ』は、まさに英国のシンフォニックロックの王道を行くようなメロトロンをバックに、軽快なドラミングとギター、そしてモーグシンセサイザーのアンサンブルが見事なオープニングから始まる。2曲目の『プロローグ』は、ファンキーなギターカッティングを中心としたジャズ風味のヴォーカル曲となっており、ソフトなアヘル・リパのヴォーカルが冴えた楽曲。マックス・スニェールのテクニカルなギターとホセプ・マスの煌びやかなエレクトリックピアノのインタープレイが素晴らしい。3曲目の『アモンの司祭』は、ヘヴィなロックスタイルだが、サックスやエレクトリックピアノ、そして中間部にはメロトロンをバックに幻想的な雰囲気が漂う楽曲。後半になると強調が次第に高まりながら再びヘヴィなコントラストに回帰している。4曲目の『アマルナ期』はギターが主導した折衷的なインストゥルメンタル曲。ハードなスニェールのギターリフと手数の多いドラミングが特徴である。途中のメロトロンによる心地よい雰囲気が独特の世界観を創り上げている。5曲目の『砂に横たわり』は、エレクトリックピアノとギターによるロックとジャズの要素が混ざり合ったスローミディアムテンポの楽曲。抒情的な英語歌詞のヴォーカルと深みを与えるメロトロンの響きが素晴らしく、中間の煌びやかなエレクトリックピアノのソロとジェフ・ベックを彷彿とさせるブルージーなギターソロが沁み入る。6曲目の『アメノフィス四世"異端者"』は、リズミカルなバックとラテン風味のギター、そしてキーボードを加味したテクニカルなインストゥメンタル曲。フュージョン的な要素があり、メンバーの演奏力を魅せつけた内容になっている。7曲目の『太陽賛歌』は、幻想的なキーボードをメインに、イエスの『リレイヤー』を彷彿とさせるスティーヴ・ハウのギターリフがあるシンフォニック調の楽曲。エレクトリックピアノはジャズ調であり、スペイン語のヴォーカルは同じスペインのグループであるBlogueにも通じる。8曲目の『死』は、テンポの良いリズムをバックにキーボードやギターリフをメインに展開する楽曲。当時の流行に従ってドラムソロがフィーチャーされている。9曲目の『神に近づいて』は、一転して美しいエレクトリックピアノとギターによるアンサンブルに乗せたヴォーカルが素晴らしいヴォーカル曲。アルバムの中でも最もメロディアスであり、1980年代にも通じる彼らの美的センスが表れた一曲でもある。10曲目の『ファラオは若すぎる』は、初期のイエスにも通じるヘヴィなロックナンバー。ハードロックとプログレッシヴロックの中間的な楽曲になっており、スティーヴ・ハウにも似たギターリフが随所に聴き取れる。そして11曲目の『テーベ"リプライズ"』で、オープニングトラックと同じシンフォニックなキーボードによって壮大な物語を終えている。ボーナストラックの2曲は2003年にCDとして再発されたPicap盤から収録されたもので、1975年11月12日にパリのスタジオ・ダヴーで録音された別バージョンとなっている。こうしてアルバムを通して聴いてみると、後にジャズギタリストとして頭角を現すマックス・スニェールとメロトロンをはじめとする多彩なキーボードを奏でるホセプ・マスのプレイのバランスが良く、そして軽やかなリズムセクションによるアンサンブルを重視した素晴らしい内容になっていると思える。ヴォーカル曲が多いためか非常にメロディを意識した楽曲が多く、確かに後の硬派なジャズロックを標榜とするイセベルグの作品の中では異色といえるだろう。

 本アルバムはCFEの力によってライヴコンサートの開催、ラジオによる宣伝が成功し、1975年6月のアルバムリリース時には一躍トップグループの仲間入りを果たすほど知名度は国内を駆け巡ったという。また、スペイン版のウッドストックと呼ばれたCanet Rock Festivalに出演し、2万人の聴衆の前で演奏を行ったことも彼らの人気を決定付けている。たった1枚のアルバムでスペインの重要グループとなったイセベルグだが、1976年にヴォーカル要素を無くし、今度はインストゥメンタルに比重を置いたのが、セカンドアルバムの『Coses Nostres(コセス・ノストレス)』である。このアルバムでイセベルグはスペインでの人気を不動のものとし、ヨーロッパだけではなく遠くアメリカにまで注目され、グループにとって最高のアルバムの売り上げとなったという。また、イセベルグは同年のポピュラーワン誌での読者投票でスペイン国内のベスト・グループに選ばれている。1年後となる1977年には、サードアルバムとなる『Sentiments(感傷)』をリリース。前作より売り上げは落ちるものの、よりへヴィなジャズロックとなり、相変わらずマックス・スニェールのギターが冴え渡ったアルバムとなっている。彼らは後にレアル・マドリードのスポーツ・パビリオンで開催されたスペイン・ロック・フェスティバルに出演し、スペインのロックグループと共に全国ツアーに参加するなど精力的な活動をしている。しかし、1979年にリリースしたアルバム『Arc-En-Ciel』を最後に解散することになる。理由はマックス・スニェールとホロディ・コロメルの家庭の事情、そしてホセプ・マスがホアン・マニュエル・セラトというグループに加入してしまったのがきっかけだが、一番の原因は結成から5年の間に休みの無い音楽活動の疲れだったという。しばらくしてからマックス・スニェールとホセプ・マスがペガサスというグループを結成し、1980年代のジャズロック/フュージョンシーンを10年近く牽引することなる。その後、マックス・スニェールはマックス・スニェール・トリオで活動を続け、一方のホセプ・マスも作曲家、編曲家として、自身のソロ作品や多くのアーティストとのコラボレーション作品を残している。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回は1970年代のスペインのロック&ジャズシーンを牽引してきたイセベルグのデビューアルバム『ツタンカーメン組曲』を紹介しました。前回にセカンドアルバムの『コセス・ノストレス』をレビューしていますが、この時はジャズロックグループのイセベルグとして紹介しています。一方の本アルバムは主に英国のシンフォニックロックの影響が感じられ、後にインストスタイルとなる彼らにとって珍しいヴォーカル曲があり、イセベルグのアルバムの中でも異色とされています。それでも古代エジプト王のツタンカーメン王をテーマとする組曲形式のコンセプト作で挑み、メロトロンをはじめとする多彩なキーボードから生み出される楽曲は、デビューアルバムとは思えない完成度の高い内容になっています。とにかく、イセベルグといえばギタリストのマックス・スニェールの存在は大きく、マハヴィシュヌ・オーケストラのジョン・マクラフリンとアイソトープのゲイリー・ボイルの2人を割ったようなギタリストであると良く言われます。さらにイセベルグが他のジャズロックとは違うプログレッシヴロック寄りのグループとして語られるのは、やはりホセプ・マスのシンフォニックなキーボードプレイの存在があるからだろうと思います。その軽快なジャズと荘厳なシンフォニックの要素が良い意味でバランスよく配置されたのが本アルバムとも言えます。

 さて、本アルバムですが古代エジプトをテーマにしたトータル作品で、シンフォニックロックとラテン的なジャズがミックスしたような内容になっています。歌詞は英語とスペイン語が混在しており、先にも述べたように本作のみヴォーカル要素を前面的に押し出しています。組曲形式となっていますが、1曲1曲は独立したものになっており、曲ごとにジャズ風味やシンフォニック調、バラードといった曲調を変えた作りになっていて、テクニカルだけではなく、非常にメロディを重要視している感じがします。特に9曲目の『神に近づいて』は、今聴いても震えるほど美しいバラード曲だと思っています。また、アルバムはジャズやフュージョン寄りの曲が多いですが、『砂に横たわり』や『ファラオは若すぎる』のように、ロック界の巨人であるレッド・ツェッペリンに敬意を表した曲もあります。これらの曲では、ヴォーカルは当然のことながら英語歌詞で、よりハードなスタイルで歌っているのが何よりの証です。さらに7曲目の『太陽賛歌』ではイエスのアルバム『危機』に収録されている『シベリアン・カートゥル』にも似たスニェールのギターリフがあることから、当初はイエスのようなシンフォニックスタイルのロックを目指そうとしていた可能性があります。個人的にはアヘル・リパの癖のないヴォーカルが意外と良くて、この路線でヴォーカル曲を中心に攻めても良かったのでは?と思いましたが、当時のスペインの急進的なジャズロックの人気を鑑みると、インストのみで行こうとした彼らの英断は正しかったんだな~と今では思っています。

 スペインは1975年までフランシスコ・フランコによる長期独裁政権が続き、特に民族音楽が弾圧されていた歴史があります。イセベルグはそんな抑圧されていた時代から自由になった時代に活動していたグループであり、地道なバックバンドからトップグループに躍り出た稀有なグループでもあります。彼らの自由を謳歌するかのような開放感と爽快感に満ちた本アルバムをぜひとも聴いてほしいです。

それではまたっ!

