松本伊代が家族で八王子ラーメンを食べに行く動画をたまたま観たことなどについて。 | …

i am so disapointed.

先日、千葉県のギャルで一児の母にして野球系YouTuber、めいちゅんの動画でも観ようかとiPhoneのYouTubeアプリを適当にいじっていると、「誕生日祝い家族でお出掛けシリーズ」という動画のサムネイル画像がホームに表示された。というか、おそらく無音のまま再生もされていたのであろう。映像は車内で、運転席にはお笑いタレントのヒロミ、助手席には茶髪の若者が乗っているようだ。そして、画面には「松本さんって16歳じゃないんです」という字幕も踊っている。記憶は定かではないのだが、おそらくここまで見たからこそ、この動画を再生するためにタップしたのだと思う。

 

ヒロミで「家族でお祝い」で「松本さん」とくれば、それはデビュー・シングルでまだ16歳だと歌っていた松本伊代に他ならないからである。助手席の金髪の若者はヒロミと松本伊代の息子であり、迷惑系YouTuberとして知っている層の間では超有名なへづまりゅうの「てな感じでね」を真似したりもしている。後部座席に、もう1人の息子も乗っているのが見える。そして、ヒロミの妻である松本伊代の本名は現在は小園伊代のはずなのだが、リスペクトを込めて「松本さん」と呼ばれているのがとても良い。その松本さんは後部座席の運転席の真後ろあたりにいるはずなのだが、いま松本さんになっている最中だということで、顔はまだ映せないということであった。しかし、「お出掛け、お出掛け~」などと言ってはしゃいでいる声は、紛れもなく松本伊代なのであった。

 

80年代のアイドルで誰が一番好きかと問われれば、そこはもう即答で松本伊代である。松本伊代がドラマやバラエティー番組の出演を経て、「センチメンタル・ジャーニー」でレコード・デビューしたのは1981年の秋で、私は中学生であった。当時の松本伊代のキャッチコピーは「瞳そらすな僕の妹」で、「センチメンタル・ジャーニー」のB面に収録された「マイブラザー」も歌われていたのだった。松本伊代よりも年下である私としてはなかなか複雑なところもあったのだが、ちょっとした早熟感も感じられて、それはそれで良かった。

 

中高生男子としてはまったくもって正しい疑似恋愛的な好きさではなく、とにかくその存在感がポップで一般的な感覚からは少しだけ宙に浮いているような感じで、最高だと思ったのである。糸井重里が作詞した「TVの国からキラキラ」「魔女っ子セブンティーン」あたりは、こういったニーズにジャストで応えたものであった。

 

松本伊代の2枚目のシングル「ラブ・ミー・テンダー」は1982年2月5日に発売され、私はすぐにこれを買うのだが、高校受験の当日の朝はこれのA、B面を繰り返し何度も聴いて、気合いを入れていった。友人の父が運転する車に一緒に乗せていってもらったのだが、来るのが少し遅れていた。友人の父は宮本武蔵も巌流島に遅れて行って勝ったのだから大丈夫だ、というようなことを言っていたと記憶している。

 

「ラブ・ミー・テンダー」は湯川れい子が作詞で筒美京平が作曲だったが、アメリカン・ポップス風というか、1956年にフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズがヒットさせ、1981年にはダイアナ・ロスもカヴァーしていた「恋は曲者」に似ていなくもなかった。「恋は曲者」には「Tell me why」というフレーズがあったが、「ラブ・ミー・テンダー」では「ティーチ・ミー・ホワイ」というのがあり、この「ホワイ」の発音がカタカナそのものだったので最高であった。エルヴィス・プレスリーの熱狂的なファンとして知られる湯川れい子が「ラブ・ミー・テンダー」というタイトルの曲に、歌詞を提供しているというのもなかなか熱かった。

 

この曲ではカニさんのような横歩きの振り付けがあり、これがまたとても良い。この時から30年以上後に、Negicco「サンシャイン日本海」のパフォーマンスを初めて観た時に、一部、横に移動する振り付けがあって最高だと思ったのは、この刷り込みによるものだと思われる。また、一旦、終わったかのように見せかけて実は終わっていないというやつは、後のモーニング娘。「ザ☆ピ~ス」の時にも思い出した。

 

