菊池桃子とラ・ムーについての個人的な記憶。 | …

i am so disapointed.

菊池桃子とラ・ムーの楽曲をストリーミングサービスで聴くことができるようになった。それで、今回は菊池桃子とラ・ムーについての個人的な想い出などについて、おそらく脱線などもしながら書いていく回になりそうな気がする。というか、なる。

 

菊池桃子は1984年にシングル「青春のいじわる」でデビューするのだが、その前から雑誌「Momoko」に登場していたり、主演映画「パンツの穴」が公開されていた。この映画は雑誌「BOMB」に連載されていた同名の読者投稿ページが元になっている。学研といえば「科学」と「学習」、「中○コース」など、真面目な学習雑誌を出しているイメージが強かったのだが、1979年に「BOMB」やオカルト情報誌の「ムー」を創刊する。「ザ・ベスト・ワン」というのもあったはずである。「BOMB」にはアイドル雑誌のイメージがひじょうに強いのだが、創刊当時は投稿雑誌という色合いが濃く、「パンツの穴」は性的なテーマを扱っていたような気がする。当時、たとえば「中1コース」のような12、3歳ぐらいが読む真面目な雑誌にこのような雑誌の広告を載せていいのだろうか、と感じたりもしていた。

 

ちなみに当時の小学6年生の中には、中学生になったら学研の「中1コース」と旺文社の「中一時代」のどちらを年間購読するべきか悩む者も少なくなかった。年間購読を申し込むと特典がもらえるのだが、1979年は万年筆で「中1コース」がピンク・レディー、「中一時代」が王貞治のサインが表面に印刷されたものだったと思う。私は「中1コース」の方を年間購読していた。

 

1982年には人気女性アイドルがたくさんデビューし、後にベストテンの常連として活躍する者も少なくはなかった。たとえば中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優などであり、「花の82年組」などとも呼ばれていたのだった。

 

その影響か翌年にデビューした女性アイドルはなかなか大きくブレイクすることがなく、それでも森尾由美などはグラビアで人気があったり、後にバラエティーアイドルとしてブレイクする松本明子がいたりはした。

 

それで、1984年なのだが、この年はとにかくチェッカーズが旋風を巻き起こし、デビューした吉川晃司にも人気があり、一世風靡セピアなどもいて、男性の方に勢いがあったような印象もあるのだが、日本レコード大賞の最優秀新人賞は岡田有希子で、それに対抗するぐらい人気があったのが菊池桃子でもあった。ちなみに、岡田有希子と一文字違いの岡村有希子というアイドルもデビューしていたはずである。

 

岡田有希子は竹内まりやが書き下ろした楽曲を歌い、優等生的なイメージがあったが、実際に学校の成績がとても良かったということである。芸能界入り反対する親から、条件として愛知県内のテストのようなものでかなりの上位に入ることが提示されたのだが、それをクリアしたというような逸話もあったはずである。この年の竹内まりやといえば休業から久々に復帰し、アルバム「リクエスト」がオリコン週間ランキングで1位を記録していた。いまやジャパニーズ・シティ・ポップのシグネチャー的楽曲としても知られる「プラスティック・ラヴ」が収録されていたのもこのアルバムである。よくいわれることだが、このアルバムには全体的にオールディーズ的な印象が強く、「プラスティック・ラヴ」はアルバムの中でもちょっと異質な楽曲のように思えた。

 

それはそうとして、「パンツの穴」という映画を私は見てはいないのだが、確か主人公を演じた山本陽一の役名がムキンポで、全体的に下ネタテイストが漂うものとして認知されていたと思う。桃子という名前も当時としてはどこか変わっているように思えたし、デビューシングルの「青春のいじわる」というタイトルも、なにか狙いすぎているのではないかというような印象があった。しかし、どんどん人気が上がっていき、夏には2枚目のシングル「SUMMER EYES」が発売されるということであった。

 

