とある投票活動のために80年代の音楽生活を振り返ってみる必要があるのではないかと考えたのだが、こういうのはいつの間にか締め切りが過ぎてしまっているので、もうすでにさっさと投票は済ませているのだった。
しかしまあそれとは別にやっておくのも乙なもの、という訳でやっていきたい。
とはいえ、音楽活動といっても実際に自分自身で歌唱や演奏をしていたという訳ではなく、ただ単にラジオやテレビやレコードやCD、時にはライブで聴いていただけである(友人がやっていたザ・スターリンのコピーバンドなどのライブに飛び道具的にゲスト出演したことはあったが)。
まず、1980年から。この年はいつの間にかテクノブームが到来していて、YMOのレコードを聴いている人達が多かったのだが、私はプラスチックスを聴いたり、ロゴマークを教室の机に落書したり、そういうことをいろいろやっていた。それからそろそろ洋楽を聴きはじめた方がモテるのではないかと思い、旭川の光陽中学校の近くにあったレコードも売っている時計店でポール・マッカートニー「カミング・アップ」のシングルを買った。特に元ビートルズだからとかそんなことではなく、単純にラジオで聴いてカッコいい曲だと思ったからである。それから、妹の幼稚園の運動会を観に行っていた日曜日に自転車で旭川市街地に行き、ミュージックショップ国原でビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」の輸入盤を買った。この年の夏休み、父にはじめて東京に連れてきてもらった。
1981年にはラジオ関東の「全米トップ40」を聴くなどして、全米ヒットチャートをチェックするようになる。当時ヒットしていたブロンディ「夢みるNO.1」「ラプチュアー」、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「キッス・オン・マイ・リスト」、キム・カーンズ「ベティ・デイヴィスの瞳」、スモーキー・ロビンソン「ビーイング・ウィズ・ユー」などのシングルを買ったことが思い出される。また、全米チャートでは「ロッキング・オン」の渋谷陽一が産業ロックなどと呼んでいるタイプの音楽がとても流行っていて、私もREOスピードワゴン「禁じられた夜」、スティクス「パラダイス・シアター」、ジャーニー「エスケイプ」、フォリナー「4」などを旭川のミュージックショップ国原や玉光堂などで買い、ありがたがって聴いていた。NHK-FMの「軽音楽をあなたに」でそれまで名前ぐらいしか知らなかった佐野元春の音楽を初めて聴いて、これこそが求めていた音楽だと軽い衝撃を覚えた。この年には大滝詠一の「A LONG VACATION」がヒットしていたが、普通に流行りの音楽として楽しんでいた。その大滝詠一のナイアガラ・トライアングルに佐野元春も抜擢され、秋に「A面で恋をして」がスマッシュヒット、翌年のアルバム「SOMEDAY」でのブレイクへとつながっていく(タイトルソングはすでにシングルで発売されていたが、オリコン週間シングルランキングには入っていなかった)。
1982年には「花の82年組」といって、新人女性アイドル達が大活躍した。70年代後半はニューミュージック全盛で、歌謡曲ではベテラン勢がひじょうに強く、新人アイドルには受難の時代であった。80年代に入ってから松田聖子、田原俊彦、近藤真彦などの活躍によって、アイドルポップスがまた盛り上がっていった。アイドルの曲をニューミュージックやテクノポップの有名アーティストが作るケースもひじょうに多く、こういったアイドルポップをポップ・ミュージックとしてちゃんと評価するという動きも一部で活発化していった。イギリスではこの前の年からシンセサイザーなどを使用したエレポップが流行していたが、この年にはアメリカでもヒューマン・リーグ「愛の残り火」が1位になったりソフト・セル「汚れなき愛」がロングヒットするなど、その勢いが飛び火したような印象がある。これにはこの前の年に開局した音楽専門ケーブルテレビチャンネル、MTVの影響もひじょうに大きかったような気がする。高校入試の合格発表直後、札幌のタワーレコードに初めて行った。当時は現在とは違い、輸入盤専門店であり、ドアを開ければそこはもうアメリカとでもいうような感覚(客も店員もおそらくほとんど日本人だったが)に大きな興奮を覚えた。秋には「ベストヒットUSA」の放送がついに北海道でも開始され、道民にとって初の民放FM局としてFM北海道が開局した。
