変な言葉だよなあ | メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

副題 : もう遠距離の異動は無いだろう

こないだ「野党を育てる」みたいな言葉を耳にしたのですが、よくよく考えると変な言葉だと思った。

どこかのコメンテーターが、「政治に参加して野党を育てる」みたいな事を言っていたのですが、野党を育てる為に、政治に参加するというは変な話である。





そもそも論として、「政治に参加する」というのは、行政も含めた「政治」に興味を持つ事であろう。

その度合いは人それぞれだし、どこに興味を持つのかも人それぞれですが、私個人の場合で言えば、「政治と金」なんて事に興味が持てないし、清廉潔白な無能より、金に汚い有能の方が望ましい訳で、これは政治家だけに限らず、官僚についても同じ事。

どのような政策を打ち出し、それがどのように実行され、その結果として国民が豊かになったり、生活しやすくなったりというのが、私が政治に対して興味を持つ部分である。





さて、なぜ私が「野党を育てる」という言葉に疑問を感じるのかと言えば、与党を目指さない「野党」を育てたところで、意味を持たないと感じているから。

与党となる事で、自分達の考えてきた政策を打ち出す事が出来るし、その政策を実行する事によって、結果として国民が豊かになったり、生活しやすくなったりすると考えていますから、「野党の為の野党」を育てる意味は無いと思う。

「野党の為の野党」とは、「批判する為だけの野党」という事ですけど、「野党を育てる」と発言する人達を見るにつけ、どうも「批判する為だけの野党」を育てたいだけのように見えてしまう。





そのような人達に応援されてる「野党」を見ると、そのような応援に応える為か、必死になって「批判する為だけの野党」に終止しているように見える。

「政権をよこせ!」と、トンチンカンな主張をしてみたりしますが、政権を担う為の政策を訴える事はせず、官僚批判する事しかしないで、官僚と親密な関係を築こうともせず、労働者や弱者の側に立つ事だけしか考えずに、経営者や強者の側について考える事もしない。

「一億総中流」と言われてから相当経ちますが、未だに「一億総貧乏」「一億総弱者」だった頃にウケたネタを使いまわし、そのネタに合う事例だけを引っ張り出して主張ずる限り、大多数を占める中流な人達からの支持は得られない。

これは旧社会党の盛衰を見れば明らかであって、「一億総貧乏」「一億総弱者」だった頃の隆盛を忘れられぬまま、時代や社会の変化についていく事が出来ず衰えていき、村山富市の時代に自社連立政権を組んだ事で、数少ない支持者からの支持も失った。

今の社民党は、僅かな支持者を失う事を恐れて、支持者の声のみに忖度する政党に成り下がりましたが、これは古くかはの支持者の復古主義だけしか聞こうとしない、守旧的な考え方が生み出した状況だと言える。





ほとんどの野党を見てると、古くからの復古主義に縛られているか、表向きの表現だけ変えた復古主義かの、どちらかにしかにしか見えない。

前者の代表が立民・共産・社民だとすれば、れいわ・参政が後者の代表のように見える訳で、大勢を占める中流や中間層の抱える問題の解決より、新しく現れた「弱者」にばかり目を向けて、そこからの支持を得ようとしてばかり。

そして新しく現れた「弱者」には目を向けるが、こないだまで自分達が騒いでいたはずの古い「弱者」については、お役御免と言わんばかりに忘れてしまうから、ほとんどの野党の中に政治の継続性なんて存在しない。





このように考えてみると、「野党を育てる」なんて事より先に、「野党自身が育とうとする」ことの方が、よっぽど大事であろう。

これは目に見える政策しかり、与党に対する現実的な対案しかり、中流や中間層の選挙民が、「野党を応援しても良いかも?」と思わせるような行動を、野党自身が行なう事が重要であって、野党が「批判する為だけの野党」である事を望む限り、野党が育つはずがないのだ。





なぜ民主党政権が生まれたのか、その時の国民が持っていた期待感の要因とは何かを、野党自身が検証して行動しない限り、「野党を育てる」ために一票を投じる選挙民は増えないだろう。