1980年8月7日頃の日本のヒット曲について。 | …

i am so disapointed.

1980年8月7日は木曜日だったので、「ザ・ベストテン」の放送があった。その日のランキングなどを見たりしながら、当時の日本のヒット曲について、いろいろ思い出したりしていく回である。どうしてこの日をピックアップしたかということについてだが、私はこの翌日に初めて東京に連れて行ってもらうことになっていて、この日が東京に行ったことがない最後の日になったから、というきわめて個人的な理由である。

 

この日の「ザ・ベストテン」を実際に観たのかどうかはよく覚えていないのだが、この前の週、7月31日は寝てしまって見逃がしていた。なぜはっきり覚えているかというと、「順子」がランクインしていた長渕剛が珍しく出演したのだが、それを見逃がしてしまったという痛恨の思いがあったからである。当時の長渕剛には強面なイメージは無く、優しい好青年という雰囲気であった。まったくの余談だが、「M-1グランプリ2019」で優勝し、いまやすっかり売れっ子になった漫才コンビ、ミルクボーイは長渕剛の「俺らの家まで」とスーパーファミコン用のゲームソフト「スーパードンキーコング」のBGM、「バナナジャングル」を出囃子に使っていた。当時の任天堂ゲームソフトのサウンドトラックCDには、ひじょうに高値で取り引きされているものが多く、この「スーパードンキーコング」のサウンドトラックにも4万円ぐらいが相場となっている。

 

それはそうとして、この週のランキングなのだが、もんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」が5週目の1位を記録している。5週連続ではなく、途中、山口百恵の「ロックンロール・ウィドウ」に抜かれるのだが、また抜き返していた。

 

オリコンの週間シングルランキングがレコードの売り上げによるものなのに対し、「ザ・ベストテン」のランキングは他に有線放送やラジオやハガキのリクエストなども集計されていたはずである。よって、両者には違いが生じる。この年の夏でいえば山下達郎の「RIDE ON TIME」はオリコン週間シングルランキングでは最高3位のヒットを記録したのだが、「ザ・ベストテン」にはランクインしなかった。しかし、もんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」はオリコンでも「ザ・ベストテン」でもヒットしていた。もんたよしのりのハスキーなボーカルが何よりも印象的だったのだが、夜の盛り場のムードとでもいうようなものが、当時、中学生だった私のような者には大人の世界を感じさせた。

 

1980年といえば、テクノ、アイドル、漫才が流行した年というイメージがあり、前年までのニューミュージック的な暗くて真面目な雰囲気から、一気に世の中がライトでポップになったような印象がある。アーティストでいうと、イエロー・マジック・オーケストラ、田原俊彦、松田聖子、そして、年始からパラシュートを背負って「TOKIO」を歌っていた沢田研二などが、そのイメージの構築に貢献したように思える。

 

しかし、ヒット・チャートではまだ、ニューミュージックや演歌が検討していた。この週の「ザ・ベストテン」にランクインしていたアーティストでいうと、ニューミュージックでは長渕剛、オフコース、演歌ではロス・インディオス&シルヴィア、八代亜紀、五木ひろしがいる。とはいえ、オフコースはより都会的なサウンドを志向していたし、八代亜紀の「雨の慕情」は「雨々ふれふれ」のところのアクションが若者にも受けるなど、わりとポップに消費されていたがゆえのヒットという側面もあったような気がする。

 

「ザ・ベストテン」にはランクインしていないが、オリコンの週間シングルランキングでは10位以内にランクインしていたアーティストとしては、さだまさしとアリスがいるがいるのだが、翌週と翌々週には初登場している。

 

さだまさしの「防人の詩」は映画「二百三高地」の主題歌で、ラジオでもよくCMが流れていた。この映画には戦争を美化しているのではないかというような意見もあり、主題歌を歌っているさだまさしに対しても、右翼的だという批判が向けられたりもしていたと思う。しかし、無邪気な中学生であった私たちは、「海は死にますか 山は死にますか」というような歌詞を面白がったり、替え歌にしたりして楽しんでいた。

 

