心が共鳴すると仲間となる 湘南爆走族と新約聖書と信教の自由 | ロードバイクとオートバイ

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今の目標は,毎週乗ることです。皆さんのブログで元気をいただきつつ,頑張ります。

おつかれさまです。

先週、土曜日乗って、次の日もと思っていたのですが、日曜日は肩が痛くて何にもできずに過ぎて行きました(´;ω;`)早く治ってくんないかな〜

 

落車のとき、チームジャージを着ていたのですが、特に破れもないと思っていたら、土曜日洗濯した時に見つけた( ゚д゚)

破れてた(´;ω;`)

縫おうと思って100均で針と糸を買ってきましたが、縫い方がわからんです。家庭科習ったのって今から45年以上前。おっちゃんの時代は中学では、男子は技術、女子は家庭科だったんすよね〜家庭科、特に裁縫を習いたかったわ〜( ̄▽ ̄;)

 

裁縫と言えば、吉田聡先生の「湘南爆走族」という漫画が昔ありまして、その主人公、湘南爆走族2代目リーダー江口洋助は、高校の手芸部の部長というぶっ飛んだ設定でした。まー、暴走族漫画ですので、暴力シーンもあり好き嫌いが別れるところですが、基本的にはギャグ漫画なので大勢のファンがいました。

 

その湘南爆走族の「初代」の話は単発エピソード的に描かれていましたが、近年、その初代の物語をリメイク的に丁寧に再度描いた「湘南爆走族ファーストフラッグ」がヤングチャンピオンで連載され、単行本も3巻まで発行されています。

 

 

©️吉田聡、秋田書店

 

3巻ではまだ、湘南爆走族初代リーダー「桃山マコ」と親衛隊長「茂岡義重」が仲間になる前までしか話が進んでいません。白煙の女王と呼ばれ、女子高生なのに湘南一の速さを誇るマコに、シゲは何かを感じ接触をはかろうとしてうちに、だんだんとマコもシゲに興味を持ち出してきたところです。

マコ「あんたたちは何を追いかけてんの?」

シゲ「ずっと前からオレの中にあって…………それでもって初めて見る景色だ」

シゲの答えを聞いたマコは、一見何を考えているのかわからない表情をしますが、古い湘爆ファンならこれ、すんごい重要なコマだと気がつくと思います。

マコは、「あたしと一緒だ」と思ったんです。まあ、おそらく(*´꒳`*)扉が開いた瞬間ですね。仲間になるには「共感」が必要です。

 

これから仲間になって、「湘南爆走族」を設立し、将来的にこのマコとシゲは結婚するわけですが、結末はわかっていても、この二人を中心に新たに物語が掘り起こされていくことをこれからも楽しみにしています。オリジナルではギャグ漫画のノリで、ほとんどテキトーに2代目リーダーに選ばれた江口洋助ですが、桃山マコが江口を選んだ理由を丁寧にリメイクしていただくとありがたいです。

 

さて、話題をガラリと変えます。

仕事から帰ってきて、肩も痛くてグッタリしつつ、YouTubeを延々とみてるのですが、キリスト教に関するものたくさんうpされていて、玉石混合ですが、楽しく視聴しています。私も洗礼を受けたクリスティーヌなのでたまに考えることがありますので、信教の自由とは何か、新約聖書に4つの福音書があることを鍵として書いてみたいと思います。

 

福音書が4つある理由

新約聖書の中で福音書は、

「マタイによる福音書」

「マルコによる福音書」

「ルカによる福音書」

という、内容的にある程度共通している3つの共観福音書と、神学的な

「ヨハネによる福音書」

の4つで構成されています。書かれた言語は全てギリシア語です。これらの福音書が書かれた目的は宣教でありますが、書かれた年代、場所、宣教対象が違います。だからイエス伝である福音書が4つも聖書の中に存在しているのです。

 

マルコ福音書

紀元65年頃、ローマで、ローマにいるキリスト教徒に向けて書かれました。最初に成立した福音書と言われています。

「マルコ」が誰であるかは不明ですが、ヴェネチアのサン・マルコ寺院はマルコの遺体を聖遺物として盗んできて、それを御神体的に作ったらしいので、イエスの直弟子の中の一人だったと思われます。

ただし、マルコ福音書はマルコが一人で書いたわけではありません。何らかの関わりがあるのでその名を冠されているとは思いますが、その経緯は不明です。旧約聖書の各文書群にも言えますが、聖書の文書は一人の人間によって書かれたわけではなく、時間をかけて何人もの手が加わって成立していきます。

イエスが十字架にかけられてから20年くらいは、特に読まれているまとまった文書もなく、イエスの言行の口伝があったり、イエスの言説を簡単に書きまとめたものがあっただけでした。新約聖書の半分の量は使徒パウロの書簡が占めていて、現在残っている初めの書簡「テサロニケ人への手紙第一」が書かれたのは紀元50年頃と言われています。パウロはイエスの直弟子ではありませんので、イエスの言行を直接見たわけではありません。ユダヤ人以外の異邦人への伝道の要だったパウロの死後、イエスの言行録をまとめようという動きがあって、口伝や御言葉集(Q資料)が編集されると同時にマルコ福音書の原型ができ(原マルコ)、Q資料を参照しつつ原マルコをブラッシュアップさせ、マルコ福音書が成立したのだと思います。ローマによるキリスト教徒迫害の時代ですので、ローマのキリスト教徒を励ますためというのが成立を促した動機であると思います。

 