1983年にフジテレビで土曜の深夜に放送が開始された「オールナイトフジ」は、一般の女子大学生がオールナイターズとして多数、出演していることが話題になっていた。当時、私は旭川で高校生だったのだが、北海道では放送されていなかった。1984年に戸板女子短期大学に入学した松本伊代はこの番組にもレギュラー出演し、司会も務めることになった。この番組をきっかけに女子大生ブームのようなものが起こり、文化放送では深夜に「ミスDJリクエストアワー」というのを放送していた。これにも松本伊代が担当している曜日があり、私はザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」のリクエストが読まれるなどして、大喜びしていた。

 

高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめる前に、旭川で最後に買ったレコードは松本伊代の「あなたに帰りたい(Dancin' In The Heart)」であった。「Romanticが止まらない」でブレイク中だったC-C-Bが、コーラスで参加していた。

 

東京で暮らしはじめると「オールナイトフジ」がちゃんと観られるので、とても良かった。「オールナイトフジ」にはとんねるずがレギュラー出演していて、これをきっかけにブレイクしかけていた。この年の春から「オールナイトフジ」の女子高生版のような感じで「夕やけニャンニャン」が平日の夕方にはじまり、ここからおニャン子クラブが社会現象的ともいえるブームを巻き起こし、時代は女子大生から女子高生という、いま思うとひじょうに気持ちの悪いこことになっていた。そして、オールナイターズはおニャン子クラブのデビュー・シングルでヒット曲の「セーラー服を脱がさないで」のパロディー、「セーラー服を脱いじゃってから」をリリースすることになる。いずれも、作詞は秋元康である。

 

私が中学生だった頃の土曜日の午後の楽しみといえば「お笑いスター誕生」だったが、帝京高校の野球部とサッカー部出身の2人が結成した貴明&憲武は一旦、勝ち抜きに失敗するものの、再挑戦し、その時にはコンビ名がとんねるずに変わっていた。日本テレビのプロデューサーが貴明の「T」と憲武の「N」が入ったコンビ名として提示した2つの中から、本人たちが選んだものだという。もう1つの候補は、とんまとのろまだったらしい。

 

とんねるずは「お笑いスター誕生」で10週勝ち抜きグランプリに輝いたほか、番組内のゴールデンルーキー賞においても、元ハンダースのアゴ勇と佐藤金造から成るアゴ&キンゾーと熾烈なデッドヒートを繰り広げていた。その後、アニメ「ド根性ガエル」の主題歌でレコードを出したり、西城秀樹と伊藤つかさの「モーニングサラダ」という番組にレギュラー出演していたが、それから見かける機会が減っていった。

 

そういったわけなので、高校3年の頃に「オールナイトフジ」の出演をきっかけにとんねるずがブレイクしかけているという情報を知った時には、なんだかやたらとうれしかった。大学受験のために泊まっていたホテルでテレビを観ていると、少なくとも東京ではとんねるずが売れつつあるという感じが、明らかに感じられた。そして、この4月からはじまった「夕やけニャンニャン」は全国ネットでの放送だったため、とんねるずの人気も全国区に広がっていく。

 

とんねるずのブレイクによって、「オールナイトフジ」や「おニャン子クラブ」では、次のとんねるずになりうるポテンシャルを秘めた若手お笑い芸人が積極的に起用されていくことになる。ちびっこギャング、ウッチャンナンチャン、パワーズ、B21スペシャルなどがよく出演していたような記憶がある。

 

B21スペシャルは同じホストクラブで働いていたヒロミ、デビッド伊東、ミスターちんによって結成され、横山やすしが司会をしていて、審査員には糸井重里もいた、テレビ朝日「ザ・テレビ演芸」の「飛び出せ笑いのニュースター」で10週勝ち抜いたことによって、注目されるようになった。爆笑コントの完成度は高く、3人のキャラクターもうまく生かされていた。いつどのタイミングかは定かではないのだが、ヒロミには八王子出身の元ヤンキーというイメージがあった。

 