 

Secret Oyster/Straight To The Krankenhaus
シークレット・オイスター/ストレイト・トゥ・ザ・クランケンハウス
1976年リリース

ジャズロックに独特のアレンジを加え
幻想性の高いサウンドになった傑作

 デンマークを代表するジャズ&シンフォニックロックグループ、シークレット・オイスターの4枚目のアルバム。そのアルバムは前作で切り拓いたテクニカルなジャズロックにシンフォニック要素を加味したサウンドを引き継いでおり、キーボードをメインとする陰影に富んだより哀愁のあるメロディと、エッジのあるギター、そして幻想性の高いサックスが相互作用したグループ史上最も洗練された傑作となっている。メランコリックかつファンタジックなフュージョンタッチに仕上げているが、ここぞという場面ではハイテンションのジャズロックが飛び込むという、その表情豊かなサウンドは世界でも注目された1枚でもある。

 デンマークのコペンハーゲンで結成されたシークレット・オイスターは、元々、1967年に結成したジャズロックグループ、バーニン・レッド・アイヴァンホーの作曲家兼サックス奏者のカルステン・フォーゲルが、さらにテクニカルでプログレッシヴなジャズロックを目指すために、1972年に結成したグループである。カルステン・フォーゲルは1963年にブロードレン・フォーゲル・カルテットでデビューし、1967年から1969年にかけては10名の音楽家からなる前衛的なジャズロックグループ、カデンシア・ノヴァ・ダニカの一員となっている。そして1968年にコペンハーゲン大学でデンマーク語とデンマーク文学の博士号を取得しつつ、その前年には若いジャズミュージシャンによるバーニン・レッド・アイヴァンホーのメンバーとして活躍することになる。この頃のフォーゲルは作曲家、サックス奏者、オーケストラのリーダーとしての顔を持ち、デンマーク国内では若き音楽家として注目されたという。1970年に入るとフォーゲルは、マハヴィシュヌ・オーケストラやウェザー・リポートといった新たなジャズの方向性を持ったグループに感化し、新たなグループ作りを模索し始める。彼がグループ作りの条件として考えていたのは、メンバー全員が最高レベルの即興演奏ができて、なおかつ作曲を含めた創作ができ、さらにリズミカルな推進力、つまり前進するリズム性を確保することだったという。そこで彼はリズムセクションに共に演奏したバーニン・レッド・アイヴァンホーのボー・スリーゲ・アンデルセン(ドラムス)とマッズ・ヴィンディング(ベース)を引き入れている。そしてフォーゲルはフリージャズトリオのコロナリアス・ダンスというグループに所属し、デンマーク王立芸術アカデミー建築学部卒業という経歴を持つピアニスト兼キーボード奏者のケネス・クヌーセンと、ハーディ・ガーディという英国を拠点にしたロックグループに所属していたコペンハーゲン出身のギタリスト、クラウス・ボーリングをメンバーにしている。作曲を兼ねるケネス・クヌーセンの加入は、キーボードも兼ねていたフォーゲルがサックスに専念できるようになり、ロックギタリストの経験を持つクラウス・ボーリングの加入は、ジャズロックに新たな風を吹き込むことになる。こうして5人のメンバーとなった彼らは、バーニン・レッド・アイヴァンホーの1970年のアルバムに収録されている楽曲『シークレット・オイスター・サービス』を由来としたシークレット・オイスターというグループ名で活動を開始する。

 彼らはフォーゲルとクヌーセンが作曲した楽曲を元に丹念にリハーサルを重ね、1972年9月の伝説のモンマルトルのステージでデビューを果たすことになる。彼らに対するメディアの関心は高く、いち早く契約したレコード会社のCBSのポール・ブルーンは、北ユトランド諸島に彼らを送り、ニベのカントリー・パレで2日間かけてRevoxテープレコーダーを使い、2×2トラックでアルバム用のマテリアルを録音している。そして1973年にデビューアルバム『シークレット・オイスター』がリリースされるが、彼らのサウンドはマハヴィシュヌ・オーケストラやニュークリアス、ハービー・ハンコックのアルバム『Mwandishi』や『Sextant』、そしてマイルス・デイビスの『ビッチェズ・ブリュー』を彷彿とさせ、国内で高く評価される。この成功からレコード会社はそのアルバムを『Furtive Pearl』というタイトルで海外にもリリースすることになり、特にアメリカで注目されたという。また、アメリカのミュージシャンであるキャプテン・ビーフハートと共にツアーを行い、とりわけ、パリでは約3万人の前で演奏している。後にメンバーチェンジがあり、リズムセクションにオーレ・ストレンベルグ(ドラムス)とジェス・スタール(ベース)に交代。また、メンバーだったキーボード奏者のケネス・クヌーセンとギタリストのクラウス・ボーリングは、コロナリアス・ダンスの活動も並行して行うようになる。1974年リリースのセカンドアルバム『シー・ソン』は、完成度の高いジャズロックとしてファンの間では最高傑作とも言われたが、国際的に認知されることはなかったという。そんな彼らはテクニカルなジャズロックの限界を感じていた矢先、デンマークを代表するバレエダンサーの1人、ビビ・フリントから舞踏音楽用の作曲依頼が舞い込む。それが1975年にリリースされる3枚目のアルバム『Vidunderlige Kalling』である。そのアルバムは管楽器編成を活かしつつも、美しいシンセサイザーとサックスのフレーズを核としたメロディとアンサンブルが織り成すシンフォニック要素の高いジャズロックとなっている。彼らはこのシンセサイザーを巧みに活用した、より洗練されたジャズロックの即興性とメロディアスなアンサンブルを軸としたサウンドを目指すようになる。彼らは次のアルバムに向けて、1975年の秋にコペンハーゲンのローゼンバーグスタジオに入り、ゲストにカスパー・ウィンディング(パーカッション)を迎えてレコーディングを開始。そして1976年3月にニューヨークのレコード・プラントでミックス作業を行い、同年に4枚目のアルバム『ストレイト・トゥ・ザ・クランケンハウス』がリリースされることになる。

★曲目★
01.Lindance(ラインダンス)
02.Straight To The Krankenhaus(クランケンハウスへ直行)
03.My Second Hand Rose(私のお下がりのバラ)
04.High Luminent Silver Patterns(高輝度のシルバー・パターンズ)
05.Delveaux(デルヴォー)
06.Stalled Angel(失速の天使)
07.Rubber Star(ラバー・スター)
08.Traffic & Elephants(トラフィック&エレファンツ)
09.Leda & The Dog(レダと犬)

★ボーナストラック★
10.Alfred(アルフレッド)
11.Glassprinsen(ガラスの王子様)