アリスは1970年代の終わりごろ、特に男子から絶大な人気があったような記憶がある。1979年ぐらいに私が通っていた中学校でレコードコンサートという催しがあり、それは放送部の部員が生徒たちのリクエストに応えて、視聴覚室でレコードをかけるというようなものであった。そこでは、松山千春派の女子とアリス派の男子との間で言い争いが起こったりもしていた。

 

アリスの「狂った果実」は充電期間を経てのリリースだったような気がなんとなくするのだが、鈴木ヒロミツが司会をしていた「HOT TV」という日曜昼のテレビ番組で、プロモーションビデオが流れたような記憶がある。どことなく暗さを感じる歌詞とメロディーで、そもそもアリスの音楽自体、それほど明るいものではなかったのだが、イエロー・マジック・オーケストラの「ライディーン」や田原俊彦の「哀愁でいと」などがヒットしていた時分においてはその暗さがかなり際立ち、時代の空気感との乖離のようなものを感じたりもした。歌詞にも時代の風潮を批判するようなニュアンスがあったような気がする。

 

同じくニューミュージックに分類されていたのが、オフコースなのだが、小田和正の人気は一部の女子の間ですごいものであった。しかし、真面目で暗い女子が多かった印象であり、遊んでいるタイプの女子はシャネルズなどを支持していたと思う。

 

デビュー・シングルの「ランナウェイ」がいきなり大ヒットして、順調なすべり出しとなり、次のシングル「トゥナイト」も好調だったのだが、一部のメンバーが遠征先で未成年の女性と不適切な交流をしたことが発覚し、謹慎を余儀なくされた。

 

話をオフコースに戻すと、この時にヒットしていたのは「YES-NO」である。当時のオフコースはAOR的な音づくりをしていたりして、本来ならばシティ・ポップ的な文脈で評価されるべきではないのか、などとも思っているのだが、そのイメージゆえなのか、なかなかそうはなっていないようである。そして、この曲においては、「君を抱いていいの 好きになってもいいの」という衝撃のフレーズも登場する。これなどはある意味、アイドルポップ的な魅力の一部を体現してもいるようである。

 

田原俊彦の「哀愁でいと」が「ザ・ベストテン」に初登場した時に受けた衝撃については先月にこのブログで書き、実はかなりの数の方々に読んでいただけたようである。とにかく明るくて軽快で華があって最高だったのだが、松田聖子が「青い珊瑚礁」で「ザ・ベストテン」に初ランクインを果たすのは、この翌週のことである。この約1ヶ月前に、岩崎良美と一緒に「今週のスポットライト」で出演はしていたのだが、ランクインしたのはこの週が初めてである。

 

オリコン週間シングルランキングの11位以下を見ていくと、11位にはジャニス・イアンの「ユー・アー・ラブ」がランクインしている。草刈正雄が主演した角川映画「復活の日」の主題歌であり、CMをよくラジオで耳にした記憶がある。イエロー・マジック・オーケストラの「ライディーン」もランクインしているのだが、この曲を収録したアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」がこの年の年間アルバムランキングで1位になるほど売れていたにもかかわらず、シングルもヒットしていたというところに、当時のブームの裾野が広かったことを感じさせられる。

 

山下達郎の「RIDE ON TIME」も、まだ20位以内にランクインしている。本人が出演したカセットテープのCMがテレビでよく流れていて、シティ・ポップ的な音楽のお茶の間化に大きく貢献した。斉藤哲夫の「いまのキミはピカピカに光って」はミノルタカメラのCMソングで、まだ熊本の大学生だった宮崎美子が木陰で人目を気にしながらジーンズを脱ぎ、水着姿になるCMは話題になった。そして、80年代的なポップでライトな気分を体現していたようにも思える。

 

当時の私はこのようなヒット曲の世界をとても好んで、見たり聴いたりしていたのだが、私自身とその世界との間には、東京という都市の存在が大きく立ちはだかっていた。それは、まだマスメディアを通してしか知りえないものであった。その東京に、ついに遊びに連れて行ってもらえることになった。その前夜はとてもわくわくしていたのではないかと思うのだが、その時にはこのような曲の数々がヒットしていたのだった。