1982年の夏の思い出について。 | …

i am so disapointed.

1982年は前半に山下達郎「FOR YOU」と大滝詠一・佐野元春・杉真理「ナイアガラ・トライアングルVol.2」と佐野元春「SOMEDAY」がリリースされた年で、これらはすべてヒット作品として買って聴いていた。あとはポール・マッカートニー&スティーヴィー・ワンダーの「エボニー・アンド・アイボリー」などがヒットしていた印象がある。田中康夫「なんとなく、クリスタル」の映画版の主題歌としてポール・デイヴィス「アイ・ゴー・クレイジー」が発売され、これも買っていたのだが、他にはバーティ・ヒギンズ「カサブランカ」がヒットして、郷ひろみが「哀愁のカサブランカ」として日本語カバーしたりしていた。

 

松田聖子についてはデビュー当時、かわい子ぶりっ子などとして同性からバッシングされる傾向があったのだが、次第に憧れられる対象にもなっていった。ここまでの現象としては聖子ちゃんカットの影響などがあったが、前の年の秋に大滝詠一が提供した「風立ちぬ」をヒットさせるなどして、音楽的にも高く評価される傾向にあった。そして、1982年1月21日にリリースされた「赤いスイートピー」は呉田軽穂こと松任谷由実の作曲だが、これが人気をさらに決定的なものにした。もはやアイドルというよりは、日本のポップス界を代表するシンガーとしての印象も強くなっていたように思える。ボーカルについてはデビュー当時の伸びがあった頃が素晴らしいのだが、この頃にはより表現力がついてきていて、これはこれでまたとても良かった。

 

1980年の田原俊彦、松田聖子のブレイク以降、河合奈保子、柏原よしえ、近藤真彦などが続いたことによって、この時点でアイドルポップスはすっかりメインストリームになっていたのだが、この年にはさらに後にベストテンの常連となるアイドルが何人もデビューし、「花の82年組」などと呼ばれるようになった。松本伊代のレコードデビューは1981年の秋だったが、各音楽賞では1982年の新人という扱いだったので、「花の82年組」の1人として見なされた。他には、中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優などが「花の82年組」とされていた。ジャニーズ事務所からは田原俊彦、近藤真彦に続き、もう1人のたのきんトリオこと野村義男よりも先に、布川敏和、本木雅弘、薬丸裕英のシブがき隊がデビューし、人気を獲得していた。

 

サザンオールスターズは1978年のデビュー以降、ヒット曲を連発していたが、1980年以降はメディアへの露出を控え、音楽制作に集中するようになっていった。この結果、シングルのセールスはダウンして、世間一般的な見え方としては地味になっていたような気がする。一方でアルバムは出せば必ず1位という状態が続き、このままアルバムアーティストとしての道を歩んでいくのではないかというような気もしていた。ところが1982年1月21日にリリースされたシングル「チャコの海岸物語」は、明らかにそれまでとはテイストが違った。昭和歌謡的な曲調や田原俊彦を意識したともいわれるボーカルスタイルなど、ひじょうにインパクトが強く、この曲はオリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録し、「ザ・ベストテン」にも1979年の「C調言葉に御用心」以来、久々にランクインすることになった。この勢いのまま、次のシングル「匂艶 THE NIGHT CLUB」もヒットさせ、アルバム「NUDE MAN」は当然のように1位を記録した。

 

RCサクセションはフォーク編成だった1970年代に「ぼくの好きな先生」をヒットさせていたが、その後、不遇の時代を経て、80年代にはロックバンドとして甦った。ボーカリスト、忌野清志郎の奇抜なファッションやパフォーマンスが話題になり、「ビックリハウス」「宝島」といったサブカル系のメディアを中心に大きく取り上げられるようになっていった。1982年2月14日には忌野清志郎と坂本龍一がコラボレーションしたシングル「い・け・ない・いルージュマジック」が発売され、これがなんとオリコン週間シングルランキングで1位に輝いてしまう。バンドとしては6月23日にシングル「SUMMER TOUR」をリリースし、これもオリコン週間シングルランキングで最高6位、「ザ・ベストテン」にもランクインしていた。

 

この年、私は旭川市内の高校に入学し、受験勉強から解放されたポップなライフを送っていたわけだが、夏休みに入る少し前に親戚の集まりがあり、週末に洞爺湖かどこかのホテルに泊まった。その日も小型のラジカセを持って行っていたので、深夜にこっそり「全米トップ40」を長距離受信していた。その週の全米シングル・チャートでは、ポール・マッカートニー&スティーヴィー・ワンダーの「エボニー&アイボリー」に替わって、ヒューマン・リーグの「愛の残り火」が1位になった。この曲はシンセサイザーによってつくられたユニークなサウンドと、低い声の男性と女性ボーカルのデュエットになっていて、当時の全米シングル・チャートにあっては浮いていたような印象がある。シンセ・ポップと呼ばれるこのタイプの音楽はすでにイギリスではメインストリームになってもいたが、当時はまだアメリカのヒットチャートものしかろくに聴いていなかったので、これがとても変わった音楽のように思えた。後に大好きになるのだが、この時点ではどこが良いのか分からないというか、違和感のようなものばかりを感じていた。

 

次の日に家族で旭川に帰る前に札幌で少し時間があり、他の家族は札幌テレビ塔などに行ったのだが、私は五番街ビルの中にあったタワーレコードに行った。ここはタワーレコードの日本での1号店で、渋谷よりも早く営業を開始している。元々、勝手にタワーレコードを名乗って営業していたのを、本家タワーレコードが買収したか何かだったような気がする。この店のことを中学生時代の友人から聞いていて、高校受験の発表があったすぐ後に初めて訪れたのだった。当時のタワーレコードは輸入盤専門店だったので、ドアを開ければそこはもうアメリカという感じで、ひじょうに感激したことを覚えている。

