「HOKKAIDO SUPER JAM ‘83」に行った日のことについて。 | …

i am so disapointed.

1983年8月6日に札幌の真駒内屋外競技場で行われた音楽イベント、「HOKKAIDO SUPER JAM '83」についてはこれまでに何度も書いているのだが、今年も懲りずにまた書いていく。なぜなら、いつか完全に忘れてしまうかもしれないのと、時の経過につれて記憶のディテールや確かさが変わっていったり、新たに入った情報により、印象が違っていったりする可能性も考えられるからである。

 

その日の朝は、旭川の自宅で目を覚ました。旭川駅で朝早くから待ち合わせをしていたのだが、それにしても早く起きすぎてしまったので、サザンオールスターズの「綺麗」を録音したカセットテープをパイオニアのステレオ、プライベートで聴いたりしていた。時間になったので、ミヤタ自転車のカリフォルニアロードに乗って、旭川駅に向かった。色はブルーで、ドロップハンドル、変速がかなりの段階でできるようだったが、果たして本当にあんなに必要だったのかどうかについてはよく分からない。

 

2日前の木曜の夜には「ザ・ベストテン」が放送されていて、おそらく観ていたのではないかと思われる。その夜のランキングでは薬師丸ひろ子の「探偵物語」が1位だったようだが、他には近藤真彦、原田知世、河合奈保子、風見慎吾、中森明菜、柏原芳恵、早見優、堀ちえみがランクインしていて、アイドル一色という感じである。アイドル以外では、上田正樹の「悲しい色やね」だけがランクインしている。

 

また、この日の夜にはアール・エフ・ラジオ日本で「全米トップ40」が放送されたはずなのだが、それではポリス「見つめていたい」が7月9日付から5週連続の1位で、以下、ユーリズミックス、ドナ・サマー、デュラン・デュラン、アイリーン・キャラ、エディ・グラント、マイケル・センベロ、セルジオ・メンデス、スティーヴィー・ニックス、マイケル・ジャクソンと続いていた。

 

土曜日の早朝ということで、外に人はまったくいなく、自転車でスイスイ走って行った。一緒に行くために待ち合わせをしていたのは、同じ高校で学年は一緒だったがクラスは別の女子であった。彼女は当麻町から汽車で通学していた。当麻町といえば、WHY@DOLLの浦谷はるなの祖母の家があったらしいのだが、遊びに行ってもやることがまったくなく、ゲームばかりしていたと聞いたことがある。当麻町には友人が何人か住んでいたので、何度か遊びに行ったことがあるのだが、友人の家以外のどこかに行ったという記憶がまったくない。

 

彼女はよく遊んでいる雰囲気を醸し出していたのだが、1年の学校祭の前にまだ移転する前の校舎の前で、万灯をつくる作業をしていると、髪型などの外見からマイケル・ジャクソンに似ているなどといじられていた私の友人が目的で近づいてきて、今日はブルーな気分だなどと行って、去って行った。ラジカセではFM北海道が流れていたのだが、それが試験放送だったかもう本放送になっていたのかはよく覚えていない。とにかくその年の秋に、道内初の民放FM局として開局したのであった。それまではFM雑誌を買ってもNHK-FMの番組表だけしか使えずに損をしているような気分になっていたのだが、やっと民放も開局して、文化レベルが上がったという気分になっていた。

 

また、なぜかよく分からないのだが、土曜日の夜中に電話をかけてくるように言われたこともあり、家でかけると親からいろいろ言われるので、コインをジーンズのポケットに入れて、近くの電話ボックスからかけていた。深夜で、しかも市外通話なので、わりと速いペースでコインが落ちていった。何を話したのかはいまとなってはまったく覚えていないのだが、当時としても記憶に残るようなことはおそらく何も話していなかったような気がする。というか、ほぼ一方的に聞いていただけである。

 

旭川駅の前に自転車を停め、駅の中に入って行った。もちろん現在のカッコいい駅舎になるはるか昔のことであり、地下にはステーションデパートがあり、現在はイオンモール旭川駅前になっている辺りにあった旭川エスタは、前の年の10月にオープンしたばかりだった。王様のアイディアという、アイディア商品の店が入っていたような気がする。よく見ていたのだが、買物をしたことはおそらく一度もない。