マタイによる福音書

紀元80年代にシリアでユダヤ人たちに向けて書かれました。マタイはイエスの十二弟子の一人で、元は取税人だった人ですが(取税人は賎業と見なされ差別された)、福音書に単に名を冠されているだけかもしれませんし、何らかの関与があったのかもしれません。旧約聖書の預言がイエスの登場で実現したことを強調する内容ですので、旧約聖書に精通していたラビ(教師)がM資料と呼ばれるマタイ伝特有の資料を作成し、そこへ、Q資料とマルコ福音書の内容を合わせて編集し成立したと言われます。

成立した時期は、第一次ユダヤ戦争でエルサレムが陥落した後ですので、ユダヤ人たちに「イエスが(旧約)聖書で預言されていたメシヤ(ギリシア語でキリスト)であり、それを受け入れないとユダヤ人は救われない」という切実な思いがあったのだと思います。結局、紀元135年、ユダヤ人の国は第二次ユダヤ戦争でローマによって滅ぼされてしまいます。

 

ルカによる福音書

書かれた年代はマタイ福音書と同じ80年代と言われています。場所は異邦人世界のどこかの教会であると予想されていますが、新約聖書の中で最も洗練された文体らしいのでギリシア内でギリシア周辺のキリスト教徒に向けて書かれたのかもしれません。また、ルカによる福音書は、「この世で最も美しい書物、ルナン」と呼ばれています。ルカはパウロの盟友で、医者でしたが、パウロと共にユダヤ人以外の異邦人世界へイエスの教えを伝道したキリスト教成立の功労者と言われています。このルカがルカ福音書の元になる原ルカを書き、それにマルコ福音書、マタイ福音書も参照していると思われるQ資料を合わせて編集したものとされています。内容的にはパウロの思想が反映されています。

ルカは、ルカ伝の後に「使徒行伝」を書きました。使徒行伝は、イエスの昇天、使徒たちに聖霊が降臨(ペンテコステ)、エルサレム教会の活動、パウロの回心、パウロの世界伝道、ユダヤ人によるパウロ暗殺計画とローマによるパウロの保護までが記載されています。パウロやペテロの殉教の様子などは書かれていませんので、パウロの殉教前にルカは亡くなったのだと思われます。

 

ヨハネによる福音書

紀元100年から110年頃、小アジアのエフェソスで書かれました。書いたのは使徒ヨハネではなく、黙示録を書いたパトモスのヨハネでもなく、ギリシア思想にも精通したキリスト教神学者(たち)だと思われます。書かれた第一の目的は、ギリシア思想の側からのキリスト教批判に対抗するためです。

パウロが伝道中、ギリシア人有識者に対してキリスト教について説明したとき、ギリシア人有識者たちはパウロのことを小馬鹿にしました。パウロは、ギリシア思想家たちを納得させる説明をできなかったのです。しかし、キリスト教にとって、ギリシア思想を包括するのは世界宗教にジャンプするために必要なことでした。

パウロは、神が人になってきたのがイエス・キリストであると説明しました。しかし、人が神になれないのは古今東西明らかなことなので、馬鹿馬鹿しいと思われるのも仕方がないことです。ヨハネ福音書では、イエスを神のロゴス(ギリシア語で言葉、論理、理性、法則などを表す用語)としました。神のロゴスが人になって来たのがイエスであり、神のロゴスは神そのものであったと説明します。

このヨハネ神学があってこそ、キリスト教は真の世界宗教になれたのだと思います。この福音書はキリスト教の神学論理を記述したものであって、歴史的イエスの言行をまとめたものではありませんので、共通の資料を参照して書かれたマルコ、マタイ、ルカの三福音書(共観福音書)とは全く違うものになりました。

 

なぜイエス・キリストが神なのか

この世のあらゆる物質、人間もそうですけど、全て原子によって構成されています。原子は電子と原子核で構成されておりますが、原子核の大きさは原子全体の10万分の1くらいの大きさで、その周りに電子が雲状に広がっているだけなので、原子の中身はスカスカらしいです。なので、人間も原子で構成されている以上スカスカなのですが、人間の本質ってどこにあるんでしょう?

人間の脳もスカスカの原子で構成されていますので、脳が人間の本質とも中々思えないので、ここは人間の本質を「魂」とでもしておきましょう。ただし、「魂」の存在は科学的に証明されていませんし、私も見たことがないので論理的に説明することはできません。因みに尾崎豊の歌が「魂の叫び」であると思うのは、尾崎豊という人間の本質(すなわち魂)が垣間見られるように感じるからです。

人間なら、その人間の本質である魂が受肉して人間になる。神のロゴスが受肉したら神であり人であるイエス・キリストになるということなのではないかと思います。

 

信教の自由とは?

聖書が間違いのない神の言葉であるとして,聖書の言葉に忠実であろうとする原理主義者の人たちがいます。しかしながら,その人々は往々にして聖書に忠実なのではなく,その教団の聖書解釈に忠実なだけであって,聖書の本質から遠く離れているように思います。聖書の文書群が誰に対して何の目的で書かれたのを理解しなければ,その文書が言わんとしようとしていることの本質は見えないからです。信教の自由は,教祖や教団が自分勝手に振る舞っていいと言うことではありません。個人が何を信じるのかが自由であって,同じ人間に過ぎない教祖や教団幹部の言いなりになることは,精神的奴隷になることであると思います。キリスト教は,律法主義に陥り,形骸化してしまったユダヤ教の殻をナザレのイエスが打ち破ったこと,律法の呪いから解放したことがその興りの起源です。イエスの弟子の末席として、既成概念に囚われず,自分なりの生きることの意味や,この世界があることの本質を見いだそうとすることが、私にとっての信教の自由だと思っています。

 

まあ、あんまり難しく考えないで楽しく生きようwww(´・∀・`)

 

おしまい