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ムーブメントコーチ ロボラガーのブログ

ムーブメントコーチ(重心移動のスキルを指導)として、高校生や大学生中心にトレーニング指導をしております。現場での試行錯誤を書きたいと思います!

School of movement 認定 マスターコーチ

大学卒業間際に、卒業旅行なるものに行った。ラグビー部の仲間が何人かオーストラリアに行くというのだが、私は、こんな機会はなかなかないと思い、ひとりで行くことにした。それまで飛行機にさえ乗ったことがなかった私だが、色々考えだ末にインド・ネパールの旅に決めた。
できるだけ旅行料金を安くするためにと、往復の飛行機代と、到着した日のみ宿泊先が決まっている格安航空券を購入した。今思えば、英語も喋れない、飛行機は初めて、何にもわからないのに、よくもまあ、そんなチケットで旅行に出かけたものだ。なんてったって、自分で宿泊先を現地で見つけなければいけないのだから。今とは違い、インターネットも発達していないし、もちろん携帯もない。頼れるのはまさに己自身と『地球の歩き方』という本しかないのだから、果たして無事に日本に帰ることができるのか。2週間のロボラガーの卒業旅行は、どう考えても不安しかないものだった。

目的地はインド・ネパールなのだが、最初の経由地にタイのバンコクがあった。まずは、成田から初めて飛行機に乗りバンコクに着いた。バンコクでは最初からパックとして入っているので、旅行会社の人が空港まで迎えに来てくれてホテルまで案内してくれたうえに、翌日は再び空港まで送ってくれた。途中、気を利かせてお土産屋さんに寄ってくれた。とは言え、なんの観光もしていないのではあるが。まあ、言われたとおりにお店に入った。そして、その日にインドのカルカッタに到着。こちらでも、旅行会社の人が空港まで迎えに来てくれたので問題なくホテルに到着。その日の夜、あることに気づいた。この旅行のために買った小さめの目覚まし時計と、お袋が心配して渡してくれた正露丸がリュックの中にないのだ。えー、マジ、どこで無くなった?
可能性があるのは、バンコクでお土産屋に入っているときだ。リュックは空港まで送ってくれた車の中に置いていたのだ。もしかして、あの時、あの運転手さんが盗んだのか?
正直、それ以外は考えられない。なにせ、初めての海外旅行なので、パスポートとお金は首からぶら下げて、荷物もリュック一つ、私の手元から離れたのはあの時間しかなかった。
初めての海外旅行、のっけから一気に不安ばかりが増幅する。

カルカッタ滞在は2泊3日のみ。翌日、初めて街をブラブラしていると、1人の男が話しかけてくる。英語だ。
どうやら、かつて日本にいたことがあるって言っている。そして、今から妹だかにプレゼントを買うから一緒に店に行かないかと誘われる、私の聞き取りが確かならば。私は誰も知らないカルカッタの街でコミュニケーションがとれたことに完全に浮かれて、彼と一緒にお店に行く。そのお店はサリー(インドの人達の着ている服)の専門店。お店の奥に案内された私に店長の男がいろいろと商品を勧めてくる。結局、一つ購入した。そして、気づけば私をそこに連れてきた男の姿はなかった。
ん、アホな私の脳裏にもひとつのことが浮かぶ。これって、もしかして、最初からお店と男はグルか、ってことに気づいた。カルカッタの街はとてつもなく混沌としていて、明らかに日本人で観光客と思われる人は少ない。つまり、私が歩いていたらむちゃくちゃ目立つのだ。だから、速攻でターゲットにされたのだ。まあ、でも何か悪いことに巻き込まれたわけでもないから、そんなに落ち込まないことにした。
翌日、再び街を歩いていると、昨日とは違う男が話しかけてくる。やはり英語だ。すると、再び私をお店に案内する。店の前に連れて行かれて呆然とした。昨日と同じ店だったのだ。さすがに、私は店に入らずその男と分かれた。やはり、こうして日本人をターゲットにしているグループがいるのだ。もともと、日本にいても買い物などろくにしない私には、けっこう衝撃的なことだった。

