1983年の夏の思い出について。 | …

i am so disapointed.

1982年の秋、北海道の音楽ファンにとってとてもうれしい出来事が2つあった。1つはテレビ朝日系で放送されていた「ベストヒットUSA」がHTBこと北海道テレビを通じて、ついに見られるようになったこと。そして、もう1つは道内初の民放FM局、FM北海道が開局したことである。

 

当時の音楽ファンの中には「FMレコパル」「週刊FM」「FM fan」「FM STATION」といったFM情報誌のうちのいずれか、あるいはいくつかを購読していた人達も少なくはなかったのではないかと思われる。北海道の書店で売られていたのは東版というエディションで、それにはNHK-FMとFM東京の番組表が掲載されていた。しかし、FM東京を聴くことができるのは東京やその周辺に住んでいる人達のみであり、同じ金額を払って雑誌を買っているのに何だか損をしているような気分にもなっていた。そして、FM東京の番組表などを見てしまうと、民放FM局がないことがやはり残念に思われていたのだ。

 

1983年にFM北海道を聴いていると、「Hokkaido Super Jam ’83」というライブイベントのCMがやたらと流れていた。どうやら当時、大人気だったRCサクセションとサザンオールスターズが同じ日のライブに出演するらしい。いずれのバンドもわりと好きではあったので、これは行くしかないだろうと思っていたのだが、いろいろ買わなければいけないレコードも多かったりはして、確か3,000円ぐらいだったと記憶しているいま考えると破格のチケット代すらなかなか工面できない状態であった。そうこうしているうちにチケットが売り切れてしまうのではないかという不安もあったのだが、FM北海道ではまだCMが流れていたので大丈夫だと思われた。そして、家中にあった小銭をかき集めるなどもして、やっとチケット代が工面できたので、自転車に乗ってミュージックショップ国原に行った。しかし、チケットは売り切れていた。残念ではあったが仕方がない。

 

7月5日RCサクセションは「OK」、サザンオールスターズは「綺麗」という最新アルバムをそれぞれリリースし、これらはすぐに買ったのであった。RCサクセションは70年代から活動しているということだったが、いろいろあった後、80年代にロックバンド化して人気が出て、1982年には忌野清志郎が坂本龍一とコラボレーションした「い・け・な・いルージュマジック」がオリコンで1位、バンドとしてもシングル「SUMMER TOUR」が6位、アルバム「BEAT POPS」が2位を記録するなど、世間一般的な人気がひじょうに高まっている時期であった。

 

「OK」はハワイ録音であることが話題になっていたような気がするが、ロックンロールバンド的なRCサクセションのイメージにしてはややスタジオワークに凝っているように感じられるところもあり、バラエティーにとんでいてかなり気に入っていた。先行シングルの「Oh! Baby」などは中期ビートルズを思わせたりもする切ないバラードで、忌野清志郎の繊細な部分の魅力がよく出た素晴らしい楽曲だと思っていた。あるラジオ番組だったか何だったか忘れたが、出演していた女性パーソナリティーがこの曲に感動して泣いてしまうということもあったようだ。

 

アルバムが発売される少し前に手塚理美がパーソナリティーを務める「レコパル音の仲間たち」というラジオ番組に忌野清志郎と仲井戸麗市が出演し、「OK」から何曲かをかけながら話していくという回があったが、「Oh! Baby」を聴いて女性パーソナリティーが泣いてしまったというのはこの番組のことではない。

 

高校の期末テストがあり、そのためのノートを写すためだったか一緒に勉強をするためだったかは忘れたが、同じ学年の女子を自転車の後ろに乗せて、家まで帰って来たことがあった。彼女は旭川以外の町から汽車で通学していたのだが、当麻町だったか美瑛町だったかはもう忘れてしまった。確か家が病院だったような気がする。日曜日に家に来いというので行ったら、朝まで旭川のディスコで遊んでいたとかで、頭が痛いと言ってずっと寝ているというようなこともあった。ディスコではデュラン・デュランの「プリーズ・テル・ミー・ナウ」でひじょうに盛り上がった、というようなことを言っていたような気がする。かと思えば、土曜日の夜中に電話をしてこいなどと言ってきて、もちろん携帯電話などない時代であり、家からかけていると家族に聞かれるので10円硬貨を握りしめて近所の電話ボックスまで行ってかけたりもしていた。深夜で市外通話だったので、硬貨がわりと早いペースでなくなっていったことを覚えている。

