「あー、ホントつまらない」
20年以上前、この仕事を始めてから初めてとなる外部指導に行くことになった。
とは言っても、年に数回だけしかない仕事ではあったのだが。
古豪ではあるが、かつて高校野球をやっていた私にとっては、遥か遠く及ばない立ち位置にいたチームだった。だから、むちゃくちゃ嬉しいのだが、それ以上に不安と緊張の方が大きかった。
そこで、色んなチームの指導をやり続けている師匠に相談した。
「やっと、自分もチーム指導に行けることになりました。何をしたら良いでしょうか?」
「バカやろー、お前、現場に行く前に何か決めることなんてできないよ。先生と話をして、部員たちの状態みなければ何もできるわけないだろう」
師匠は、私が知りたいことを教えてはくれなかった。
でも、私の師匠は、たいてい私が何かアドバイスを求めると、期待する答えは返ってこなかった。
大学ラグビー部のチームに初めて指導に行ったとき、4年生の主将がベンチプレスのマックスが170kgだった。私はそこまでベンチプレスを挙げることはできなかったので、「ベンチプレスで180kg挙げたいって質問されたんですが、どうしたら良いでしょうか?」
そう、師匠に聞いた。師匠のマックスは、かつて195kg。当時でも170㎏は挙げていたからだ。しかも、その選手よりも体重は40㎏軽いにも関わらずだ。
師匠はこう答えた。
「お前がベンチプレスで150kg挙げられるようになったら、そいつも180kg挙げられるよ」
私が知りたかったのはノウハウだった。
でも、よくよく考えたら、私が質問していたことは、いつもノウハウだった。
どうやったらいいか?
だが、師匠は、決してノウハウは教えてくれなかった。
そして、酒を飲みながらの席で、こんなことも話してくれた。
「失敗しろ」
今なら、師匠が言っていることはよくわかる。すぐにノウハウを聞いてくるバカ者よと。
聞けば師匠には師匠がいなかったと言う。大学卒業したばかりで、何の経験も無いのに現場のチームを任された。しかも、自分が経験したことのないスポーツの、社会人の強豪チームだった。
だから、若かった師匠は、とても多くの失敗を繰り返したのだと思う。そして、そのを教訓に糧にして、自分なりに指導力をつけてきたのだ。
しかし、師匠の凄いのが、まさにここだ。私だったら、後輩が質問しにきたら、嬉しくて、すぐに私なりの答えを教えてしまうだろう。でも、実はそれは本人の成長を奪うことになるのだ。
指導経験が少なかった私は、当時はそんなことを知る由もなかった。
「失敗は成功のもと」
そんな言葉は誰でも知っている。しかし、実際に失敗したいと思う人は少ない。ましてや、この業界に飛び込み、右も左もよくわからなかった私にとっては失敗は怖い以外の何者でもなかった。
そんな私も現場での経験が20年を超えた。しかし、相変わらず失敗の方が多い。そして、今でも完璧な指導なんてできない。毎日が試行錯誤の連続である。
でも、だからこそ楽しくもあるのだ。誰かに言われたことを、ただやるのではなく、どうしたら選手たちは強くなるのかを自分なりに探ることが面白いのだ。
仮にかつての私が知りたかった、誰もが強くなるノウハウがあったとしたら、きっと仕事はもっとつまらなかったに違いない。
人材育成の専門家である福島正伸さんが、こんなことを書いている。
失敗と書いて「せいちょう」と読む。 ピンチの意味はチャンスだと。
選手たちを成長させたかったら、彼ら自身に失敗する経験を積ませることだ。
そう、私が口に出して教えたいことを、ほんの少しだけ我慢するれば良いのだ。
大学の時、ラグビー部の同期が、「森下に見つめられると固まるから気をつけろ」と、後輩に注意を呼びかけた。また、別の同期が、「森下は近いんだよ。だから、話をしているとだんだん道の端に追いやられて溝に落ちるから気をつけろよ」と話を盛り上げる。
実は、大学に行って気づいたのだが、私は人と話をしていると、絶対に目を離さないことと、話し出すとむちゃくちゃ距離が近くなってしまうという癖があったのだ。
なぜ、そうなったのか。その心当たりはすぐ浮かぶ。高校時野球部時代の指導者係の先輩の影響だ。
まだ16歳になったばかりの私に、その先輩が与えた衝撃は凄まじかった。学年で言えば一つしか違わない、つまり、当時の先輩も、まだ17歳に過ぎない。しかし、その目力は半端なく、その発する言葉はエネルギーに満ち溢れていた。
指導者係の先輩は、私も含め新1年生の面倒を夏まで自分の練習も出来ずに、ずっとみてくれたのだ。1年生の練習は、もう2人の指導者係と3人で、監督から全て任され仕切っていた。だから、毎日、何回も指導者係の先輩の話を聞くことになる。大袈裟に言えば、そこで教えてくれることは、その野球部の誇りと考え方であり、それはすなわち練習に取り組む姿勢だった。ひと言で言えば、それは「全力を尽くす」ということだ。