 

それはそうとして、いかにもロックのライブに行く女子高校生というような、ニュー・ウェイヴな感じの服装で彼女は来ていて、さすがだなと思った。そして、汽車の中や札幌の街などで知っている人に会うかもしれないので、今日は弟という設定で行動するように、と強く言われた。

 

汽車の中は空いていて、余裕で席に座ることができた。彼女が遊んでいることなどを、いろいろ話した。店に一人でいると、大学生の男性から声をかけられ、どんな音楽を聴いているのと聞かれたので、オーティス・レディングとかサム・クックと答えたところ、高校生なのに渋いの聴いているんだねと言われたとか、そんな話である。オーティス・レディングもサム・クックも昔のR&Bのシンガーだという認識はなんとなくあったのだが、いずれも聴いたことがなかったし、一体どんな音楽なのか想像すらつかなかった。

 

RCサクセションの忌野清志郎はR&Bから強い影響を受けたということを、よく雑誌のインタビューなどで言っていたので、ファンならばこういうのをちゃんと聴くことがおそらく正しかったのだろう。サム・クックという名前からは、なんとなく南国でアロハシャツを着て、肩にカラフルな鳥がとまっているようなタイプの人をなぜか想像したのだが、実際にはまったく違ったし、一体それがどこから来たものなのかも、さっぱり分からなかった。彼女がどこでどのような遊びをしていたのか、話を聞いただけではまったく具体的なイメージが思い浮かばなかった。しかし、特に知りたいとも思わないというか、そもそも現在でいうところのスクールカーストのようなものがまったく異なっていたのであり、その世界に踏み込める可能性などまったく考えずに、彼女の話にただ耳を傾けていた。それが私には充実した時間のように思えた。こんな気持ち、うまく言えたことがないので、こうして文章で書いている。

 

札幌に着いた。駅は現在のように立派ではなかった。いつからあのようになったのだろうか。ライブは夕方近くからだが、札幌に着いたのはおそらく午前中である。どこかでカレーライスを食べたことは覚えている。札幌といえばスープカレーのイメージがいまでは強いが、当時は道民でもスープカレーの存在をほとんど知らなかったのではないか。私たちも当然、その時点では知らなかったし、そういう店があったかどうかも定かではないので、普通のカレーライスを食べた。どこだったのかはまったく覚えていないのだが、おそらく明るくて健全な店である。

 

パルコに行った。当時も現在と同じ場所のはずである。薄暗いフロアで、小さなブティックのようなものがいろいろ集まったところがあった。彼女はピアスを夏休みだけでも開けようかな、というようなことを言っていたが、私に答えを求めているようでもなかった。店の人に質問をして、説明を受けたりもしていた。とても顔の整った女性だな、と思った。あの日、一瞬だけ接しただけで、その後はまったくかかわっていないのに、なぜかずっと覚えている人というのが何人もいる。みんなしあわせでいてくれると良いと思う。

 

パルコを出る時に、カルチャー・クラブの「チャーチ・オブ・ザ・ポイズン・マインド」がかかっていた。この曲はまだ、イギリスでしかリリースされていなかったような気がする。実際にはそうではなかったのかもしれないが。少なくともアメリカではまだ、デビュー・アルバム「キッシング・トゥ・ビー・クレヴァー」からのシングル・カット曲がヒットしていたのではないかと思う。この辺り、さすがに札幌は都会だなと思ったし、あの曲の陽気な感じと当日の札幌の最高の天候が、限りなく自由を感じさせてくれた。この後、カルチャー・クラブの「チャーチ・オブ・ザ・ポイズン・マインド」を数え切れない程の回数、聴いているのだが、この時の体験を超えることはできないし、超えさせたいとも思わない。

 

五番街ビルにあったタワーレコードには、私のことだから行ったのではないかという気もしているのだが、その記憶がまったくない。真駒内までは、地下鉄で行ったのだろうか。iPhoneの乗換案内アプリを使わずに、どうやって初めての路線に乗っていたのかを思い出せなくなってから久しいが、その時、16歳の私たちには確かにそれができていたのである。