 

1年の2学期がはじまったばかりの頃、校舎はまだ移転前で旧い方だったのだが、学校祭のための万灯というのを放課後にみんなでつくっていた。FM北海道はもう開局していたのか、その前に試験的に流している期間だったのかよく覚えていないのだが、とにかくそれをラジカセで鳴らしながら作業をしていたと思う。私が親しくしていて1年の夏休みには上富良野の家に泊まりに行ったりもしていた友人は、彼女と面識があるようで、万灯をつくる作業をしていると近づいてきて少し話し、それから帰っていくような印象があった。おそらく神楽岡の駅を利用していたのだろう。常にアンニュイな雰囲気を漂わせていて、ブルーな気分だなどと言っていた。その時点でのRCサクセションの最新アルバムのタイトルが「BLUE」であり、私には彼女のようなタイプの人達と仲よくなりたいという思いでRCサクセションの音楽を聴くようになったところもあることを否定はしない。彼女と同じ町から通っている女子が同じクラスにいて、私にヘアカット100の「ペリカン・ウエスト」を買って貸してほしいと言ってきたのだが、私はマイケル・マクドナルド「思慕(ワン・ウェイ・ハート)」の方を買っていた。

 

期末テストのためのノートを写すか一緒に勉強をするか、確かそのような目的で家に来たのだと思うのだが、やはり彼女がディスコに遊びに行って大学生にナンパされた話だとか、いかに工業高校のカッコいい男子をはじめいろいろな人達と交流があるかということなどについて聞かされるような流れになった。RCサクセションの新しいレコードを買ったので聴こうということになり、「OK」をかけていたのだが、「Oh! Baby」はA面の2曲目に収録されている。「ぼくを泣かせたいなら 夜ふけに悲しい嘘をつけばいい」「ぼくをダメにしたいなら ある朝きみがいなくなればいい」というフレーズが印象的なこの曲を、私は切なくて最高のラブソングだと思っていた。しかし、この曲を聴いて彼女はこんな弱い男は嫌だ、というようなことを言った。窓の外には夕暮れが近づいていて、心の中ではブルーズが加速していった。

 

サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」でデビューしたのは1978年6月25日、私が小学6年の頃であり、その年の夏といえばサーカス「Mr.サマータイム」と矢沢永吉「時間よ止まれ」の印象がひじょうに強い。それはそうとして、当時、あまりの新しさによってコミックバンドのように見られなくもなかったサザンオールスターズは小学生の心をもがっちりと掴んだのだが、翌年の名バラード「いとしのエリー」を含むヒット曲を1979年いっぱいまでは連発していた。しかし、1980年からは音楽制作に集中するためにメディア露出を減らしていって、シングルのセールスはどんどん落ちていった。世間一般的な見え方からすると、ひじょうに地味になっているような印象を受けたのだが、その間にアルバムは発売されれば確実に1位になるというような状態になっていて、本格派のアルバムアーティストになりつつあるように思えた。

 

ところが1982年1月21日にリリースしたシングル「チャコの海岸物語」は昭和歌謡テイストで久々の大ヒット、「ザ・ベストテン」などにもランクインした上に、桑田佳祐と原由子の結婚という祝福ムードもあった。アルバムは相変わらず売れている上に、シングルもその後の「匂艶 THE NIGHT CLUB」「Ya Ya(あの時代を忘れない)」「ボディ・スペシャルⅡ(BODY SPECIAL)」が続けてトップ10入りとひじょうに理想的な状態になっていった。

 