 アルバムの1曲目の『ラインダンス』は、ソリッドなシンセサイザーと力強いリズムセクションを中心とした1分強のオープニング曲。ヤン・ハマー風のキーボードのワークアウトのようなエネルギーが感じられ、これから始まる楽曲の序章としてふさわしい楽曲である。2曲目の『クランケンハウスへ直行』は、脈打つエレクトリックピアノとシンセサイザーによって始まり、複雑なドラム演奏とさまざまなパートからなる疾走感あふれた楽曲。ラテン風味の陽気なパーカッションと伸びのあるロック調のギターがあり、キャッチーで遊び心のある内容になっている。3曲目の『私のお下がりのバラ』は、一転してゆったりとした哀愁のサックスによるジャズロック。ストリングスとエレクトリックピアノが彩りを与えており、存在感のあるベースライン、そしてヘヴィでありながら泣きのギターが印象的である。4曲目の『高輝度のシルバー・パターンズ』は、エレクリックピアノのリフから始まり、タイトなパーカッション、浮遊感のあるシンセサイザーが特徴のフュージョン的な楽曲。グルーヴィーでありながら即興的な要素があり、マクラフリン風のギターによるソロ展開は圧巻のひと言である。5曲目の『デルヴォー』は、8分近くありアルバムの中で最も長い曲。前半はミステリアスなシンセサイザーとギターによるパーカッションのない瞑想曲となっており、後半はフォーゲルの哀愁漂うメロディアスなサックスが際立った内容になっている。6曲目の『失速の天使』は、ファンクの要素を加味した楽曲となっており、美しいシンセサイザーをバックに手数の多いドラミングと変化するギターリフによる独特なコントラストを描いている。7曲目の『ラバー・スター』は、穏やかなギターのアルペジオがリズムを​​支え、ベースやエレクトリックピアノ、そしてサックスが交互にメロディを優しく押し進めた楽曲。途中で互いに対位法を提供し合い、キャメルの『ムーンマッドネス』に似たフレーズが随所にある。8曲目の『トラフィック&エレファンツ』は、繊細なリズムセクションをベースにサックスを奏でた楽曲。徐々にスピードアップし、曲が厚みを増していくのが心地よい。9曲目の『レダと犬』はギタリストのボーリングが作曲したギターとシンセサイザーをメインにした楽曲になっている。ボーナストラックの2曲は2007年のレザーズ・エッジからリマスター化されたCD盤に収録されている楽曲。『アルフレッド』は、ファンキーなギターとサックスによる豪快な楽曲となっており、中間からのヘヴィなギターソロは聴き応えあり。『ガラスの王子様』は、リリカルなエレクトリックピアノとサックスによるムーディーな演出を試みた楽曲。途中からリズムセクションが入るとスピーディーなジャズロックに変化するなど、彼らの技巧的な演奏が堪能できる逸品になっている。

 4枚のアルバムリリースにより、シークレット・オイスターはデンマーク最大のジャズロックグループとしての地位を確立したが、メンバーが独自の活動を本格化し始めたことで解散を決意。1977年12月17日にクリスチャニアで最後のコンサートを行っている。キーボード奏者のケニス・クヌーセンは1974年にコロナリアス・ダンスを解散させ、1979年までエントランスというグループを結成して活動。その後はパレ・ミッケルボルグのアルバムや現代バレエのための音楽、映画音楽など多岐に渡って活躍し、2000年以降はコペンハーゲンの自身のスタジオで活動。2018年にはギタリストのオリバー・ホイネスとのアルバム『November Tango』をリリースしている。ギタリストのクラウス・ボーリングは、解散後に再びイギリスに居住し、セッションミュージシャンとして活躍。2004年にはデンマークやスウェーデン、アメリカのミュージシャンがフリーフォームの即興スペースロックミュージックを演奏するエーレスンド・スペース・コレクティブに参加している。サックス奏者のカルステン・フォーゲルは、バーズ・オブ・ビューティー、カルステン・フォーゲル・カルテットと自身のグループを結成し、ジャズミュージシャンとして活躍。また、ケニス・クヌーセンと共にデンマークの俳優であるフリッツ・ヘルムートによるアンデルセンHCとエーレンシュレーガーの朗読劇で演奏をしている。その後は映画の作曲や国内のオーケストラやジャズの推進に力を注ぎ、サックス奏者の教師として生計を立てたという。2005年を過ぎた頃にこれまで廃盤となっていた4枚のアナログレコードが、アメリカのレザーズ・エッジからCD化されることに伴い、多くのアメリカのファンがシークレット・オイスターの再結成を願ったという。このような背景から、アメリカのフェスティバルに参加する目的で、カルステン・フォーゲルとオーレ・ストレンベルグ、クラウス・ボーリングが顔を合わせて2007年に再結成される。ベーシストのアッシ・ロアとキーボード奏者のダニエル・フリデルを加えて、ペンシルバニア州ベツレヘムのリーハイ大学のゼルナー・アート・センターでライヴを行い、その後はデンマークに戻って国内ツアーを敢行している。2008年にはそのライヴを収録した『ライヴ・イン・ザ・USA 2007』としてリリースされ、彼らの高レベルのジャズロックが堪能できる1枚となっている。2019年にはカルステン・フォーゲルとケニス・クヌーセン、オーレ・ストレンベルグ、ジェス・スター、クラウス・ボーリングといったオリジナルメンバーによる最新アルバム『Striptease』がリリースされている。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はデンマークを代表するジャズロックグループであり、世界的にも注目を集めたシークレット・オイスターの4枚目のアルバム『ストレイト・トゥ・ザ・クランケンハウス』を紹介しました。このグループは4枚のアルバムを出していますが、前半の2枚はテクニカルなジャズロックとして高く評価された一方、後半の2枚はシンセサイザーを導入したシンフォニック要素を加味し、フュージョン的なジャズロックとして、これもまた高く評価された作品となっています。どちらも国内よりもアメリカをはじめとする海外で人気が高く、世界的なジャズロックグループとして認知されることになります。ただし、当時のデンマークは、歌劇を中心としたバレエ用の音楽を親しむ風潮が根強く、ロックやジャズをバレエ音楽に組み込む流れがあったそうです。バレエ音楽をロックと融合したものの中には、デンマークのプログレッシヴロックグループであるエイクが1970年に発表した『組曲「都会の男」』やサヴェージ・ローズが1972年に発表した『死の勝利』というアルバムが挙げられます。そんなシークレット・オイスターも多分に洩れず、デンマークを代表するバレエダンサーの1人、ビビ・フリントから舞踏音楽用の作曲依頼を受けたことで新たなサウンドに目覚めるようになります。硬派なジャズロックファンからしたら、バレエ用の音楽に着手したシークレット・オイスターに対して賛否両論が巻き起こったとも言われています。しかし、結果としてテクニカルなジャズロックにシンフォニックな幻想性を加えた独自のサウンドを切り拓くことになり、メロディアスで分かりやすいジャズロックに生まれ変わることになります。

 さて、その流れを継承した本アルバムは、ジャズロック特有の疾走感をはじめ、泣きのギターや哀愁のサックスなどがあり、最も表情豊かでクロスオーヴァー寄りとなった逸品と言われています。タイトルの『ストレイト・トゥ・ザ・クランケンハウス』はドイツ語で、直訳すると「総合病院へ直行」となります。ジャケットはケル・イェルステットというデザイナーが手掛けており、政治家かな?と思わせる人物が椅子にふんぞり返っており、それをテレビカメラマンが撮影している風になっています。一種の社会風刺的な感じを受けますが、タイトルと組み合わせるとなかなかのブラックユーモアになります。1曲目からスリリングなキーボードをメインとした楽曲から始まり、全体的にメロディとグルーヴの両方を強調した1970年代後半のウェザー・リポートに似ていて、民族的なラテン系の風味もある楽曲になっています。3曲目の『私のお下がりのバラ』ではゆったりとしたサックスのメロディが素晴らしく、7曲目の『ラバー・スター』は、一瞬キャメルの『ムーンマッドネス』を彷彿とさせる雰囲気があります。とにかくキーボードとギター、サックスの相互作用を最大限に活かした曲作りと、まさに「踏み鳴らす」というよりも「走る」ようなリズムセクションが大きなポイントと言えます。

 本アルバムはマハヴィシュヌ・オーケストラやリターン・トゥ・フォーエヴァーを意識したジャズ/フュージョンの傑作とされています。世界に通用するデンマークの高レベルのジャズロックをぜひとも堪能してほしいです。

それではまたっ!