 

会場にはすでにかなりの人が集まっていた。忌野清志郎や仲井麗市のコスプレのような格好をした人々を、何人も見かけた。そこへ行くと彼女はやはりイカしているなと思っていたのだが、もちろんそんなことは言わなかった。この日に会場でTシャツが販売されていたらしく、先日、Amazonマーケットプレイスに59,800円で出品されているのを見た。すごいことになっている。ここまで説明をすっかり忘れていたが、「HOKKAIDO SUPER JAM '83」は、RCサクセションとサザンオールスターズの対バンライブ的なイベントとして、当時、少なくとも道内ではわりと話題になっていた。私これは行きたいと思っていたのだが、買わなければいけないレコードなどもあり、なかなかチケット代を工面できていなかったのだが、FM北海道でずっとCMが流れていたので大丈夫だろうと思っていた。そして、お金ができた時に旭川平和通買物公園のミュージックショップ国原(現在、ローソンになっているところにかつてあった)に行って、チケットを買おうとしたら売り切れていた。残念だったが、仕方がない。

 

しかし、このイベントを後援していたスポンサーの1つ、そうご電器に関係者がいるという女子の耳に話が届いて、彼女からチケットを譲ってもらえることになった。私の周りにRCサクセションやサザンオールスターズが好きな友人は他にもいたが、札幌までライブを観に行こうとまでは思っていなかったようで、熱量をまったく感じなかったので、当日は1人で行くつもりでいた。RCサクセションは「OK」、サザンオールスターズは「綺麗」という最新アルバムをそれぞれ7月5日に発売し、そのどちらも買って、とても気に入っていた。

 

RCサクセションは「OK」から「OH BABY!」というバラードをシングル・カットしていて、プロモーションのために出演していたラジオ番組の女性パーソナリティーがこの曲を聴いて泣いてしまったという程の名曲であった。

 

1学期が終わる少し前、期末テストが近づいていた。私が通っていた頃は1学期の終わりに期末テストを行い、2学期がはじまってから学校祭だったのだが、現在ではそれが逆になっているようである。とにかく、当時は1学期の終わりに期末テストだったので、放課後にごちゃごちゃやっているうちに、一緒に家で勉強をしようということになった。それで、カリフォルニアロードで2人乗りをして、豊岡にあった私の家まで行った。

 

そして、勉強をしようとはしたのだが、結局は彼女の話を聞いたり、レコードをかけたりしていたのだと思う。RCサクセションの「OK」をターンテーブルに載せた。「ぼくをダメにしたいなら ある朝きみがいなくなればいい それだけでいい」、忌野清志郎がスピーカーから切なげに歌いかけてくる。こんな弱い男は嫌だ、男はやっぱり強くなくちゃ、そんなことを彼女は言った。夕暮れが近く、部屋は薄暗くなりかけていて、私の心ではブルーズが加速していた。

 

1年の秋、旧校舎の前で学校祭のための万灯をつくっていた。彼女は髪型などの見た目からマイケル・ジャクソンに似ていると言われていた私の友人を面白がるために近づいてきて、今日はブルーな気分だ、などと言った。彼女と同じ方角に帰る女子が同級生で、たまに話をしていた。彼女からヘアカット100の「ペリカン・ウェスト」を買うように言われた。要は私に買わせてかりようという魂胆である。勉強にもスポーツにもその他の部分にも特に秀でたところがない私にとって、ポップ・ミュージックのことをそこそこ知っているということが、学校における存在理由のようなところは確実にあった。しかし私はヘアカット100の「ペリカン・ウェスト」は買わずに、マイケル・マクドナルドの「思慕(ワン・ウェイ・ハート)」を買った。てっきり仲が良いのかと思っていたのだが、あの娘はちょっと変わっているから、というようなことを言っていた。それで、気にするようになったのかもしれない。

 