当時、夏休みといえば札幌の親戚の家に泊まらせてもらい、タワーレコードに行ったりすることが恒例になっていた。タワーレコードの日本1号店は渋谷ではなく札幌であり、しかも、勝手にタワーレコードという店名を名乗って営業をしていたレコード店をアメリカのタワーレコードが買い取ったのだという。当時のタワーレコードは輸入盤専門店だったので、ドアを開ければそこはもうアメリカという感じでなかなか刺激的であった。プリンスの「パープル・レイン」やブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」などが売れまくっていた夏である。

 

それで、菊池桃子のキャンペーンがデパートの屋上で行われるということだったので、せっかくなので行ってみることにした。キャンペーンとはアイドルや歌手などが歌を歌い、場合によっては握手会やサイン会があったりもするやつであり、今日でいうところのリリイベことリリースイベントである。私は高校3年にして、そういうのに参加するのが初めてであった。握手会には「SUMMER EYES」のシングルを買えば参加できるということだったので、せっかくなので買ったわけだが、握手会そのものについてはふわふわしていてあまりよく覚えていない。しかし、握手をした手はとても良い香りがして、菊池桃子は当時、コロンのようなもののCMに出ていたような気もするので、おそらくそれなのだろうなと思ったりもした。手を洗うのがもったいないとも思ったのだが、もちろん普通にその日のうちに洗ったとは思う。

 

菊池桃子のボーカルにはそれほど安定感があったわけではなく、ウィスパーボイスのようなものに近かったような印象がある。それで、この「SUMMER EYES」という楽曲そのものはいまでいうところのシティ・ポップというのだろうか、そういうわりと都会っぽい感じだったので、そのギャップがなかなか面白かった。作曲が林哲司というのはいまならば納得なのだが、当時はそれほどクレジットを気にかけているわけでもなかった。この頃、わりとヘビーな片想いをしていて、個人的な考えでは恋愛というのは好きになった方が完全に悪いのであり、望んでもいないのに勝手にそういった気持ちの悪い思い入れを持たれた方はたまったものではないだろう、と感じていた。もちろんそれが受け入れられるに越したことはないのだが、もしそうだとすればそれは運が良かっただけだと、わりとそのように感じていた。にもかかわらず、自分はこんなにも相手のことが好きなのに、相手はまったく振り向いてくれない、というような思想は幅を利かせていて、そういうのはなんて醜いのだろうと感じていたわけである。

 

そこへいくと、「SUMMER EYES」で菊池桃子は「悪いのは私 困らせてばかり ごめんね好きだったこと」と歌っている。実に健気で素晴らしい。これで、ますます好きになった。もちろん、生で歌うところを見たり握手会に参加したことが大きな原因になっていることは間違いないのだが、基本的には音楽ファンであり、アイドルもあくまで曲が好きだから聴いているという設定でやっていたため、(つまり、いまでいうところの「楽曲派」的なスタンスということか。というか、当時からやっていることはまったく変わっていないのではないか、というご指摘は今回は無しで)、こういった辻褄合わせはある程度、必要だったのであった。ちなみに、作詞はおニャン子クラブやとんねるずをヒットさせる前の秋元康である。

 

 

それから、デビュー・アルバムの「OCEAN SIDE」がリリースされるのだが、これが実にヤバい代物であった。シングル「青春のいじわる」「SUMMER EYES」は収録されているものの、全体的にフュージョンというかAORというかシティ・ポップというか、サウンドがものすごくカッコいいのである。サウンドだけならば松任谷由実や山下達郎や杏里などと同様に、大学生のカーステレオでヘビーローテーションされても何ら違和感はない。しかし、現実的にそうならなかったのは菊池桃子のボーカルによるところであろう。ファンとしてはこれがまたたまらないわけだが、どうにもサウンドにはマッチしていないようにも思えた。しかし、そのミスマッチ的なところもとても良い、というような感じで楽しんではいたのであった。

 