とうぜん、それまで中学生だった我々1年生で、常に全力を尽くして練習できる者などいない。だから練習するたびに、指導者係の先輩に、そのことを指摘される。
「お前たちの限界は、そんなもんか、まだいけるぞ! 簡単に妥協するな」
そして、そこに今でいうパワハラ的なものは一切なかった。できないことを無理やりやらせるようなことは、指導者係は決してしなかった。あくまでも、内発的動機に働きかけた言葉を発してくれるのだ。
そんななかでも、目力のある先輩が話をしてくれるときは迫力があった。
「いいか、人の話を聞くときは、相手の目を見ろ!」
そう言って、1年生全員(35名)の目を、そのギラギラした目で見渡す。時には、目の前にいって、目と目の距離が3cmほどまで近づくのだ。もちろん威嚇しているわけではないのだが、はたから見たら、それはどう見てもガンを垂れているとしか思えないものだった。そして、2年生になったとき、私も指導者係に任命された。そこまで1年生の目の前に迫ったことはないが、間違いなく選手たちの目を見て話すことは真似していたように思う。
話が長くなってしまったが、その先輩が、私が人と話す時は目を見る、そして距離が近くなってしまう原点なのだ。
そして、このソーシャルディスタンスとは真逆の距離が近過ぎるという私の得意技は、社会人になってからも時々顔を出してしまうようなのだ。以前の職場で一緒に働いていた後輩が、必ず酒の席でネタにしている私の反ソーシャルディスタンスの話だ。
その職場ではシフトが早番、中番、遅番と3つに分かれていた。その日は、2人とも早番だった。たまたま、通勤で使う電車が中央線で、私が立川から先に乗車し、彼は国分寺から乗車してくる。中央線始発の上り電車は、さすがに人は少ない。が、2人とも若かったのか、つり革に捕まりながら新宿まで向かっていた。
彼いわく「僕が電車に乗って森下さんと、最初に話をし始めたのが、1番端っこのつり革でした。ところが、新宿駅に着いたときには、そのつり革の反対側の端っこにいたんです。もー、距離が近いから、私がつり革をたどって、たどっていったら、気づけば端っこですよ。信じられますか」
さすがに、酒の席のネタなので、相当話が盛られているとは思うのだが、印象としては、それくらい私は夢中になると距離がどんどん近づいてくるらしいのである。そのときの話はスクワットについて私が早朝から熱く語っていたらしい。
三密が叫ばれるなか、大きな声で距離が近くなって話すのが得意な私にとっては、なんともストレスな日々が続いている。1日でも早く、人との距離を縮めたいと思う今日この頃である。
願う、脱ソーシャルディスタンス!
大学3年の夏合宿、ラグビーの試合中に右膝の前十字靭帯と内側側副靱帯、そして半月板を損傷した。
怪我をした時のプレーは30年経った今でもハッキリ覚えている。
私は右タッチライン際をボールを持ってトップスピードで走っていた。ディフェンスの1人が左内側から、私をやや追いかけてくる形で走ってきた。そして、走ってきた勢いそのままに飛びつくように私にぶつかってきた。ディフェンスが当たった瞬間、私は右脚で着地していた。右膝にビーン!という激痛が走り私は転がった。一瞬、めちゃくちゃ痛かったのだが、少し時間が経つと痛みが和らいだので立ち上がろとした、が、ダメで仲間に抱えてもらいながらグランドの外に出た。私のチームにはトレーナーはいなかったので、試合が終わるまでグランド横に座っていた。合宿地の菅平は、夏の間だけオープンしている診療所があった。試合後にそこに連れて行ってもらい、ドクターの診察を受ける。
「靱帯を伸ばしただけだから、2週間くらいで治るかな」と言って、膝にシップを貼ってもらい、診療所を後にした。恥ずかしながら、靭帯というものがまったくわかっていない私は、つまりすじを痛めただけなのだから、すぐに治るだろう。合宿中の復帰は無理でも、すぐに復活できるだろうと悔しいながらも、そんなにショックは受けなかった。合宿は続いていたので、私はもちろん宿泊しているホテルに戻り過ごす事になった。しかし、その日の夜から、膝が痛くて痛くて仕方ないのだ。夜中には痛みにうなされていた。おかげで、合宿も中盤を過ぎ疲労困憊で雑魚寝状態の他の部員には、とてつもなく迷惑をかけた。正直、歩くこともままならないので、痛めていない左脚でケンケンして移動していたのだが、右膝は揺れるたびに激痛が走った。そんな私をみかねた部員の1人は私をおんぶしてくれた。しかし、私の右膝はそのおんぶで揺れるだけで痛かったのだ。翌々日になっても状態は変わらないので、もう一度診療所に連れて行ってもらった。前回とは違うドクターがいて、私の膝を診るなり、