 

Nuova Idea/Clowns
ヌオーヴァ・イデア/道化師
1973年リリース

多彩なキーボードによるシンフォニック性と
構築性に富んだイタリアンプログレの名盤

 後に再結成後のニュー・トロルスに参加するリッキー・ベッローニ(ギター)とジョルジョ・ウザイ(キーボード)が在籍していたイタリアのプログレッシヴロックグループ、ヌオーヴァ・イデアのサードアルバム。そのアルバムはハードロック調だった前作から、メロトロンやハモンドオルガン、ムーグシンセサイザー、ピアノなどといったカラフルなキーボード群が前面で活躍し、効果的にツインギターを絡めたグループ史上もっともシンフォニック色の強いプログレッシヴロックとなっている。穏やかな場面から一気に畳み掛けるスリリングな曲展開と、どこか人間味あふれるメロディが胸を打つ、典型的なイタリアンプログレの特徴を持った傑作でもある。

 ヌオーヴァ・イデアは1970年にイタリアの北西部にある都市ジェノヴァで結成されたグループであり、その母体はパオロ・マルティネッリ(ギター)、ルチアーノ・ビアサート(ギター)、エンリコ・カザーニ(ベース)、パオロ・シアーニ(ドラムス)の名前の頭文字からなる、1968年に結成したPLEP(プレップ)というビートグループに遡る。彼らは高校生であり、学校や地元の楽器のレンタル店で演奏しはじめ、数か月後の1969年にキーボード奏者のジョルジョ・ウザイが加入。グループ名をJ・PLEPとしている。彼らはザ・ビートルズやヤードバーズ、クリームをはじめとするイギリスのロックグループの楽曲を中心にアレンジして演奏し、Little Feudoという自主運営のクラブでデビューを果たしている。後に演奏するたびにジェノヴァの様々なクラブや会場から依頼を受けるようになり、会場を満員とする彼らの活躍を音楽業界も注目。後に彼らはジェノヴァを離れ、ローマを拠点とする興行主からサンレモやディアノ・マリーナといったリゾート地を中心としたツアーを行っている。彼らはその合間にオリジナル曲を作り、クラシック音楽のヒントを取り入れた最初の本格的なアレンジ曲を作成している。そしてイタリアの偉大な作曲家であるジャン・ピエロ・リベルベリがJ・PLEPのプロデューサーを引き受け、1969年に『La scala/L'anima del mondo』のシングルをイタリアのレーベルのCarouselからリリースする。彼らは国営RAIラジオ番組に出演するなど人気を高めていたが、プロデューサーであるリベルベリは、そのレコード会社は我々の可能性に適していないと判断し、アリストンレコード会社と契約。この時にパオロ・マルティネッリとルチアーノ・ビアサートが脱退し、代わりにマルコ・ゾッケドゥとクラウディオ・ギリーノが加入したことで、グループ名をヌオーヴァ・イデアと変えている。PLEPは洗剤の名前と混同しがちなことを懸念したプロデューサーであるリベルベリが与えた名前である。

 彼らは新たなメンバーとシングル『Pitea, Un Uomo Contro L'Infinito』を録音。それと同時期にループスレコードより、ザ・アンダーグランドセット名義でアルバム2枚、サイケグラウンド名義でアルバム1枚リリースしている。これはプロデューサーであるジャン・ピエロ・リベルベリが仕掛けたもので、アリストンレコード会社との契約上の理由から違うグループ名とニックネームで表記されたメンバーの名前になっている。このアルバムは英国をはじめとするヨーロッパ諸国にリリースすることが目的であり、当初は英国のミュージシャンが演奏していると勘違いされていたらしく、ヌオーヴァ・イデアのメンバーが演奏していたと分かったのは数年後だったという。1971年にヴィアレッジョ・ポップ・フェスティバルに参加し、シェイクスピアの『マクベス』のポップバージョンである『カム、カム、カム』を披露。このパフォーマンスが成功したことにより、アリストンレコードからヌオーヴァ・イデアとしてミラノのフォークロックグループであるストーミー・シックスとのカップリングミニアルバム『Al Festival Pop Viareggio 1971』をリリース。また、以前から作成していた楽曲を集めたデビューアルバムである『イン・ザ・ビギニング』を1971年にリリースすることになる。そのアルバムはサイケデリックなオルガンを中心としたヘヴィなサウンドが特徴となっており、オザンナに似た民族性やジャズのエッセンスを散りばめた作品となっている。その後、ギタリストのマルコ・ゾッケドゥがバンドを脱退し、彼の代わりにアントネッロ・ガベッリが加入する。新たなメンバーでレコーディングし、セカンドアルバム『Mr. E. Jones』を1972年にリリース。このアルバムは1人の会社員の1日の生活をテーマにしたコンセプトアルバムとなっており、演奏や構成力が格段にアップし、前作のヘヴィ色を残しつつも、キーボードが活躍するスリリングな楽曲となっている。しかし、またもやリリース直後にギタリストのアントネッロ・ガベッリが脱退してしまい、イル・パッコというグループに所属していたギタリスト兼ヴォーカリストのリッキー・ベッローニが加入する。彼を迎えたレコーディングでは、セッションプレイヤーでタムタムやコンガといったパーカッショニストであるフラビアーノ・クファリをゲストに迎え、プロデューサーは前作に引き続きジャン・ピエロ・リベルベリが務め、サードアルバム『道化師』が1973年にリリースすることになる。そのアルバムはジョルジョ・ウザイの多彩なキーボードとツインギターを効果的に活用した、彼らにとって最も構築性に富んだプログレッシヴ色の強い作品になっている。

★曲目★
01.Clessidra(水時計)
02.Un'Isola(島)
03.Il Giardino Dei Sogni(夢の庭)
04.Clown(道化師)
05.Una Vita Nuova(新しい人生)

 アルバムの1曲目の『水時計』は、不協和音のホルンが鳴り始め、その後にビートの効いたオルガンと明朗なギターによって突き進む楽曲。2分過ぎから曲調が変化し、オルガンとコーラスを絡めたシンフォニックな展開となる。メロディックなキーボードと畳かけるドラミングによる緩急を極めた素晴らしい内容になっている。2曲目の『島』は一転して控えめなヴォーカルとギターから始まり、ハモンドオルガンの響きを皮切りにオルガンとギターによる静と動を表現した楽曲。情熱的なヴォーカルやムーグシンセサイザーが飛び交い、ヘヴィなハードロックサウンドに変わっていく。後半には美しいオルガンソロによる哀愁のテーマや最後に最初のイントロがよみがえるなど、意外とドラマチックな展開に驚いてしまう。3曲目の『夢の庭』は、美しいギターのリフとしわがれた声色を含んだシアトリカルなヴォーカルが特徴的な楽曲。ギターとオルガンによるメロウなセクションとよりパワフルなセクションのコントラストによる抒情的な展開が聴き手の高揚感をあおる。4曲目の『道化師』は、10分を越える大曲となっており、物語にそって鮮やかに場面展開するアルバムの中でも最もプログレッシヴな楽曲。とにかく多彩なキーボードによるフレーズと曲調が巡るめく変わり、パワフルなヴォーカルと共に突き進んでいく。ツインヴォーカルで対話を行い、少年少女によるコーラスで応えるというスタイルになっており、オルガンによる古典的なクラシックやピアノによるジャズ、ストリングスによるシンフォニックといったジョルジョのキーボードが冴えわたった1曲になっている。5曲目の『新しい人生』は、美しい2本のアコースティックギターによる牧歌的なヴォーカル曲。リズムが加わり、次第にピアノ旋律に合わせて重厚なシンフォニックになり、豊かなサウンドになっていきながら最後は1曲目のイントロと同じホルンによって幕を閉じている。こうしてアルバムを通して聴いてみると、インパクトは欠けるもののキーボードを主体にジャンルをモノともしない鮮やかな曲展開に長けた内容になっている。サイケデリックな要素は可能な限り排除し、テクニカルでありながら当時のイタリアンプログレの中でも非常に聴きやすい楽曲になっているのが好感が持てる。