 

それで、この短い空き時間にもこのタワーレコードに行ったのだが、お金はあまり持っていなかったので、アルバム1枚ぐらいしか買えない。いろいろ悩んだ結果、ヒューイ・ルイス&ザ・ニューズの「ベイエリアの風」を買った。元々のタイトルは「Picture This」なのだが、邦題は「ベイエリアの風」、しかも日本盤のジャケットは山下達郎「FOR YOU」や雑誌「FM STATION」の表紙などと似たようなテイストに、鈴木英人によってデザインし直されていた。もちろんタワーレコードだったので、私が買ったのは輸入盤の方である。

 

「花の82年組」では元々、松本伊代のファンだったのだが、早見優も良いと思うはじめて、ノリでファンクラブに入ったりもする。この辺り、ルックスの好みがひじょうに分かりやすくもあるのだが、早見優についてはハワイ育ちの帰国子女で、英語の発音がとても良いところも魅力的に感じられた。それで、ファンクラブの会報なども自宅に届くわけだが、それで読んだのか雑誌のインタヴューか何かだったかははっきり覚えていないのだが、ハワイにいた頃にビーチ・ボーイズとカラパナをよく聴いていたというようなことが書かれていた。片岡義男のサーフィン小説などを読んでいたこともあり、ビーチ・ボーイズはわりと気になっていたので、ここぞとばかりにミュージックショップ国原でベストアルバムを買った。「サマー・プレゼント」というタイトルの2枚組で、どうやら日本独自に選曲されたもののようだった。それでも代表曲はだいたい入っていて、「サーフィンUSA」「アイ・ゲット・アラウンド」などのシンプルな曲が好きだった。後にとても好きになる「ペット・サウンズ」収録の「神のみぞ知る」や同じぐらいの時期の「グッド・ヴァイブレーション」などは何だか複雑すぎてすぐには好きにならなかった。

 

山下達郎のベストアルバム「GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA」は7月21日に発売され、これもミュージックショップ国原ですぐに買った。山下達郎のことは1980年にヒットした「RIDE ON TIME」で初めて知ったのだが、この時点でレコードは春休みに買った「FOR YOU」しか持っていなかった。シュガー・ベイブの「DOWN TOWN」についてはEPOのカバーバージョンが「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマとして使われる前からラジオではよくかかっていたような気がするので、1980年ぐらいにはすでに知っていて、これのオリジナルを山下達郎が以前に在籍していたバンドがやっていたらしい程度の認識だったと思う。

 

というわけで、このベストアルバムには「FOR YOU」以降にリリースされた最新シングル「あまく危険な香り」や「RIDE ON TIME」、70年代の代表曲もいろいろ入っていて、ひじょうにお得感があったのであった。

 

夏休みが近づくとクラスの男子や女子でキャンプに行こうという話が持ち上がり、初めは男子でも参加予定者が多かったのだが、そのうちやっぱり行くのをやめたと言うものが続出してきた。また、一部の父兄から学校にクレームが入ったようなのだが、担任の女性教師が引率をするのでというようなことを言って説得したようである。実際に当日、現地には来たのだが、生徒達のキャンプのノリに介入することはなく、軽くチェックして帰って行ったのでとてもカッコよかった。旭川市民が海でキャンプをするといえばだいたいが留萌であり、当時は汽車も通っていたのでそれで行った。みんなテンションがひじょうに上がっていて、楽しくて良かった。留萌に着いて野菜や肉を買ったり、テントを設置したり、調理をしたりをいろいろやっていたのだが、私は女子と一緒に調理などをしていたような気がする。夜に他校の男子グループとちょっとしたもめごとになり、まるで青春映画のようにケンカがはじまったのだが、1対1の取っ組み合いになったものの、私には誰一人向かってこなかった。というか、速攻で逃げていた可能性もひじょうに高い。山下達郎とビーチ・ボーイズのカセットテープを持ってきていて、それをラジカセでかけていたのだが、ひじょうに評判が良かったといえる。

 

1学期の昼休みに田原俊彦のものまねのようなことをやっていて、一時期は他のクラスからもギャラリーが集まるほどだったのだが、この頃には完全にオワコン化していた。私は最新シングル「原宿キッス」の振り付けを「ザ・ベストテン」のビデオなども見ながら練習した上で習得し、砂浜で披露する準備をしていたのだが、いざやったもののほとんど受けなかった。男女ペアになって肝試しのようなものをやったのだが、踏切のところに地元のおばあさんがいただけで絶叫するなど、ひじょうに迷惑なことになっていた。クラスには付き合うのか付き合わないのか絶妙に微妙な男女というのもいて、気がつくといなくなったりしているのだが、しばらくして遠くから帰ってきたものの、その時は男女それぞれのテントに分かれていた。私やロータリーのところのテイラーの子息などはキャンプファイヤーを囲んで山下達郎をまだ聴いていたのだが、戻ってきた男は上半身裸でラジカセの近くに寝転んでいた。「潮騒」というひじょうに美しいバラードがかかり、山下達郎が「風を受けてる君がいとおしく 美しいくちもとに口づける」というようなことを歌うと彼はラジカセのボリュームを少し上げ、満足げな表情を浮かべるとふたたび目を閉じた。

 

後は高校1年のクラスで仲よくなった友人の上富良野の家に泊まりに行って、深夜に所ジョージのラジオを一緒に聴いていると、松本伊代の新曲「オトナじゃないの」がかかったことをなぜかよく覚えている。