1983年には全米シングル・チャートでカルチャー・クラブやデュラン・デュランといった、イギリスの新しいアーティスト達がヒットを連発し、この現象は第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンと呼ばれた。ちなみに第1次のそれは、ビートルズやローリング・ストーンズが活躍した60年代に起こった。また、前の年の12月にリリースされたマイケル・ジャクソンのアルバムから「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」が続けて全米シングル・チャートの1位に輝いた。いずれもヴィジュアル面に力が入れられていたことが特徴であり、MTVがヒットチャートにも本格的に影響を及ぼしてきたことが感じられる。つい3年前に空前のテクノブームを巻き起こしたYMOだったが、この年いっぱいで解散ならぬ散開した。テクノブームそのものは短命だったが、その影響は日本のポップ・ミュージックに強い影響をあたえ、後にテクノ歌謡と呼ばれ再評価されるタイプの楽曲も多く生まれた。秋に高校の修学旅行があって、東京での自由行動の時間にオープンして間もない六本木WAVEに行った。ここは天国かと思ったのと同時に、卒業したらやはり東京に出るしかないだろうという気分が加速していった。あとは夏休みにRCサクセションとサザンオールスターズの対バンライブというひじょうに貴重なものを札幌で体験したことは、忘れがたいものである。
1984年、日本ではチェッカーズが旋風を巻き起こし、吉川晃司、岡田有希子、菊池桃子などがデビューした。安全地帯「ワインレッドの心」、高橋真梨子「桃色吐息」、小林麻美「雨音はショパンの調べ」といった大人向けのポップ・ミュージックが流行したことも特徴的である。アメリカでは前の年に「リトル・レッド・コルヴェット」で初のトップ10入りを果たしたプリンスが主演映画「パープル・レイン」とそのサウンドトラックによって、本格的に大ブレイク、ポップ・アイコンとなっていった。また、70年代から活躍するカリスマ的なロック・アーティスト、ブルース・スプリングスティーンが「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」を大ヒットさせたり、マドンナが2作目のアルバム「ライク・ア・ヴァージン」からの先行シングルでスターダムにのし上がるなど、スーパースターの時代とでもいうべき時代が訪れつつあった。この年の末にイギリスでは人気アーティスト達が参加したバンド・エイドによるチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」が大ヒット、翌年のU.S.A.フォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」やチャリティーイベント「ライヴ・エイド」へとつながっていく。ブレイクの真っ只中に単身渡米した佐野元春は、当時、アメリカで流行していたヒップホップの要素を取り入れた斬新なアルバム「VISITORS」と共に帰国して、ファンを興奮させたり困惑させたりしていた。サザンオールスターズはAOR/シティ・ポップ的な楽曲よりもテクノ歌謡的な要素も感じられる「ミス・ブランニューデイ」をアルバム「人気者で行こう」からの先行シングルとしてリリースし、ロングヒットを記録した。夏休みに札幌のデパートの屋上で開催された菊池桃子のキャンペーン(現在でいうところのリリースイベント)に参加、アイドルの握手会というものを初めて体験する。