ところで、当時、菊池桃子が所属していたトライアングルプロダクションの社長がかつてGSをやっていたり、ベイ・シティ・ローラーズの映像を海外から買いつけて日本で上映したりしていた人らしい。後にヘヴィーメタルバンド、ラウドネスとして世界的にも成功するバンドの前身はレイジーといって、アイドル的な売り出し方をされ、「赤頭巾ちゃん御用心」という曲をヒットさせたりもしていた。かまやつひろしに誘われて、ロックがやりたくて東京に出てきたのだが、所属した事務所の社長は日本のベイ・シティ・ローラーズのような売り方をしたかったらしく、対立しながらも嫌々やっていたらしい。当時、トライアングルプロダクションの社長は若かりし日の角松敏生とも仕事をしていて、レイジーをプロデュースさせようともしていたようだが、うまくいかなかったらしい。その後、レイジーは本来たりたかった音楽を追求するようになり、ラウドネスとして成功していくのだが、トライアングルプロダクションはその後に杉山清貴&オメガトライブで成功を収めることになる。この社長はどうやらハードロックのような音楽が嫌いで、後にシティ・ポップと呼ばれるようになるような音楽が好きだったようだ。それで、新人アイドルの菊池桃子もこのような音楽をやることになったのだろうか。

 

 

さて、当時の私が高校生活を送っていたのは旭川だったので冬の訪れは早い。RCサクセションのアルバム「FEEL SO BAD」が発売されたのはこの年の11月23日だったのだが、その頃、同級生などがやっているスターリンのコピーバンドが西武百貨店にあったライブハウスでライブを行うことになっていて、1曲ゲストで出るようにいわれていた。スクールカースト(という言葉そのものは当時まだ使われていなかったとはいえ)的に断ることはできなかったし、実際に出たくないわけではまったくない、というかむしろ喜んでいたぐらいなので、日曜日に待ち合わせて練習に行ったのだが、その前にミュージックショップ国原でこのRCサクセションの「FEEL SO BAD」を買って、すでに雪が積もっていた。

 

菊池桃子の3枚目のシングル「雪にかいたLOVE LETTER」が発売されたのは11月1日なので、これよりは少し前であった。タイトルはパット・ブーンなどで知られる「砂に書いたラブ・レター」のもじりであろう。今回も作詞が秋元康で作曲・編曲が林哲司だったのだが、それまでほど大好きな曲調ではなかった。とはいえ、ひじょうにキャッチーであり、これは売れそうだなと感じると同時に、冬の街のなんだかせかせかするような感じにも合っているように思えた。個人的には大学受験が近づいていて、数ヶ月後には実家を出て東京で生活することになるのだというようなファクター、そして、ヘビーめな片想いをしていたこともあり、そういった切なさが加速していくような感じにフィットしてもいた。曲そのものも片想いをテーマにしていて、菊池桃子の不安げなボーカルに健気さを感じたり、最後らへんの「メリークリスマス」というささやきがたまらなく良いなと思ったりしていた。

 

 

当時、私が通っていた高校というのが進学校でもなければ就職に強いわけでもないという実に中途半端なポジションにあり、それでも東京の大学を受験しようという生徒はまあまあいた。そのうちの何人かと受験シーズンにはホテルの部屋を行き来したりもしていた。真夜中に部屋の電灯を消して、ラジオでは文化放送の「ミスDJリクエストパレード」がかかっていた。その年は、「卒業」というタイトルのそれぞれ別の曲がいくつかヒットしていて、その時には尾崎豊の「卒業」がかかっていた。「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」というフレーズが印象的な曲である。

 

私は「M-1グランプリ2019」をコーンフレークをテーマにした漫才で優勝し、ブレイクを果たした漫才コンビ、ミルクボーイのネタをその少し前から評価していた者だが、その中で尾崎豊が不良の象徴ということになっているらしいと知って違和感を覚えた。確かに尾崎豊は「15の夜」という曲で「盗んだバイクで走り出す」といった犯罪について歌ってはいたのだが、不良というよりは不良っぽくありたいナイーヴな青年という印象だったからである。

 