 アルバムリリース後、今度はドラマーのパオロ・シアーニが脱退。後任にはゲストで『道化師』のアルバムに参加したフラビアーノ・クファリが正式に加入している。しかし、グループの今後の音楽の方向性についてメンバー間で対立することが多くなり、1974年にヌオーヴァ・イデアは解散することになる。ギタリストのリッキー・ベッローニは脱退したパオロ・シアーニと新たなグループであるトラックを結成。アルバム1枚をリリースした後、リッキー・ベッローニはニュー・トロルスに加入し、一方のパオロ・シアーニはエキップ '84を経てオパス・アヴァントラに加入している。キーボード奏者のジョルジョ・ウザイはトリトンズというグループを経て、1978年にニュー・トロルスのメンバーとなっている。ベーシストのエンリコ・カザーニは1976年にソロアルバムをリリースしており、ギタリストのクラウディオ・ギリーノと共に名セッションミュージシャンとして活躍することになる。それぞれ自分の音楽の道を進み、30年以上経った2010年頃にジェノヴァのガスリーニ小児科病院に寄付する目的で、パオロ・シアーニが中心となって多くのミュージシャンやかつてのヌオーヴァ・イデアのメンバーに声をかけ、マルコ・ゾッケドゥ、ジョルジオ・ウサイ、リッキー・ベッローニが集結。パオロ・シアーニ&フレンドfeat.という名義でアルバム『キャッスルズ、ウィングス、ストーリーズ&ドリームス』をリリースしている。これがきっかけで、ヌオーヴァ・イデアのメンバーとライヴ活動を行うことになり、2016年にパオロ・シアーニ ft. Nuova  Idea名義でアルバム『Faces with no Traces』をリリースしている。2019年には『レプラコーンの黄金の壺』という最新アルバムを発表しており、このアルバムには7曲の新曲に加えて、ヌオーヴァ・イデアが1971年にマリオ・ルッツァート・フェギスとパオロ・ジャッチョが司会を務めた番組「フォー・ユー・ヤング」の一環とするラジオ・ナツィオナーレの生放送中にRAIスタジオで行われたライヴ録音も収録されているという。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はイタリアンロックの草創期から活動を開始し、ニュー・トロルスやオパス・アヴァントラといったグループへミュージシャンを輩出したプログレッシヴロックグループ、ヌオーヴァ・イデアのサードアルバム『道化師』を紹介しました。ヌオーヴァ・イデアは2007年に紙ジャケでリイシューされたBMGイタリアンロックコレクションでまともに聴いたグループですが、イタリアンプログレの中でもカルト的な人気を誇っていたグループでもあります。レコードは高額で取引されていたことは言うまでもありませんが、1992年にメロウレコードからCD化されていたらしく、私は見たこともありませんでした。彼らのデビューアルバムは呪術的なヴォーカルもあってオザンナに似たヘヴィなオルガンハードロックといった感じですが、本アルバムではキーボードを前面に出したテクニカルなプログレッシヴロックに変わっていて彼らの最高傑作とされています。また、イラストレーターのジャンニ・ザニーニの手による王とピエロがにらみ合うコミカルなジャケットデザインも人気に拍車をかけているとのことです。本アルバムでグループは解散してしまいますが、解散の大きな理由は「アルバムで全てやりきってしまった」とのことで、この後の音楽の方向性でメンバーと揉めてしまったというのが原因らしいです。

 さて、そんな彼らのパフォーマンスが集約された本作品は、ビートロックからハードロックを経た多くの黎明期のイタリアンプログレグループと同じように、シンフォニック色を纏った構築性に富んだエネルギッシュなアルバムになっています。何よりもジョルジョ・ウザイのハモンドオルガンやムーヴシンセサイザー、メロトロン、ピアノといった多彩なキーボードとリッキー・ベッローニとクラウディオ・ギリーノによるツインギターを効果的に活用しており、前作のヘヴィなハードロックを残しつつ、テクニカルな演奏が目立ちます。そのカラフルなキーボードに情熱的なヴォーカルや美しいコーラスワークもあり、抒情的な場面から一気に畳み掛けるスリリングな曲展開は、まさしくイタリアンロックらしいです。1曲目はヘヴィなハードロック、そしてシアトリカルな展開、ジャズ要素、最後はシンフォニックな流れという、多彩なジャンルを組み込み、しっかりとした筋道の通った構成力の高い内容になっていて、確かに彼らの「やりきってしまった」という言葉も何となく頷いてしまいます。取り立てて欠点が無いぶん、インパクトは欠けますが、最後まで一気に聴ける安心感があります。

 本アルバムはグループの最終作にして最も完成度の高い傑作です。ニュー・トロルスやオザンナ好きな方にはぜひ聴いてほしい1枚です。

それではまたっ!
 

Maddy Prior/Changing Winds
マディ・プライア/チェンジング・ウィンズ
1978年リリース

牧歌的なトラッドと壮大なシンフォニックの
要素を加味した極上のセカンドソロ

 英国のフォークロックグループであるスティーライ・スパンの歌姫として知られる、マディ・プライアのセカンドソロアルバム。前作はジェスロ・タルが前面バックアップして制作されたものに対して、本作はマンダラバンドのデヴィッド・ロールがプロデュースしており、壮大なストリングスを交えたシンフォニックのフレイヴァーを散りばめた極上のアルバムとなっている。牧歌的なトラッドの要素、キーボードによるプログレッシヴの要素がバランスよく配置され、透明感あふれる美声を持つ彼女の魅力がより顕著になった名盤でもある。

 マディ・プライアの本名はマデレーン・エディス・プライアであり、1947年8月14日にイギリスのランカシャー州にあるブラックプールという街で生まれている。彼女の父であるアラン・プライアはTVの脚本家であり、警察ドラマ『Z-Cars』では腕に吊り革をつけた少年を描いた6部構成のTVシリーズ『Stookie』の脚本を書いている。彼女の作曲や作詞の才能は、脚本家である父の影響が大きい。彼女は10代の頃にハートフォードシャーにあるセント・オールバンズに移り、その地のザ・コック・パブで後にシンガーソングライターとして有名になるドノヴァン・フィリップス・リーチ(ドノヴァン)と、同じく後にフォークやブルースで活躍するマック・マクロードと出会っている。彼女は親しくなったマクロードと「マック&マディ」というデュオを結成し、一年程ヴォーカリストとして活躍。その後はブルースとゴスペルの歌手であるゲイリー・デイヴィスなど、アメリカ人のミュージシャンのローディーになっている。彼女はアメリカのブルースやゴスペルに興味を持ち始めたものの、ローディーを務めたアメリカ人のミュージシャン達から彼女に「英国には素晴らしいフォークソングがある」と教えられ、フォークの道についてアドバイスを受けている。彼女はローディーを辞めて、1966年にはセント・オールバンズ在住のフォークシンガーであるティム・ハートと出会い、デュオとして英国の各フォーククラブを巡業。その合間の1968年と1969年に『Folk Songs Of Old England Vol. 1&2』の2枚のアルバムを録音している。このアルバムは英国の伝統的なフォークソングを中心にまとめられた作品であり、現在でも高く評価されている作品である。1969年にはロンドンのフォーククラブで評判となっていた2人は、フェアポート・コンベンションを脱退したベース奏者であるアシュリー・ハッチングスと出会って意気投合。アシュリー・ハッチングスとティム・ハート、そしてマディ・プライアの3人でフォークグループ、スティーライ・スパンを結成することになる。その後、元スウィーニーズ・メン、ザ・ポーグスに所属していたアイルランド出身のテリー・ウッズと、その妻で歌手であるゲイ・ウッズが加入し、5人編成で活動をスタートさせている。