1985年といえば秋に発表されたプラザ合意がバブル景気のはじまりとされるが、この年には4月にフジテレビで「夕やけニャンニャン」が放送開始、おニャン子クラブととんねるずと秋元康が全国的にブレイクし、野々村文宏、中森明夫、田口賢司は新人類トリオとしてメディアに露出したりもするが、PARCO出版から刊行されていたサブカルチャー的な雑誌「ビックリハウス」は休刊、ティアーズ・フォー・フィアーズ「ルール・ザ・ワールド」、シンプル・マインズ「ドント・ユー?」といったヒット曲のメジャーなサウンドは新しい時代を感じさせた。シャーデーやザ・スタイル・カウンシル、あるいはスクリッティ・ポリッティやプリファブ・スプラウトといったタイプの音楽さえ、西麻布のカフェバーに似合う感じだったが、とんねるず「雨の西麻布」もこの年であり、業界ノリがネタとして消化されたりもした。
1986年4月8日、岡田有希子が自らの命を絶ち、若者達の後追いが続く。これは「ユッコ・シンドローム」と呼ばれたりもする。尾崎豊が「十七歳の地図」でデビューしたのが1983年、軽薄化する時代の一方で、こういった真面目なタイプのロックと呼ばれる音楽も若者の間で流行ったりはする。この年にオリコン週間シングルランキングで1位に輝いた渡辺美里「My Revolution」などもそういった例か。RUN D.M.C.がエアロスミスをカバーしたのみならず、コラボレートもした「ウォーク・ジス・ウェイ」がメジャーに売れたことにより、ヒップホップの一般大衆への浸透が加速していく。近田春夫はPRESIDENT B.P.M.名義でラップのレコードをリリースしはじめる。R&Bからの影響を強く感じさせる久保田利伸が「失意のダウンタウン」でデビューしたのも、この年である。はじめてのCDプレイヤーを本厚木の丸井で買った。
1987年、ザ・スミス解散。一方、パブリック・エナミー、LL・クール・J、ビースティ・ボーイズといったヒップホップのアーティスト達が高い評価を得る。日本ではバンドブームが盛り上がりを見せていたのだろうか。THE BLUE HEARTS「人にやさしく」、BOØWY「MARIONETTE」などがこの年にリリース。ハウス・ミュージック、レア・グルーヴなどが最先端だとされていたような気がする。日本ではバンドサウンドが大衆化する一方、洋楽ではロックではない音楽の方がカッコいいとされていた印象が強いが、実はハード・ロックがかなり盛り上がっていた。ガンズ・アンド・ローゼズ「アペタイト・フォー・ディストラクション」もこの年。あとは、ピチカート・ファイヴの「カップルズ」なども出ている。ワム!を解散したジョージ・マイケルが「FAITH」をリリース、翌年にかけてヒットを連発する。
1988年、個人的には岡村靖幸とエレファントカシマシばかり聴いていた印象。他にはプラスチックスや近田春夫&ビブラトーンズが初CD化されたりして、とても良かった。洋楽ではスクリッティ・ポリッティとかプリンスとかトーキング・ヘッズとかザ・スタイル・カウンシルとかシャーデーとか、それまでも好きだったアーティストの新作が出たので買うが、いずれも最高傑作ではないという感じではある。それで、やはりパブリック・エナミーとかが一番カッコいいな、という気分ではあった。RCサクセションの「カバーズ」騒動なんていうのもあった。
昭和が終わり平成になって、私は相模原から柴崎に引越した。岡村靖幸の「靖幸」がとにかく圧倒的すぎてこればかり聴いていた訳だが、いとうせいこう「MESS/AGE」にも日本語の音楽でこんなにもすごい表現ができるのか、と度肝を抜かれた。デ・ラ・ソウル「3フィート・ハイ・アンド・ライジング」はダリル・ホール&ジョン・オーツやスティーリー・ダンをサンプリングしていたりして、ヒップホップでかなりすごいのだが、親しみも感じられるという点がとても良かった。ポール・マッカートニー、エルヴィス・コステロ、ルー・リードなど、ベテランのアルバムをわりと聴いていたような気もする。ロック雑誌などで話題になっていたザ・ストーン・ローゼズの当時は「石と薔薇」という邦題がついていたアルバムを買って聴くものの、どこが新しいのかよく分からずに、そのうち手放してしまったのだった。表面的なサウンドの新しさをかなり重視する、ひじょうに狭くて浅い音楽の聴き方をしていたなといまならば分かるし、後に買い直し、その素晴らしさも理解できてよかった。
とまあこんな感じでひじょうに駆け足ではあるのだが、なんとなく振り返ってはみたものの、かなり抜け落ちているものがあるような気はひじょうにしている。