バンコク、カルカッタとわずか3日のうちに、人を信じていいのか、わからなくなった私だが、それでも、なんとか旅の一番の目的地としていたネパールへ向かうのである。さあ、ここからは宿泊先は一切決まっていない、まさに私にとっては人生最大の冒険が始まったのだ。

 

大学1年の夏合宿の練習試合のこと。私のラグビー人生の中で最高のステップで相手をかわしトライをとることができた。あのときの爽快感は、30年以上経った今でも鮮明に覚えている。大学に入ってからラグビーを始めた私は、まだラグビーの経験が乏しく初心者レベル。しかし、あのステップを上回るものは、その後の10年間のラグビー人生の中で一度もなかった。

その前の展開はよく覚えていないのだが、フリーでボールをもらって走る私の目の前に1人のディフェンスが迫ってきた。私から見て右斜め前から来たディフェンス。私はディフェンスから逃げるように少し左方向に向かって走る。が、おそらくそのままでは捕まりそうなので、右方向に進路を変えようとした。が、相手もついてきたので、すかさず左方向に切り替えた。その瞬間、相手ディフェンスはバランスを崩して倒れた。私は目の前の誰もいなくなった大きなスペースを夢中で走りゴールラインまで駆け抜けた。
私の記憶が確かであれば、相手ディフェンスが転んだ瞬間、外から見ていたチームメイトから「おおー!」と歓声が聞こえた。自分で言うのもなんだが、そんなステップはなかなか初心者にはできないのだ。相手がバランスを崩して倒れるようなステップのことを、アンクルブレイクと呼ぶ。バランスを崩して足首を怪我しかねないということだ。

あれから、30年以上経ったが、改めてムーブメントコーチとしてあのときの私のステップを分析する。
まず、私は右からくるディフェンスから逃げるために左方向に向かって走った。しかし、素人レベルの感覚でもこのまま走ったらぶつかるというのがわかったので、右方向に切り返そうとした。が、ここで、身体が勝手に反応したのだが、右に切った瞬間、相手の動きを見て左にステップを踏めたのだ。
正直、そんなステップの練習はしたことがないし、イメージもしたことはなかった。ホントに偶然身体が反応してくれたのだ。
最初の左から右方向に切り返すときのキレはまったくなかった。ゆるやかに左から右に進路を変えようとしただけだったのだ。だから、ディフェンスも余裕でついてきたのだ。が、右足が地面に着いた瞬間、奇跡的に左に進路を変えることができた。自分で頑張って変えたというより、スムーズに重心移動ができたのだ。

相手からすると、すら〜っと左から右に移動した私が、その次の瞬間左に移動したのだ。スピード的には6割くらいのスピードだったものが、右から左に移動するときだけは、100%の切れ味。
つまり、方向が変わっただけでなく緩急もついたことになる。だから、対応が上手くいかなったように思う。


19歳のときに初めて楕円球に魅せられて、それから29歳まで、下手するとあのときのステップで抜けた感覚を求めてやっていたように思う。それくらい、見事なステップワークだったのだ。
そして今では、ムーブメントコーチとして、あのとき以上のステップを求めて探究している。それが、何よりありがたい。30年前に偶然とはいえアンクルブレイクができたこと、抜く喜びを味わえたことは、ムーブメントコーチとなった私にはとてつもない大きな財産である。

 

さて、ひさしぶりに公園でひとりアンクルブレイクの練習でもしてくるか。

 

昨日、293人と東京での新型コロナの感染者数が過去最高になった。

なかなか収束する気配の見えないなか、今までよりも、様々なことを制限する生活が続いている。

それは、部活動の場でも同じである。同時に実施することのできる人数だったり、1日の活動時間の制限だったり、そしてアルコール消毒や指導者のマスク装着だったりと。そのうえで、私生活でも不要な外出を控えることを余儀なくされている。

 

