まだ中心地気分なのか? | メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

副題 : もう遠距離の異動は無いだろう

今回のオリンピックの開会式は、なかなかの物だったらしく、賛否両論なのだそうな。

まあギロチンで切られた自分の首を持つ、マリー・アントワネットのパフォーマンスが、オリンピックの開会式に相応しい物だとは、到底私には思えませんし、いわゆる進歩系が好みそうなパフォーマンスについても、オリンピックに相応しいとは私には思えませんが、浮ついた人達には好評なんだろう。





「花の都パリ」という言葉は、今でも使われる言葉ですが、パリに対する信仰のような特別感は、今では失われてしまったように思う。

「おフランス帰りのイヤミざんす」とは、おそ松くんのイヤミの言葉ですが、「フランス=高尚な文化」というイメージが有ったからこそ、そして「フランス帰り=文化人」といったイメージが有ったからこそ、このギャグはギャグとして受け入れられたのであって、これが他の国であったら、高尚な文化をイメージさせるような事は無かっただろう。

海外旅行が一般的ではなかった時代、海外に行ける事自体が、金持ちの代名詞であったのは、その頃を生きた私からすれば、ごく当たり前の記憶ですけど、そのような記憶の中にある「パリ」とは、まさしく「花の都」という言葉がピッタリであったし、私の姉がヨーロッパ旅行に行くと聞いた時には、「背伸びの贅沢しやがって」と正直思ったぐらいなのだ。





さてフランスが文化の中心、そしてパリが文化の中心だった時代とは、第一次世界大戦の前までだったのではないか?

ヨーロッパの上流階級の共通言語が、当たり前のようにフランス語だった時代、そしてヨーロッパの上流階級が、その財力を活かしてパトロンとして機能していた時代というのが、フランスが文化の中心だった時代だと私は思ってますが、第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国の上流階級を支えてきた土台が完全に揺らぎ、その後の第二次世界大戦や、第二次世界大戦終了後の各植民地の独立といった事を経て、フランスは文化の中心から滑り落ちていったように思う。

「金の切れ目が縁の切れ目」ではありませんが、経済の中心がアメリカに移った時点で、ヨーロッパ諸国は文化の発信地では無くなっていったと思いますが、それが急激に移る事は無く、文化の発信地だったという名残りは残る。

そのような名残りが、日本において「花の都パリ」という言葉を生き残らさせた証だと思いますが、平成が終わり、令和の時代となった今となっては、そのような名残りも非常に薄れてきている。





今回のオリンピック開会式を見て感じたのは、フランスには新しい売りが無いのだなという事。

確かにフランス革命は、世界史における一大トピックであり、その後のヨーロッパ社会に大きな爪痕を残しましたし、ムーラン・ルージュとフレンチ・カンカンも、一時代を代表する文化ではありましたが、それに置き換わるものとして、LGBTや反人種差別しか出せなかったというのは、今のフランスに、新しい売りが無いという証拠だろう。

フランス人からすれば、「開かれた人権国家」を売りにしたいのかも知れませんし、それに憧れる人もいるのでしょうが、これを「文化の発信」として見て良いのか?と問われたら、それは違うと私は感じてしまうし、逆に「他に売りにする物が無かったのだな」と私は感じてしまう。





今のヨーロッパ諸国を見てると、地に足のついた活動より、浮ついた理念に基づく活動を優先しているように思う。

それは倒産間際の会社の経営者が、考えなしに何にでも飛びつくのに似ていて、ジリ貧を恐れてドカ貧を招くような事を、今のヨーロッパ諸国はしているように感じる。

国民の失業率が高いというのに、移民で労働力を確保しようとしたり、難民の生活を保障する為に、国民の負担を増やすといった事をしている限り、国としての豊かさは失われていくのであって、豊かさが失われた証拠として、過去の栄光にしがみつくような発信があるのではないか?




今回のパリオリンピックの開会式を見て、今のフランスは反面教師としての価値はあるけど、未来を指し示す教師としての価値は無いなあと思った。