 スティーライ・スパンのリードヴォーカリストとなった彼女は、メンバーと共に1969年11月初旬に最初のリハーサルを行い、RCAビクターと契約して1970年にデビューアルバム『Hark! The Village Wait』をリリースする。しかし、2人の女性シンガーを加えたラインナップは当時としては異例で、もう1人の歌姫だったゲイ・ウッズが不満を感じたため、夫であるテリー・ウッズと共に脱退している。実際にアルバムのレコーディング中、5人のメンバーは同じ家に住んでいたため、特にハートとプライアー、そしてウッズ夫婦の間にかなりの緊張関係が生まれていたという。2人の代わりにはフォークミュージシャンであるマーティン・カーシーとフィドラーのピーター・ナイトが加入。今度は小規模なコンサート会場を巡り、また、BBCラジオセッションに参加して数多く録音を残している。1971年に3枚目のアルバムをリリースして間もなく、グループはマネージャーのジョー・ラスティグを迎え入れ、よりコマーシャルなサウンドを目指すようになったという。これに反対した伝統主義者のカーシーとハッチングスは純粋なフォークプロジェクトを追求するためにグループを脱退。代わりにエレクトリックギターのボブ・ジョンソンとベース奏者のリック・ケンプが加入し、グループのサウンドにロックとブルースの影響をもたらしている。その後、彼女はリック・ケンプと結婚し、離婚する前に2人の子供をもうけ、娘のローズ・ケンプは後に歌手兼ギタリストとして活躍することになる。スティーライ・スパンは伝統的な楽器から頻繁にエレクトリック楽器を使用したこともあり、パンクの台頭もあって1975年をピークに商業的なヒットが生まれなくなる。1977年頃から4枚目のアルバムから加入したナイジェル・ペグラムとリック・ケンプは別名を使って「ザ・ポーク・デュークス」というグループを結成するなど、グループのメンバーが独自の活動をし始めたのを機にプライアもソロアルバムに着手している。1978年5月にジェスロ・タルのイアン・アンダーソンとディー・パーマーがプロデュースしたデビューソロアルバム『ウーマン・イン・ザ・ウイングス』をリリース。アルバムの全曲はプライアー自身が作曲を行い、イアン・アンダーソン(フルート、バックヴォーカル)やマーティン・バレ(ギター)、アンディ・ロバーツ(ギター)、ジョン・ハルシー(ドラムス)などが参加している。そして同年冬に今度はマンダラバンドのデヴィッド・ロールがプロデューサーを務め、夫であるリック・ケンプがベースとして参加した本セカンドアルバム『チェンジング・ウインズ』がリリースされる。そのアルバムはマンダラバンドの壮大なシンフォニックな要素と牧歌的なトラッドの要素を融合したプログレッシヴな楽曲となっており、何よりも透き通ったプライアのヴォーカルが映えた素晴らしい作品となっている。

★曲目★
01.To Have And To Hold(持つこと、守ること)
02.Pity The Poor Night Porter(貧しき夜間勤務のポーター)
03.Bloomers(ブルーマーズ)
04.Accapella Stella(アカペラ・ステラ)
05.Canals(運河)
06.The Sovereign Prince(皇太子)
07.Ali Baba(アリ・ババ)
08.The Mountain(山)
09.In Fighting(喧嘩)
10.Another Drink(もう一杯)

 アルバムの1曲目の『持つこと、守ること』は、ピアノとアコースティックギターから始まるフォーク調の楽曲。貧しい人々への正義を求める熱烈な嘆願ともとれる歌詞になっており、美しいストリングスもあって、まさにルネッサンスのアニー・ハズラムを彷彿とさせる内容になっている。2曲目の『貧しき夜間勤務のポーター』は電子ドラムやサックスをフィーチャーしたポップな楽曲。レゲエ風のリズムとコーラスが印象的であり、グループのメンバーとそのローディーがライヴ後にホテルに戻ったときの深夜の騒ぎを描いた歌詞になっている。3曲目の『ブルーマーズ』は、ピアノと軽快なドラミング、そしてグロッケンシュピールを活用した楽曲。少し陰のあるプライアのヴォーカルがシアトリカル風に聴こえる。4曲目の『アカペラ・ステラ』は、リック・ケンプが彼女のために書いた楽曲。そのタイトル通り、アカペラのみで構成されており、可愛くも強い女性をイメージさせる歌詞になっている。5曲目の『運河』は1曲目に勝るとも劣らない壮大なシンフォニック曲。改めてプライアの美声が堪能できるだけではなく、後半のストリングスに合わせた泣きのギターソロも素晴らしい。6曲目の『皇太子』は、8分を越える長尺の楽曲となっており、トラディショナルとシンフォニックが融合した荘厳な内容になっている。幻想的なイントロやハープシコードを活かしたクラシカルな色合いなど、弦楽器でふくよかな雄大さを奏でたプログレッシヴな要素が強い。7曲目の『アリ・ババ』は、1950年代を思わせるロカビリー色の強いポップな楽曲。中間には中東を思わせるシンセサイザーが加わっており、朗々たるプライアの歌声が強調された楽しい内容になっている。8曲目の『山』はピアニストのサラ・デコが作曲した楽曲。ピアノを中心に涼やかなストリングスとのアンサンブルが美しく、プライアの綺麗な声の響きでメロディをスマートに表現している。9曲目の『喧嘩』は、飛び散る食器などを含めた「家庭内」を皮肉たっぷりに描いた楽曲。トラディショナル風味だが、男女のコーラスを加えたことでポップな作りに変えている。10曲目の『もう一杯』はまるでバーのカウンターの傍で歌っているようなジャズテイストの強い楽曲。彼女の少し悪戯っぽい艶やかな歌声が妙に心地よい。こうしてアルバムを通して聴いてみると、アレンジ的には英国のトラッド色を散りばめているが、そこに軽やかなポップ性を取り入れたプライアとストリングスによるシンフォニック性を大胆に導入したデヴィッド・ロールの思惑がマッチした奇跡的な作品と言える。また、シンセサイザーや電子ドラムを使用する一方、ストリングスでふくよかな雄大さを表現するなど、英国音楽の新しさや古さにこだわらず、プライアの朗々さや可愛らしさ、艶やかさのある歌声が遺憾なく発揮されたアルバムだと思える。

 アルバムをリリースした頃、彼女はスティーライ・スパンの活動も並行して行っており、再度メンバーが集まって1980年にアルバム『Sails of Silver』をリリースしている。しかし、そのアルバムは伝統的な素材から離れ、レコード会社であるクリサリスが積極的にアルバムを宣伝しなかったこともあり商業的に失敗。それに不満を抱いたティム・ハートはグループを脱退することを決意し、後に彼は音楽業界から離れ、カナリア諸島で隠遁生活を送るようになる。スティーライ・スパンはその後、数年の間、新しいアルバムはリリースされず、他のメンバーは他のさまざまなプロジェクトに多くの時間とエネルギーを費やすことになる。1986年からスティーライ・スパンはフラッターバイレコードに移籍して定期的にアルバムをリリースしていくが、プライアはソロアルバムやセッションワーク、他のアーティストとのコラボレーション作品をリリースすることが多くなる。そんな中、彼女は1997年にスティーライ・スパンを一時脱退を表明したが、5年後の2002年に復帰している。プライアは2003年以来、カンブリアでストーンズ・バーンというアートセンターを運営し、アビー・ラセや娘のローズ・ケンプなどの歌手やパフォーマー仲間と協力しつつ、プライアー自身は歌や瞑想、料理、パフォーマンスに焦点を当てた宿泊コースを提供している。2007年5月にカーニバルグループの「Music for Tavern and Chapel」ツアーに同行し、チャールズ・ウェスレーの生誕300周年を祝い、同年の8月にカンブリアのソルフェスト・フェスティバルにレベラーズと共にゲスト出演している。その後もソロアルバムやスティーライ・スパンのアルバムと並行してレコーディングに参加し、最近では2019年にスティーライ・スパンのアルバム『Dodgy Bastards』をはじめ、2012年に自身のセッションワークであるハンナ・ジェームズ、ジャイルズ・ルーウィンと共に録音した『ショートウィンガー』がリリースされている。現在77歳のプライアは、毎年11月と12月にカーニバルグループとキャロル、そして季節の音楽を演奏する短いツアーが、恒例の行事となっているという。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はスティーライ・スパンの歌姫として、またはシンガーソングライターとしても有名なマディ・プライアのセカンドアルバム『チェンジング・ウィンズ』を紹介しました。フォーク/トラッド系はフェアポート・コンベンションやペンタングル、メロウ・キャンドル、ダルシマー、スパイロジャイラなどを聴いてきましたが、クラシックやジャズをベースにしたプログレを聴いてきた私にとって、また違う世界だな~と近年まであまり関心を持てませんでした。でも、その中でもスティーライ・スパンはフィドルを活用した硬派な中世音楽となった『Please to See the King』は好みであり、何よりもマディ・プライアのやわらかな歌声が素晴らしく感じたものでした。それでもスティーライ・スパンというグループの中で歌うプライアのヴォーカルはどこか抑えぎみでしたが、ソロアルバムで彼女の歌声が映えることになります。最初のソロアルバムはイアン・アンダーソンをはじめ、レーベルメイトだったジェスロ・タルのメンバーがバックアップし、抒情性の高いアレンジと彼女の乙女チックな歌詞も相まったなかなか味わい深い作品になっています。そして本アルバムは同じくクリサリスレコードのレーベルメイトだったマンダラバンドのデヴィッド・ロールがプロデューサーを務め、彼の手腕によるシンフォニック要素が散りばめられたアルバムとなっています。このシンフォニックの要素と牧歌的なトラッド要素の中で歌うマディ・プライアの歌声はとてもマッチしていて、ルネッサンスのアニー・ハズラムを彷彿とさせる美しい歌声と楽曲になっています。これはもう、シンフォニックプログレの域に達しているのではないかと思えるぐらい聴き応えがあります。