そこにはとうぜん、様々なストレスが生まれる。

しかし、指導者側としては、選手たちの安全を考えたら、そうしたルールを選手たちに守ってもらうよう指示しなければいけない。ウエイトルームでは大きな声を出してトレーニングしたい、気持ちを高めるために音楽をガンガンかけてトレーニングをしたい。時間に縛られることなく、個人練習をもっとやりたい。

今までだったら問題なくできたことも、我慢してもらわなけばいけない。

 

多くの選手は、そうしたルールを守らざるをえないことを理解できるし、それを極力守ろうとすることができる。しかし、なかには、その規制に対して不満を抑えきれない者もいる。

そんな選手に、私の言葉が届くかどうかは、彼との信頼関係を構築できているかにかかってくる。

これは、なにもコロナの件に限らず同じだ。組織として活動していたら、何かしらのルールが必要になる。

選手側からしたら、我慢しなければいけないことは必ずあるのだ。その我慢を許容できるものになるかどうかは、私との関係性で決まってしまう。

私が選手から信頼されているのであれば、ホントは面白くないが、

「森下さんが言うなら、仕方ない、俺も我慢します!」

そんなことを言ってもらえるのだ。

 

しかし、日頃からの関係性が築けていないと、今回のように新たな規制が追加されると、さらに不満が露出することになる。そうなると、私もイライラするので、「お前な、そんなのあたりまえのことだよ!」と、声を荒げて対応することになり、その結果、関係性はますます負の連鎖に陥ってしまうのだ。

おそらく、お互い、翌日に顔を見るのも憂鬱になってくる。そういう思いがあると、不思議なもので、その色眼鏡でしか相手を見なくなる。こうなると、関係性の修復はますます難しくなる。

 

人間だから、馬が合わない人も必ずいるし、途中から関係性が崩れることもある。無理にうまくいかない人と付き合う必要もないので、その人との縁を切るやり方もある。

でも、コーチと選手との間柄だったら、お互いその関係性を切ることは難しい。ならば、いろんな選手がいるし、日々色んなことがあるが、その関係性の質は改善できたほうがいい。

以前にも書いたが、指導者にとって大切なことは「包容力」。改めて、私の器の小ささを感じている。

 

「過去は帳消しにして、毎日新たに出発せよ」

詩人・教育者でもある黒人女性マヤ・アンジェロウは自伝でこう述べている。

 

昨日までの色眼鏡を外すこと、それは決して簡単ではないが、コーチならばそうしようとすべきである。

 

 

秩序と多様性、この二つのバランスをどう両立させるか?

おそらく私は、数年前よりも多様性を認めることができるようになった。もともと生真面目だけが取り柄の男だったので、真剣に取り組まない選手にはすぐに腹が立っていた。
だから、明らかにやる気を感じない選手がいると、
「やる気が無いならやならくていい」と話し、それでも態度が変わらない場合は、「もういい、帰れよ」と、レッドカードも出した。
だから、下手をすると反発されることもあった。
でも、私も絶対に譲らなかった。よく言えば、妥協はしなかった。

 

そもそもが、「集まろう」と言って、だらだらしていたり、喋っていたら、「お、集合だぞ! 切り替えろ!」

私が話を始めても誰かとしゃべっていたり、下を向いていたら、「おい、人が話をするときは、人の目を見ろ!」 「お前らな、逆の立場だったら、どう思うか、考えてみろ。自分が話をしているときに、話を聞いてないんだよ、腹立つだろう」 

もっと言えば、挨拶をしても挨拶を返さない選手がいたら、「おい、挨拶くらいせえよ」と。

ウエイト器具を片付けていなければ、「〇〇、そこに落ちているプレート、片づけてくれ」

「俺じゃないです」 と返事がきたら、「お前な、目の前にごみが落ちていたら、俺じゃなきゃ拾わないのか、自分じゃなくても、気づいたら片付けろよ。試合でも自分のマークする相手ではない選手がきてもタックルせないかんのよ。その時に『俺のマークじゃない』から、タックルしないのかよ」

 

もう、こんな感じで、挨拶から始まり、取り組む姿勢、そして片づけまで、私の役割はトレーニングコーチなのに、生活風紀委員のごとくうるさい。正直、これはもう私の性格なんだと思う。

 

うん、何を書いていたのか、そうだ秩序と多様性の話だ。

 

態度が悪い選手がいたら、どうするか?