そして、6作目のアルバムとしてリリースされた「綺麗」は当然のようにオリコン週間アルバムランキングで1位を記録するのだが、それに加えて評価もひじょうに高かった。しかも、毒舌や手厳しい批評でも知られる「ミュージック・マガジン」の中村とうようまでもが大絶賛するレベルである。確かに大衆性もありながらしっかり実験的で最先端なこともいろいろやっていて、ポップでキャッチーでありながら刺激的な作品でもあった。テクノブーム以降、日本のポップ・ミュージック全般にシンセサイザーなどの電子楽器が効果的に用いられるようになり、後にテクノ歌謡と呼ばれるようになるものなどもいろいろ生まれる。一方で、AOR/フュージョンブームの影響も受けた、シティ・ポップ的な音楽も流行っていて、大滝詠一や山下達郎のようなナイアガラ系というよりは、男性版ユーミン的な都会派シンガー・ソングライターの音楽が注目されていたような気もする。シティ・ポップの貴公子的な存在であった山本達彦などが代表例だろうか。それとは別に山下達郎のプロデュースで話題になった村田和人はカセットテープのCMソング「一本の音楽」やこの曲を収録したアルバム「ひとかけらの夏」がかなり良くて、当時、好んで聴いていた記憶がある。

 

というような当時のトレンドが入っていながらもサザンオールスターズの記名性は強烈に感じられるという、「綺麗」とはそういう素晴らしいアルバムであった。シンセサイザーの効果的な導入に加え、矢口博康のサックスがとても良かった。中国残留孤児問題をテーマにした桑田佳祐と原由子のデュエット「かしの樹の下で」、レゲエ調の「星降る夜のHARLOT」、高田みづえのカバーでヒットした原由子がメインボーカルのエレキ歌謡「そんなヒロシに騙されて」、弘田三枝子に捧げた「MICO」、関口和之によるとても不思議で最高な楽曲「南たいへいよ音頭」、大団円的な感動アンセム「旅姿六人衆」など、バラエティーにとんでいて聴きどころ満載なのだが、シングル・カットされた「EMANON」をはじめ、「NEVER FALL IN LOVE AGAIN」「サラ・ジェーン」などに感じられるAOR/シティ・ポップ的なテイストにもひじょうに良いものを感じる。いきた

 

行きたいライブのチケットが取れなかったからといっていつまでもくよくよしているわけでもなく、気持ちはわりとすぐに切り替えられるタイプなので、「OK」も「綺麗」も好きなバンドの最新アルバムとして純粋に楽しんでいた。そんな最中、「Super Jam '83」の後援企業の1つであったそうご電器の関係者が友人にいることが分かり、チケットが買えることになった。そうなると気分は俄然、盛り上がってくるというものである。FM北海道はこのライブの主催だったか後援だったはずなので、事前番組のようなものも放送していた。その中で忌野清志郎と仲井戸麗市はサザンオールスターズについて聞かれ、歴史が違うとかぶっ潰してやるとかあのフォークバンドとかそういうことをプロレス的に言ったりしていたのだが、それを聞いていたサザンオールスターズのファンがラジオ番組にそれを投稿し、桑田佳祐が気を悪くするということがあったらしい。

 

それはさておきこのライブにはあの汽車通学をしているアンニュイな女子と行くことになったので、朝早くに旭川駅で待ち合わせをした。札幌までの汽車の中では、またしても大学生にナンパをされた話などを聞かされたわけだが、どういう音楽を聴いてるのと聞かれたので、オーティス・レディングとかサム・クックとかだと答えて意気投合したとか、そういう話だったと思う。オーティス・レディングやサム・クックは確か忌野清志郎が好きだとか影響を受けたとか言っていたアーティストだったような気もするのだが、私はその時点では聴いたことがなかった。サム・クックという名前を聞いて、「ピーター・パン」に出てくる船長を思い出したりもしていたが、あれはクックではなくフック船長だった。

 

当時の札幌駅は現在に比べるとひじょうに質素であり、駅前にそごうやESTAはあったものの、買物をするならば大通公園の方という印象であった。丸井今井もPARCOも玉光堂もタワーレコードもそっちの方にあったからである。それで、やはりPARCOなどに行ったのだが、彼女はピアスを開けようとも思っているが2学期がはじまるまでには外さなければいけないので、それを考えるとやっぱりやめようと思うというようなことをずっと言っていたような気がする。それで、PARCOの中に入っている店でカレーライスか何かを食べたような気がしたのだが、PARCOを出るか出ないかぐらいの時にカルチャー・クラブの「ポイズン・マインド」を聴いたのであった。