とはいえ、その時のわれわれはそんな尾崎豊の曲のメロディーに合わせ、教師や友人などの面白エピソードや悪口などを歌詞にしては歌い、大爆笑というくだらないことをやっていた。そして、ふと途切れた瞬間に友人の一人が「卒業なんかしたくねえよ」と言い、それから沈黙が訪れた。女子大生だったかタレントだったかは忘れたのだが、とにかくDJが次の曲を紹介し、今度は菊池桃子の「卒業-GRADUATION-」がかかった。

 

東京の真っ暗なホテルの部屋のラジオであの時に流れたこの曲のイントロが実にセンチメンタルで、その時のことをいまでもはっきりと思い出すことができる。これもまた秋元康と林哲司による作品であり、楽曲のクオリティーもひじょうに高かったのだが、菊池桃子のボーカルも安定してきて、堂々としたものになってきたなと感じさせた。この曲で菊池桃子は初めてオリコン週間シングルの1位に輝き、それはこの後、7作連続にわたることとなる。

 

 

もはや菊池桃子は誰もが認めるトップアイドルという感じになっていて、そうなるともう私が応援する必要もないのではないかというような、私にはありがちな気分になってきて、それ以降は菊池桃子のレコードも買わず、芳本美代子のデビューシングル「白いバスケット・シューズ」を推していたりもした。「夕やけニャンニャン」からおニャン子クラブがデビューして、派生ユニットやソロデビュー組などもヒットチャートを席巻していく。岡田有希子は尾崎亜美によるシティ・ポップ的な「Summer Beach」や竹内まりやの「哀しい予感」をリリースし、秋からは「禁じられたマリコ」というテレビドラマに主演していた。特殊能力を持つ少女を演じる姿をエキセントリックに感じることなどもあったが、それをネタ的に消費したりもしていた。

 

基本的に高校を卒業して早く東京に出ていきたかったのだが、妹とは仲が良かったので、それはまあまあ淋しかった。夏休みに短い間、帰省すると、私が買わなくなってから妹が菊池桃子のレコードを買い揃えていた。シングルだけではなく、LPまで全部買っているようだった。

 

大学に入学し、小田急相模原に引越してからは、アイドルにあまり興味がなくなった。いろいろ忙しくなったからというのもあるが、大学のオリエンテーションが終わって、レコード店で岡田有希子の「ヴィーナス誕生」を買って、少し聴いたところでジャケットを壁に立てかけたままテレビをつけると、彼女が昼間に事務所のビルの屋上から飛び降りて、もうこの世にはいないことを知ったのも大きい。その原因についてはいろいろな憶測があったが、このアイドルビジネスというシステムに少なからず加担した自分にも責任があったのではないか、と感じたりもした。これはあまりにもナイーヴすぎる考えだったのではないかといまならば感じたりもするが、実は当時、同じようなことを考えていた人達はけして少なくはなかったと後に知ることになった。

 

その後も、菊池桃子はヒット曲を出し続け、実家に帰ると妹もレコードを買い続けているようだった。他にはレベッカや爆風スランプや白井貴子などのレコードも買っているようだった。88年の春休みにも私は帰省をしていて、RCサクセション「MARVY」やパール兄弟「ブルー・キングダム」を旭川のレコード店で買ったはずである。そして、最後の日に「ロッキング・オンJAPAN」でたまたまインタヴューを読んで気になった岡村靖幸の「19(NINETEEN)」を真夜中のFMで聴き、心をつかまれるのであった。ザ・スミスは前の年に解散していて、私はパブリック・エナミーやLLクールJといったヒップホップを好んで聴くようになっていた。

 