毎度、怒った(あるいは、怒らなかった)あとに、それが良かったのかどうか、考える。

当たり前だが、選手たちも、このコーチはどこまでやったら怒るのか、そのギリギリのところでヤンチャをする。だから、怖い指導者や先生の前では、言うことを聞くフリをする。もちろん、自分の身を守るための防衛手段だ。反面、ほとんど怒らない指導者の前では、下手をすると学級崩壊かというくらいの状況になる。

でも、時々、そのどちらでもないチームに出くわすことがある。

秩序と多様性のバランスが良い状態のチームだ。指導者のみならず、誰かが話をしたりするときには、当たり前のように静かに集中して話を聞く、しかも前のめりになってだ。が、動き出したら、もう個々が活き活きと主体的に練習に取り組む。言い方を変えれば、メリハリのある集団。

 

私が、細かいことをいちいち注意していれば、ある程度の秩序は保つことができる。

でも、それだと、いつまでたっても、選手たちは自立できない。そもそもが、注意ばかりされるほうは気分がいいわけがない。もちろん、私も気分は良くない。さてどうする?

 

こんな時は、ウエイトルームにも貼ってある標語を確認するか。

「ごまかさない」

「いつでも101%」

「言い訳しない」

「仲間を真剣にサポート」

「チームファースト」

「できないのに笑わない」

「できたら笑っていいよ」

「教えあう」

 

我ながら言いことばかりのように思う。

そうなのだ、この基準から外れたら、怒るべきなのだ。

もう一度、選手たちに伝えよう。

ここから外れたイエローカード出すし、二度目はレッドカードだと。

 

 

 

 

今から34年前、高校2年の春休み。監督が「森下、〇〇、新1年生がきたから面倒みてくれ」
何の相談もなく、新1年生が野球部の練習に参加した時にいきなり言われた。あまりにも突然のことだったが、すでに1年生は目の前にいる。もはややるしかない。私と〇〇は、その日から夏の大会が終わり、新チームになるまでの3ヶ月間、1年生の指導者係となり必死にもがくのである。
 
私が所属していた東京都立東大和高校は、当時、「都立の星」と呼ばれる強豪校だったこともあり、部員は100人を超えていた。そして、毎年新1年生が入部すると、上級生数名(2〜4名)が1年生の指導者係に任命されるのだ。指導者係になると、自分の練習はチーム練習の時間には一切できなくなる。その代わりに、1年生の練習をサポートするのだ。つまり、夏の大会のベンチ入りは諦めるということだ。
だから、新1年生が入部する直前、毎年春の大島での合宿中に、指導者係を誰にすべきかのミーティングが行われていた。
何人かの推薦者が出たところで、推薦された者が発言することになる。
「俺は最後までベンチ入りを諦めたくないからやりたくありません」
「自分なんかは指導者係ができるほどの人間ではないからできません」
様々な声がでる。いずれにしても、指導者係を決めるミーティングは、わずか16〜17歳の選手たちにとっては、とてつもなく大きな出来事だった。
私が高2になる春休みの大島合宿でも、そのミーティングはやってきた。推薦された名前の1人に、私もいた。「自分は野球も下手だし、そこまで努力できていないので無理だと思います」。そんなことを、振り絞って話した記憶がある。
 
そして、大島合宿から帰った数日後、監督から声がかかったというわけだ。
今でも思う、指導者係に任命されたことは仕方ない、が、なにも新1年生が来たその日に急に言わないで欲しかった。だって、なんの準備も、打ち合わせも、もちろん覚悟もできていなかったのだから。
それでも、その日も含めて相棒と2人で、夏季大会が終わるまでの間、指導者係を全うすることになったのだ。