 さて、アルバムですが、前作同様にマディ・プライアがほとんど作詞作曲を行っており、ジャズやロックの色合いもある彼女の多才ぶりが発揮された内容になっています。ゲストのスタジオミュージシャンには、ジョン・オコナー(ギター)、BJコール(ペダルスチールギター)、マルコム・ピート(ペダルスチールギター)、ダグ・モーター(リードギター)、グリン・トーマス(電子ドラム)、デビッド・ハッセル(パーカッション)、ジョン・リングウッド(ドラムス)、リッチー・クローズ(キーボード、ピアノ)、クリス・ステイントン(ピアノ)、サラ・デコ(ピアノ、バックヴォーカル)、ケビン・サヴィガー(シンセサイザー、ハープシコード)、バーバラ・ディクソン(バックヴォーカル)といったベテランぞろいとなっており、何よりも夫であるリック・ケンプがベーシストとして参加しているのが大きいです。とにかく全体的に程よいポップさとシンフォニックさがあり、ラテン音楽やアカペラなど多彩な楽曲があり、英国人らしいプライアの少し陰のある艶やかな歌声が堪能できます。個人的に4曲目の夫のリック・ケンプが彼女のために書いた『アカペラ・ステラ』は、そのタイトル通りアカペラで歌ったもので、プライアの明朗な歌声に聴き惚れます。また、貧しい人々への正義を求める熱烈な嘆願でもある『持つこと、守ること』やライブ後にホテルに戻ったときの深夜の騒ぎを歌った『貧しき夜間勤務のポーター』など、歌詞も乙女チックだった前作よりも周囲の現実的な出来事や強い女性像を描くようになっています。しかもユーモアがたっぷりです。この辺りが彼女がヴォーカリストだけではなく、ソングライターとして愛される所以があるように思えます。

 本アルバムは多くのコラボレーション作品を残した彼女のアルバムの中でも最もシンフォニック色の強い内容になっています。マンダラバンドのデヴィッド・ロールをプロデューサーに迎えたことで、さらに彼女の歌声が映えた奇跡的な作品をぜひ堪能してほしいです。

それではまたっ!
 

Etna/Etna
エトナ/エトナ
1975年リリース

インタープレイで埋め尽くされた
スリリングなジャズロックの名盤

 後にゴブリンに参加するアゴスティーノ・マランゴーロ(ドラムス)が在籍していた、イタリアのジャズロックグループのエトナの唯一作。そのアルバムは非常に作りこまれた緻密な楽曲と、全編息をつく暇もないインタープレイで埋め尽くされたスリリングな展開は、アルティ・エ・メスティエリと互角に渡り合う硬質系のイタリアンジャズロックの傑作とされている。当時のフュージョングループが持っていた超絶技巧のスタイルとは対照的に、アンサンブルから生まれるメロディを強調した完成度の高いアルバムとして未だに人気が高い。

 エトナは元々、1970年にイタリアのシチリア島で結成されたFlea on the Honey(フレア・オン・ザ・ハニー)というグループ名から始まっている。メンバーは兄弟であるアゴスティーノ・マランゴロ(ドラムス)とアントニオ・マランゴロ(キーボード)、彼らの従兄弟であるカルロ・ペニーシ(ギター)、エリオ・ヴォルピーニ(ベース、サックス)の4人であり、当初は英国に影響を受けたハードロックに近い演奏をしていたという。1971年にローマを拠点に活動し始めた際、作曲兼プロデューサーのシオジー・カプアーノに見出され、RCAの子会社であるデルタ・イタリアーノと契約。デビューアルバム『フレア・オン・ザ・ハニー』をリリースしている。このアルバムではシオジー・カプアーノやハロルド・ストットなどが作曲した楽曲の演奏と英語歌詞となっており、4人のメンバーはそれぞれトニー、チャーリー、ナイジェル、ダスティンという英語圏のニックネームがクレジットされていたという。レーベルはおそらく彼らを、成功を求めてイタリアにやってくる多くの英国のグループの1つとして宣伝したかったのだろう。しかし、アルバム自体は英国によくあるハードロックを模したもので、商業的には成功しなかったという。翌年の1972年にはシオジー・カプアーノから離れ、ローマのヴィラ・パンフィーリ・フェスティバルなどを経て、グループ名をFlea(フレア)と短縮して活動。今度はフォニット・チェトラと契約し、事実上彼らのセカンドアルバムにあたる『Topi o Uomini』をリリースする。そのアルバムはレコードでいうA面すべてを利用した18分を越える組曲を収録しており、全編イタリア語で歌われたという。前作よりも成熟したプログレッシヴロックとなり、イタリア国内でも一定の人気を得ていた彼らだったが、急遽ベーシストのエリオ・ヴォルピーニが脱退。彼は兄のエンツォ・ヴォルピーニが結成したL’Uovo di Colombo(ルオヴォ・ディ・コロムボ)というグループに参加することになる。彼の代わりには後にゴブリンを結成するクラウディオ・シモネッティ(キーボード)と共に演奏していたファビオ・ピニャテッリがベーシストとして加入。しかし、わずか数か月後に英国でのレコーディング&移住が決まったシモネッティからの要請でピニャテッリはグループを後にすることになる。ピニャテッリはシモネッティと共にチェリー・ファイヴを経てゴブリンのメンバーとなる。残ったメンバーは代わりのベーシストを探したが、ピニャテッリ以上のミュージシャンを見つけることは叶わず、1972年末にFlea(フレア)は解散することになる。

 解散後のメンバーはセッションミュージシャンなどで糊口をしのいでいたが、1973年に解散したルオヴォ・ディ・コロムボに所属していたベーシストのエリオ・ヴォルピーニが帰還。エリオが戻ったことで再度マランゴロ兄弟とカルロ・ペニーシのオリジナル4人のメンバーとなっている。彼らは3年近く時間をかけて楽曲制作に力を入れ、これまでのハードロック調のスタイルから脱却して、ジャズにインスピレーションを得たインストゥルメンタル作品を目指そうと考えたという。彼らはこの機にグループ名を故郷のシチリアの活火山であるエトナとし、今度はイタリアの独立系レーベルであるCatoca(カトカ)と契約している。レコーディングはプロデューサーにデビューアルバムにも関わったシオジー・カプアーノとマリオ・カプアーノが務め、ママ・ドッグ・スタジオで録音。こうして1975年に彼らにとって3枚目のアルバムにあたる『エトナ』がリリースされることになる。そのアルバムはハードロック、プログレッシヴロックを経た彼らカルテットが生み出した高水準のジャズロック・フュージョンとなっており、静かなピアノ、静かなオルガン、速いギター、そして緻密なリズムセクションが音楽に溶け込んだイタリアンジャズロックの傑作となっている。
 