「BLUE」はRCサクセションのアルバム・タイトルだった。彼女は今日はブルーな気分だ、などと言って、柔道部に所属していた友人は、なんだよあの態度は、ムカつく、などと言っていた。彼は柏原芳恵の「春なのに」などを聴いて、感動するタイプだった。RCサクセションのレコードはそれまで1枚も持っていなかったが、テレビに出演すると観るようになったり、雑誌のインタビューなども読むようになった。なるほど、彼女はRCサクセションみたいなのが好きなのか、と思った。そして、初めて買ったRCサクセションのレコードが「OK」だった。

 

オープニング・アクトでウェスト・ウッドというバンドと、小山卓治が出演していた。ウェスト・ウッドはフォーク・ロック的な爽やかな音楽をやっていた。ティモシー・B・シュミットのカバーが何かのCMで流れていた「ソー・マッチ・イン・ラヴ」などもやっていた。オリジナルはタイムズというドゥー・ワップ・グループだったと思う。野外である会場はまだ明るく、大半の客はステージを真剣に観ていない。小山卓治が「俺達に少しだけ時間をくれないか?」などと叫んで、ブルース・スプリングスティーン&E・ストリート・バンドのような曲を、何曲か演奏した。私はその姿に胸を打たれた。

 

彼女は会場内をうろついている間に知り合いにあったらしく、わざわざ私のところまで彼らと一緒に観ることにしたから、ごめんね、と報告しにきた。黙っていなくなったとしても一向に構わないし、それで嫌いになるはずなどないのに、なんて律儀なのだろうと思ったりしていた。彼女と一緒にいた人たちは、いかにも遊び人というような雰囲気を漂わせていて、私より何百倍も楽しいであろうことは間違いなかった。結果的に1人で観ることになった。予定通りということであり、彼女と札幌までの汽車と札幌市内で数時間、2人きりで一緒に過ごせたというだけでも、本当にツイていたと言うことができる。

 

サザンオールスターズはこの年の春にヒットした「ボディ・スペシャルⅡ」からはじまり、最新アルバム「綺麗」を中心としながらも、「いとしのエリー」「勝手にシンドバッド」といった初期の代表曲をも交えたセットリストで、最高に楽しませてくれた。桑田佳祐はこの時のステージについて、まったく満足がいくものではなく、RCサクセションに完敗だったと語っていたようだが、私は大満足であった。

 

会場は夕暮れからすでに宵闇へと変わっていて、いよいよRCサクセションのステージがはじまる。事前に放送されていたラジオ番組では、サザンオールスターズのことをぶっ潰してやるとか、アマチュアみたいじゃないかとか忌野清志郎が言っていて、それをラジオのリスナーがハガキで伝えて桑田佳祐が激怒する、ということもあったようだ。RCサクセションのライブの序盤で、忌野清志郎はサザンオールスターズを讃えた。そして、最新アルバム「OK」からの楽曲と、「スロー・バラード」「トランジスタ・ラジオ」「SUMMER TOUR」といった代表曲を、これまた織り交ぜた大満足のセットリスト、そして、「指輪をはめたい」は最高のラヴ・ソングなのではないかと思った。

 

最後は「雨あがりの夜空に」でサザンオールスターズのメンバーも登場し、忌野清志郎と桑田佳祐が互いを讃え合った。

 

1人で観ていたとはいえ、ずっと立っていて、わりと踊ったりしていたこともあって、体はかなり疲れていた。札幌に親戚もいたのだが、その日のうちに旭川に帰るつもりでいた。札幌駅から汽車に乗り、旭川に着いたのは深夜だった。帰りの汽車はなかなか混んでいて席に着くこともできず、車両の連結部分の地べたに座って仮眠したりした。それぐらい疲れていた。どうやら同じ境遇にありそうな同年代ぐらいの男子がいたので、軽く話してみると、やはり「HOKKAIDO SUPER JAM '83」を観に行っていて、旭川工業高校の生徒だという。そして、彼女のことを知っていた。どれだけ顔が広かったのだろうか。

 

深夜の旭川である。カリフォルニアロードを漕いで、家に家路を急いだ。人の姿はまったくなくて、スイスイ走ることができた。疲れがとても心地よかった。この夜のことを、37年後になってもずっと思い返しているとは想像していなかったが。