「ACLが切れているから、早く山を降りて大きな病院で手術してもらった方がいい」と伝え、右膝をギプスで固定し松葉杖を貸してくれた。ACLという言葉の意味さえわからなかった私は、それでも、ギプスと松葉杖のおかげで、痛みはそうとう楽になった。それにしても、最初の診察をしてくれたドクターを呪った。靭帯を伸ばしただけで2週間で治ると言ったではないか、そして、何よりもこうして固定して松葉づえをすれば痛みは軽減されるではないか。
たまたま、その日に菅平に顔を出していたOBの車に乗って私は他の部員より一足早く菅平を降りることになった。そのまま自宅には帰らずに、後輩の1人が高校時代にお世話になっていたという東京恵比寿にある北里研究所という病院に連れて行ってもらった。診察時間は過ぎての到着だったが、膝のスペシャリストであるという阿部先生が診察してくれた。優しそうな阿部先生は、靱帯というものさえ分かっていなかった私に丁寧に説明してくれた。
「前十字靭帯(これがACLのことだった)は、関節の中にあるから手術するには膝を開かないといけなくて大変なんです。君の場合には、膝の内側の靱帯も切れたから、これを強く縫合すれば、ACLを手術しなくても膝の緩みを抑えることができるんだ。このACLが無くてもプレーしている選手はいるから、それでやってみようか?」
大学3年まで、怪我というものに全く無縁で知識もない私は、もちろんただただ肯くばかりだったし、阿部先生を信じる外に道はなかった。結局、そのまま入院して、翌日に手術することが決まった。手術当日、まず病室に迎えの移動式のベッドがやってくる。そこに寝かされた私は、腰に注射を打たれた。下半身を麻痺させるものだった。しかし、この注射ほど痛かったことは、その後の人生で一度もないほどの凄まじいものだった。とにかく、太い針で、打たれた瞬間、腰の中にギューッと熱いものが走ったのだ。
そう、私の手術は下半身麻酔だったのだ。つまり、意識がある状態で手術室に向かった。
入院するのも初めてな私は、もちろん手術するのも初めて。病室から手術室に行くときは、テレビドラマでしか見たことがない光景に、なんとも不思議な感じだった。
そして、いざ手術が開始される。手術中に、膝の中をいじられている感じがあったので、「痛いです」と伝えると、何かを吸わされた。つまり、意識を落とされそうになった。しかし、何を思ったか、私は脳の奥の方で戦っていた。ヤバい、このまま意識が無くなったら俺は死ぬんだって。だから、手術の後半は、実は完全には落ちておらず、ただ、自分の頭の奥の方で落ちそうになる自分と戦っていた。とにかく不思議な時間を過ごした。気づけば先生たちの声が聞こえ、手術は終わったようだった。
またその日の夜が大変だった。翌朝まで起きてはいけないので、尿はベッドの上でとらなければいけない。しかし、尿意はあるのだがなかなか出てこないのだ。尿が取れないと、管を入れられるとのことなので、それが嫌な私は夜中じゅう、そのことで再び闘っていた。翌朝1番、車椅子でトイレに行った。しかし、当たり前だが、手術したばかりの右脚はギプスで固められているとは言え、心臓より下げると痛みが走るのだ。それでも、トイレで尿をしたかった私は必死になって立ち上がった。
確か入院は2週間くらいだったので、退院したときはまだ右膝は完全にギプスに固定されていた。
そして、3週間経つとギプスがやっと外された。膝の怪我なのに、大腿の上から筋肉は、まさにげっそり落ちてしまっていた。そこから、またキツイリハビリの日々が始まるのだ。
立川の自宅から、恵比寿にある病院までは遠かったのだが、通院でリハビリをすることになった。
膝をギブスで固定していたため、曲げ伸ばしがほとんでできなくなっていた。その曲げ伸ばしのリハビリ、1人ですることはできないので理学療法士の担当の方が、徒手でサポートしてくれる。しかし、これが痛いのなんのって。「森下さん、力抜いて、もっと抜いて」と言われるのだが、痛いのがわかるのでどうしても力を上手く抜けないのだ。そうなると、ますます膝の曲げ伸ばしのリハビリは痛いのだ。いわゆる、あぶら汗っていうのをかいたのはこの時が初めてだった。もう、頭の中が真っ白になるくらい、それくらい痛いのだ。それでも、皆さんのおかげで翌春から、阿部先生の言う通りに、前十字靭帯を手術しなくてもラグビーをすることができたのだ。阿部先生を信じて良かった。