 

この曲はイギリスではもうすでにヒットしていたのだが、アメリカではまだ「タイム」がヒットしたばかりで、次のシングルとしてはデビュー・アルバム「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」から「アイル・タンブル・フォー・ヤー」がカットされたところであり、さすがに札幌は流行に敏感だなと思わされたのであった。それよりもこの曲の躍動感あふれる感じがこの時の気分とひじょうにマッチしていて、いまとても自由だと思ったのだった。会場の真駒内屋外競技場までは札幌の市街地からそこそこ距離があったように思えるのだが、おそらく地下鉄か何かで行ったのではないかと思う。すでにたくさんの人々が集まっていて、忌野清志郎や仲井戸麗市のコスプレのような姿をした人達も見られた。

 

ウェスト・ウッドというバンドがオープニングアクトとして演奏していて、ウェストコーストロックのような音楽をやっていたと思う。当時、ティモシー・B・シュミットのバージョンが何かのテレビCMで流れていたような気がするオールディーズの曲、「ソー・マッチ・イン・ラヴ」などもやっていたはずである。それから、やはりオープニングアクトとして小山卓治とTHE CONXが演奏をした。デビューシングルの「FILM GIRL」は恋人が芸能人になるという内容の曲でそこそこ話題になっていたような気がするが、中森明菜をモデルにしているのではないかというような記事の信憑性は定かではない。ブルース・スプリングスティーン&E・ストリート・バンドのような音楽性でなかなか良かった。

 

この後、夕方ぐらいからサザンオールスターズのステージだったような気がするのだが、「綺麗」からの曲を中心に代表曲もバランスよく選曲されたとても良いセットリストだったような気がする。「いとしのエリー」「勝手にシンドバッド」までやっていたのはかなり良かった。旭川から一緒に来ていたアンニュイな女子はどうやら知り合いを見つけたらしく、いつの間にかどこかに行っていた。それで、以降のライブは一人で見ていた。最後の「旅姿六人衆」の終わりに、桑田佳祐は次はみんなが大好きなRCサクセションの登場ですというようなことを言っていて、ひじょうに大人だなと感じたりもしていた。

 

そして、少し時間があった後、RCサクセションが登場し、1曲目は「よォーこそ」なのだが、忌野清志郎がサザンオールスターズがご機嫌な演奏を聴かせてくれたぜ、とかそのようなことを言っていたような気がする。それで、その頃にはすっかり暗くなっていたような気がするのだが、ライブは「OK」からの曲を中心にかなり素晴らしく、これを見ていた桑田佳祐も泣いてしまい、完敗だったと打ち上げの席で語ったといわれている。ライブの最後ではRCサクセションとサザンオールスターズのメンバーが入り乱れて、「雨あがりの夜空に」で盛り上がり、忌野清志郎と桑田佳祐がお互いを讃え合って夜空に花火が上がった。

 

それから汽車で旭川に帰ったのだが、席がまったく空いていなく、それでも疲れきっていたので、車両と車両のつなぎ目近くの地べたに座って寝たりしていた。同じようにしている同年代ぐらいの男子がいたので話してみると、彼も「Super Jam '83」からの帰りだという。そして、違う高校の学生だというのに、私と一緒に旭川から行ったはずなのにいつの間にかどこかに行ってしまい、今頃どこにいるのかも分からない彼女のことを知っていると言っていた。旭川の駅から自転車で誰もいない真夜中の通りを走って、家に帰った。とても自由な気分でいっぱいだった。

 

この年の夏休みは留萌の親戚の家に遊びに行って、集中して勉強をするという名目で2階の部屋をずっと借りていたりもした。昼間に少し歩いて、書店やレコード店に行ったりもした。横浜ゴムのタイヤのCMで安部恭弘の「STILL I LOVE YOU」がかかっていて、レコードが欲しいなと思っていたのだが、留萌のレコード店で稲垣潤一、安部恭弘、鈴木雄大、井上監というシティ・ポップ系の4アーティストの曲を収録したコンピレーションが2,000円で売られていたのですぐに買った。