急に任命された以外にも驚くべきことがあった。それは、新1年生の練習プログラムは指導者係の我々に完全に任されたことだ。夏の大会が終わるまで、監督からも、助監督からも、学生コーチからも、誰からの指示もなかっただけでなく、アドバイスの一つも無かったのだ。そう、たかだか1年生より1つ学年が上なだけで、選手としてはもちろん説得力は皆無の上に、コーチングのコの字さえもまったく知らない我々2人に1年生の全てが委ねられたのだ。トレーニングコーチとして20年経ち、50を過ぎた今でも、試行錯誤を繰り返し、コーチングの奥深さを知る日々が続いているのに、いったい、当時の我々はどうやって33名もの新1年生を3ヶ月以上も指導することができたのだろうか。私の記憶が正しければ、1年生から反発されたり、態度の悪い言動をされたことがない。もちろん、本人たちの本音は知る由もないが、少なくても私自身に、1年生が言うことを聞かずに困ったという記憶は無い。念のために書いておくが、決して暴力で怯えさせるようなことは、もちろん一切していない。
 
なぜ、経験もなく、野球も下手くそで、話すのも下手な私の話を1年生は、真摯に3ヶ月も聞いてくれていたのだろうか。
理由の一つは、当時の東大和高校野球部の知名度、監督の知名度が抜群だったので、そのチームの指導者係なんだから、1年生も素直に聞いてくれたように思う。ようはバックグランドが信じられていたことだ。それと、これはもう推測に過ぎないのだが、私も相棒も、情熱だけは半端なかったように思う。おそらく2人とも自分自身に対しての絶対的な自信とは180度かけはなれた存在だった。指導者係と言うと、何か教えていて偉そうな響きだが、決して偉そうな物言いはしていなかったように思う。なぜなら、それは我々が1年生のときの指導者係の3人の先輩も、そんな物言いはしていなかったからだ。
「森下! まだいける! お前の限界はまだまだ上にあるぞ!」
「今日、本当に自分の限界にチャレンジすることができていた選手が何人いる?俺にはまだ、お前たちが限界に挑んだとは思えないよ、まだまだやれるぞ!」
たかが、一つ上の先輩達から伝えてもらったのは、何の迷いもない、東大和高校野球部への誇りと、それを伝えたいという情熱だったのではないか。だから、私と相棒も、何の打ち合わせもなく、アドバイスもないのに指導者係を全うすることができたのではないだろうか。
 
それにしても改めて思う。よくもまあ、33名もの1年生を我々に任せることができたなと。
私は3月生まれだから16歳になったばかりの、何にも知らない、できない少年だったのに。
でも、新1年生には未熟で申し訳なかったことをしたが、私の人生にとっては、その後の人生の基盤を作ってくれたものとなったのは間違いないのだ。任されたから、やるしかなかった。ない頭で必死に考えるしかなかった。1年生のお手本となるよう、必死で背伸びしようとしたこと。その全てが、曲りなりにもコーチとしての今にもつながっている。いや、下手をすると、情熱はあの時のほうが高かったのではないか。
そんなことさえ思えるほど、情熱だけで指導者係をやっていたように思う。
 
なぜ、情熱を持てたのか。繰り返しになるが、東大和高校野球部に誇りを持つことができたからだ。
大げさに言えば、宗教に近い。いや大げさでなく、監督の名前が佐藤だったので、「佐藤教」と言われたほど強烈に、自分たちのやっていることに誇りをもっていた。
「東大和の野球を全員がすれば勝てるんだ。勝てないのは、誰かがまだできていなからなんだよ」
佐藤先生からも、そんな言葉を何度も聞いたことがある。
 
30年以上前の私の話をなんで長々と書いてきたのか。
それは、チームに対する誇りを持つことをできれば、選手たちは勝手に一生懸命に練習するだろうということだ。極論すれば、そこにコーチはいなくても大丈夫だ。それは、16歳の私でも、3ヶ月もの間指導者係をまっとうできたことが証明しているのだ。