それにしても、靱帯というものが何なのかさえわからず、2日間も合宿所で湿布一つで悶えて、なんだか訳の分からないうちに山を降りて翌日の手術。私の人生で、初めてだらけの経験がめじろ押しとなったあの夏。あの時の、意識がもうろうとしながらも落とされなかった自分。そんなアホな自分を懐かしくも微笑ましくも思うのである。
以上、ロボラガーの初めての手術、そしてリハビリの話と、また他人様にはどうでも良いブログなのである。
インドのカルカッタからネパールの首都カトマンドゥへの飛行機に乗る。30年前のことなので、この航空券が最初の旅行パックに入っていたかどうか記憶がない。国際線の飛行機だが、そんなに大きくなかったことは覚えている。
そして、ここで日本人の後藤さんに出会う。後藤さんは、私より年上で何度もネパールに行ったことがあるとのこと、旅は道連れというわけで、ネパールに入ると後藤さんと行動を共にすることにした。ネパールからは宿泊先が決まっていないので、私は後藤さんと同じ宿に泊まることにした。そこで、もう一人の日本人に出会うのだが、残念ながら名前は完全に忘れてしまった。後藤さんよりはるかに年上で、お金を日本で貯めてはこうしてネパールや他の東アジアの国に放浪の旅に出ているということだ。日本とネパールでは当時は物価が相当違っていたので、日本円で20万円あれば、ぜいたくさえしなければ1年間暮らせるほどなのだ。
私と後藤さんが止まった宿も日本円で1泊100円もしなかったはずだ。
私と後藤さんは、その方の誘いで、朝早くトレッキング(簡単な山登り)に出かけた。まだ日が昇る前の真っ暗な時間に宿を出発した。まず驚いたのが、我々が道路を歩いていると、たくさんの野良犬がついてくるのだ。人生でこんなに野良犬を従えたことなど、もちろんなかった。だんだん山を登るのだが、なにせ暗いし、どこに行っているのかわからないのだ。いったい何時間くらい歩いたのか、先の見えない登山に私は心が折れそうになっていた。すると、それまで見えなかったアルプスの山々が一望に見えるロケーションが目の前に現れたのだ。それまでの疲れが一気に吹き飛んだ。まだ暗いうちから山を登り、その山を登り切ったら視界が一気に変わったのだ。はるか遠くになのだが、雪におおわれたアルプス山脈がよーく見える。私は登ってきて良かったとそのとき思った。きっと、山登りに魅せられる人達の理由の一つがこれなんじゃないか。
後藤さんとも途中で別れ、いよいよ日本に帰る日が近づいてきた。私の旅行は格安航空券なので、3日前だか2日前までに一度手続きをする必要があった。そこで、ロイヤルネパール航空の事務所に行った。が、そこに着くなりなんだか様子が変である。日本人や欧米人の観光客が列を作って並んでいるのだ。何が起きているのかわからない私は、日本人らしき女性に聞いてみた。すると、パイロットがストライキをしているので、予定されていた飛行機が飛ばないとのこと。どうやら行列は、その間の宿泊先や別の飛行機の手配の交渉を順番で実施しているものだったのだ。まさかの展開に私はどうしたら良いかわからなかった。しかし、運よく声をかけた女性は、私と同じ便のチケットを持っていた。彼女は私より英語が話せたので、一緒に交渉してもらうことにした。我々の交渉の番になった。私が話した英語は、「セイム・ウィズ・ハー」のみ。どうやら、通じたようで、と言うかその方のおかげで無事に宿泊先と帰りの飛行機のチケットをゲット。おまけにホテルは高級ホテル、飯も美味いしきれいだし。結局、2日か3日予定より遅れてしまったが、なんとか日本の地を踏むことができたのだ。
それにしても、2週間、初めての海外旅行は予想以上に色んなことがあった。パック旅行にしないということは、色んなことが起こる可能性があるということだが、まさかパイロットがストライキをするなんて想像だにしていなかった。旅は非日常である。非日常を求めて旅に出ると言ってもよい。大学4年とは言え、ラグビーに明け暮れていた世間知らずの私にとっては、とてつもない非日常の2週間だった。
その当時は知る由もないが、人が成長するには3つの出会いがあると言う。
「人に出会うこと、本に出会うこと、そして、非日常に出会うこと」
あれから30年、50歳を過ぎた私の人生でも、あの旅ほど非日常だったことはない。あの旅で学んだことは何か? 言葉が通じなくてもなんとかなるということをまさに身をもって知ることができたことだ。おかげさまで、今でも外国出身の方々とコミュニケーションをとるのは苦にならない。むしろ積極的に声をかけれるほどだ。
相変わらずその手段は、カタコトの英語と日本語と身振り手振りということに変わりはないのだが。