実家で家族とテレビを見ると、菊池桃子が新しく結成したロックバンドだといわれる人達が演奏している。バンド名はラ・ムーで、曲は「愛は心の仕事です」である。音楽的にはロックというよりも、ファンクやR&Bなのではないだろうか。ソウルフルな外国人女性コーラスまで従えている。サウンドは確かにカッコいいのだが、ボーカルが菊池桃子以外の何物でもない。あのウィスパーボイス的にも聴こえる感じである。アイドルポップスの歌手としてはなんとなく確立されてきた感じではあったのに、またしてもデビュー当時に感じられたようなミスマッチの妙を楽しむタイプなのだろうか、などと感じたりもした。妹ともこれはネタ的に消費するべきなのではないかという結論に至ったし、世間一般的な見方もそれにわりと近かったのではないだろうか。

 

その後、何枚かのシングルと1枚のアルバムを発表するが、そのうち話題にならなくなり、いつの間にか解散していたような印象がある。アイドルによるロック・バンドというのがこの時期に流行っていたのか、本田美奈子もMINAKO with WILD CATSというバンドで活動していた。こちらは音楽性もロックであり、本田美奈子のボーカルにも合っていたように思える。最初のシングルは忌野清志郎が提供した「あなたと、熱帯」で、「熱帯」が「寝たい」のようにも聴こえるという仕掛けが組み込まれていた。

 

時は流れて、90年代半ばに明大前の広告代理店で働いていた。「ダウンタウンのごっつええ感じ」が流行っていて、月曜には会社の上司や先輩から昨日は見たかと聞かれたものだが、見ていなかったのでそう答えると、だからお前はダメなんだよというようなことを言われた。休みの日には何をしているのかと聞かれたので、渋谷にCDや本を買いに行っていると答えたのだが、そうするとなるほど「渋谷系」かといわれた。

 

フリッパーズ・ギター、ピチカート・ファイヴ、Original Loveのような音楽をどうやら「渋谷系」と呼ぶらしく、それらのCDやレコードは渋谷のHMVの1階に行くと買えるようだった。しかし、「渋谷系」の人達というのは、クラブなどで行われているDJイベントに行ったり、一般の音楽ファンなのだがDJ目線でレコードを選んだりとそういうことをしている人達のことを厳密には指すと思われるため、私はけして「渋谷系」ではなかったといえる。

 

「今日は渋谷で5時」と歌われる曲を鈴木雅之と菊池桃子がデュエットで出していて、明大前の広告代理店で働いていた専務ですら、私が渋谷に行くというとそのフレーズを口ずさむほど有名だったと思われる。彼女はいまでこそ仕事人間だが、昔は銀座でハーレーの後ろに乗っていた、というようなことを言っていた。

 

それで、93年の秋ぐらいから近所の女子大生と付き合うのだが、付き合ってほしいという電話をもらった日は、小沢健二のライブから帰って来たところだと言っていた。初のソロアルバムが出たばかりの頃で、「渋谷系」の王子様と呼ばれていたかどうかは定かではない。「ロッキング・オンJAPAN」から市川哲史が退社して「音楽と人」を立ち上げて、山崎洋一郎の色が濃くなったところで判型を小さくして「渋谷系」のアーティストを積極的に掲載していたのがこの頃であった。

 

おそらくそれぐらいの時期に、鈴木雅之と菊池桃子の「渋谷で5時」は流行っていたような気がする

 

 

DJイベントのようなものには私はおそらく一生縁がないのだろうと思っていたのだが、2016年の5月に好きなアイドルがDJをやるということで、渋谷の地下にあるクラブに行ったのだった。その日はアイドル以外にも何人かDJが出演し、その中にECDもいたのであった。蛭子能収がデザインした東京オリンピックのTシャツを着ていたような気がする。「憧れのニューエラ」「Tony Montana」などをライブでやった後、日本の懐かしのポップスを中心としたDJになり、これがいわゆる和モノDJというやつか、と軽く感激していたのだった。そこで、ラ・ムーの「愛は心の仕事です」を久々に聴いて、これは実はかなりカッコいいのではないかと感じていたところ、実は再評価されているということであった。この曲がリリースされた頃にまだ幼かったり生まれてすらいなかった人達の中には、普通にカッコいいしどうしてこれが当時、ネタ消費されていたかが分からない、というような意見もあるようだ。