★曲目★
01.Beneath The Geyser(間欠泉の下で)
02.South East Wind(南東の風)
03.Across The Indian Ocean(インド洋を超えて)
04.French Picadores(フランスの闘牛士)
05.Golden Idol(ゴールデン・アイドル)
06.Sentimental Lewdness(感傷的な猥褻)
07.Barbarian Serenade(未開人のセレナーデ)

 アルバム1曲目の『間欠泉の下で』は、エレクトリックピアノのソロから始まり、他のパートはまるで強力な間欠泉や火山から湧き出るかのように、アップテンポながらメロディックな力強さのある楽曲。リズムセクションが素晴らしく、リターン・トゥ・フォーエヴァーを彷彿とさせる高速のパターンが見え隠れする逸品である。2曲目の『南東の風』は、宇宙的で混沌としたイントロの後、ゆったりとした中で要求の厳しいリズムのとり方をした楽曲。ギターが鳴り始めると素晴らしいドラムの演奏となり、後半の高速の展開はスリリングであり、彼らの技巧的な演奏を堪能することができる。3曲目の『インド洋を越えて』は、まるでジャングルを楽器で表現したイントロから始まり、グルーヴ性が高く非常に大胆で活気のあるひねりと曲がりがあるアンサンブルとなった楽曲。ベースがハーモニクスを奏でた後にメロディックなリフで道を開き、ギターはアラン・ホールズワースを彷彿とさせる。メンバー全員が一切手を抜くことなく緊張感とメロディの要素を常に維持したインタープレイ満載の内容になっている。4曲目の『フランスの闘牛士』は、アコースティックギターをメインに持ち替え、ジャズロックの概念を覆したメロディアスな楽曲。指で弾くアコースティックギターに、煌びやかなエレクトリックピアノやクラリネットのメロディがゆっくりと響き、まるで夢の世界にいるような心地よさを与えてくれる。5曲目の『ゴールデン・アイドル』は、ギターのコードリフによる穏やかなメロディから始まり、タイトなリズムとアントニオ・マランゴロの豊かなキーボードの音色が織り成した楽曲。中盤のカルロ・ペニーシの実験的で即興的なギターが素晴らしい。6曲目の『感傷的な猥褻』は、アゴスティーニ・マランゴロのドラムソロから始まり、フレア時代のギターサウンドが目立つものの、ピアノの高揚感あふれる演奏で、うなる音が抑えられているのが好印象である。対照的なダイナミクスを持つ異なるモチーフの間をシームレスに移行するところが興味深い。7曲目の『未開人のセレナーデ』は、ピアノやコントラバス、繊細なドラムス、そしてマンドリンがラテン&地中海のメロディを奏でた楽曲。美しいピアノとマンドリンが融合し、ジャズロックを感情的に訴える形で表現しようとする試みが集約されている。こうしてアルバムを通して聴いてみると、ギターの即興演奏とバランスのとれたキーボードによる美しいフュージョン音楽だが、技巧的な演奏で畳みかけるのではなく、変化のある演奏と馴染みやすいメロディを際立たせた内容になっている。どの楽器のパートも抑制的でありながらリードする力強さがあり、聴くほどに高揚感が込み上げてくる素晴らしいアルバムだと思える。

 本アルバムはフリオ・キリコ率いるジャズロックグループ、アルティ・エ・メスティエリの成功もあって、彼らの完成度の高いメロディックなジャズロックはイタリア国内でも高く評価される。しかし、その評価とは裏腹にレーベルが弱小だったこともあり、商業的には芳しくなく終わっている。アルバムリリース後、ドラマーのアゴスティーノ・マランゴロは脱退したゴブリンのドラマーのウォルター・マルティーノの代わりに加入することが決まったことで、同年に解散している。解散後、アゴスティーノ・マランゴロはゴブリンを経て、ピノ・ダニエーレのレコーディングに協力しており、彼のツアーにも参加。カルロ・ペニーシはジャズロックグループのメディテラネオに加入。その後はアゴスティーノ・マランゴロと組んで、1981年にニューペリジオ、1983年にケイデンスというグループを結成してアルバムをリリースしている。アントニオ・マランゴロは1976年からサックス奏者として活動し、リタ・パヴォーネやセルジオ・カプート、イヴァーノ・フォッサッティ、アントネッロ・ヴェンディッティなどの著名なミュージシャンとのコラボレーションをしている。1983年 にはジョルジョ・ボンテンピ監督の映画『ノットゥルノ』の音楽を作曲したほか、近年の2014年2月には故郷シチリアを舞台にした小説「鏡の共犯者」を執筆するなど多才ぶりを発揮している。エリオ・ヴォルピーニは主にセッションミュージシャンとして活動していたが、2017年にフレアとエトナの音楽に特化したフレア・オン・ジ・エトナというグループを結成し、ギタリストとして現在でも活躍しているという。本アルバムのオリジナルレコードは長らく廃盤となり入手困難な状態が続いていたが、1994年にメロウレコードより初CD化が叶い、日本では2010年にベル・アンティークからCDリマスター化を果たしている。

 

 皆さんこんにちはそしてこんばんわです。今回はハードロック、プログレッシヴロックを経て高水準のジャズロックにたどり着いたイタリアのグループ、エトナの唯一作を紹介しました。彼らは事実上メンバーを変えていないにも関わらず、フレア・オン・ザ・ハニー、フレア、エトナとグループ名を変えて、なおかつレコードレーベルまで全て変えているという、なかなか面白い変遷と経歴を持ったグループです。最初のデビューアルバムは英国のハードロックの影響を受けた演奏をしていましたが、英語歌詞だったためかイタリア国内ではあまり根付かず、今度はフレアとしてリリースしたアルバムは品質が大幅に向上し、プログレッシヴロックの領域に移行しています。プログレファンからしたら、18分を越える組曲が収録されたフレアのアルバム『トピ・オ・ウォミニ』のほうを推す人もいます。そしてエトナとなってリリースした本アルバムはスタイルが完全に変わり、全編インストゥメンタルのジャズロックとなっています。このスタイルの移行に関しては当時、ジャズロックを牽引していたマハヴィシュヌ・オーケストラやリターン・トゥ・フォーエヴァーの台頭もありますが、やはり同じイタリアのアルティ・エ・メスティエリの存在が大きかったのだろうと思います。また、一時的にエリオ・ヴォルピーニが在籍したルオヴォ・ディ・コロムボのジャズとクラシックの優位性やメロディやハーモニーの対位法を持ち帰ったところも影響していると考えられます。結果として3年近くかけて作られた楽曲は、ギターとエレクトリックピアノを前面に出した緻密ながらも力強いジャズフュージョンとなり、後に1970年代のイタリアンジャズロックの傑作といわれるようになります。

 さて、本アルバムは多くの点で他の1970年代の定番ジャズロックに似ていて比較されがちですが、聴き続けると彼らが生み出すアンサンブルの深みと個性が明らかになります。ドラムとベースによる素晴らしい相互作用やロックとジャズの雰囲気を漂わせる激しいエレクトリックギターがあり、テクニカルになりがちなジャズロックというベース上で、アコースティックピアノやエレクトリックピアノ、クラリネット、さらにはマンドリンによって暖かみのあるサウンドをもたらしています。そこにはメロディックというよりも緻密な計算が働いているようであり、サウンドが予測可能なパターンや繰り返しに陥らないように、物事を面白く保とうと意識的に試みているようです。メンバー全員の熟練度の高い演奏は聴き応えがあり、特にアントニオ・マランゴロのキーボードの素晴らしいスキルと、コードプレイによって空間を美しく満たしているところにアルバムの価値を高めている感じがします。また、4曲目の『フランスの闘牛士』では指で弾くアコースティックギターにクラリネットのメロディがゆっくりと夢のようにかすかに響くところが、シンプルながらも巧みな演奏に好感が持てます。

 本アルバムは巧妙な複雑さと同時に、メロディックな感性を表現した完成度の高い作品です。知名度は低いですが、個人的に間違いなくイタリアから出たジャズロックアルバムの中で最高の1枚であり、もっと評価されても良いのにな~と今でも思っています。

それではまたっ!