松本伊代は「オールナイトフジ」で自分が書いたことになっている本を紹介する際に、私もまだ読んでいないんですけど、などと言ってしまったことなども、天然キャラクターぶりをあらわすエピソードとして語り継がれているのだが、1986年の春にはこの番組を卒業している。「人影のないカフェバーで 最後に聞いたデュラン・デュラン」というフレーズが印象的な「Last Kissは頬にして」のサビの歌詞は「女子大生は 今夜でもう卒業よ」(この作詞は意外にも秋元康ではなく、松本隆である)だが、この時に松本伊代は実際に短期大学と「オールナイトフジ」を卒業してもいたわけである。B21スペシャルが結成されたのもこの1986年だということで、実際に一緒にこの番組のレギュラーだった時期というのは無かったのではないだろうか。B21スペシャルが「オールナイトフジ」で活躍していた頃といえば、相楽晴子や梶原真理子、オールナイターズでは広石恵子などの印象が強い。

 

この年の夏、私は松本伊代のコンサートを厚木市文化会館と渋谷公会堂に観に行くのだが、そのタイトルは「やっぱり伊代ちゃん」で、秋元康がプロデュースしていたのだと思う。どうして「やっぱり」なのかというと、この頃、松本伊代はデビュー当時のアイドル歌手というイメージでは、もうすでになかったからである。この頃にリリースされたシングル「信じかたを教えて」から、林哲司によるシティ・ポップ的な楽曲を歌うようになり、新境地を開拓しはじめる。渋谷公会堂のコンサートでは「よい子の歌謡曲」の松本かづみが松本伊代はジョン・レノンを超えた、というようなことを言っていたが、帰りに私はまだ宇田川町にあった頃のタワーレコードでザ・スミス「クイーン・イズ・デッド」とスティーヴ・ウィンウッド「バック・イン・ザ・ハイ・ライフ」の輸入盤を買った。

 

松本伊代とヒロミが結婚すると知った時は、さすがだな、と思った。いわゆる「花の82年組」の中心的なアイドルで東京23区内出身だったのは松本伊代だけで、森村学園出身ということも含め、東京の女の子として憧れてもいたところは否めない。とはいえ、松本伊代がデビューした頃の私にとって、東京の女の子というのは現実感がまったくない、きわめてフィクショナルな存在であったわけで、ゆえに松本伊代を疑似恋愛の対象として好きだったわけではない、という主張とはまったくなにも矛盾していない。

 

松本伊代の親衛隊がコールの練習のようなことをしていて、その中に1人だけ中年男性がいたのだが、リーダー格の若者から罵倒されていたという誰か(中森明夫だったような気もするのだが、はっきりとは思い出せない)、カレーのCMでラッキョウが転がるだけで笑う松本伊代に対する、ガラスを引っ掻いた音にも似た感覚、「恋のバイオリズム」がバックに流れる中で出演していた生理用品のCMの記憶など、いろいろ生々しくリアルであり、現実世界から少しだけ宙に浮いていながらとてつもなく普通だという、こんなアイドルは松本伊代だけだったと、私の中ではそうなっている。

 

そして、本音の時代ともいわれた80年代、「TVの国からキラキラ」していた伊代ちゃんに夢中になることはピンク・レディー的なアイドル・ポップス感覚の継承でもあり、それが時代のど真ん中に響かなかったのは仕方がなく、健全でもあったといえる。このエッセンスの一部を、私は2017年あたりのWHY@DOLLにも、渋谷Gladの片隅で発見した。サザンオールスターズやプラスチックスやスペクトラムも含め、私にはビクターのポップスがとても重要だったということなのである。

 

そんな東京の女の子の象徴のようでもあった松本伊代が、八王子の元ヤンキーというイメージであったヒロミと結婚したという事実に、私はとても良いものを感じていたのであった。

 

ヒロミは一時期、テレビにあまり出なくなって、干されたとかいろいろ言われていた時期がある。すでにテレビをまったく観なくなっていた私にはよく分からないことでもあるのだが、そんな私にまで情報として伝わるぐらい、それは顕著なことだったのかもしれない。実際にどうだったのかについてはよくは知らないのだが、その間、妻としてしっかりと支え続けていたとするならば、私がアイドルを見る目というのは、まったく正しかったということができるだろう。

 

そして、この動画なのだが、本当に素晴らしい夫婦であり、家族だということがよく分かる。八王子出身のシティ・ポップ・アーティスト(に留まらないが、便宜的にここではそうしておく)、松任谷由実の「中央フリーウェイ」に出てくる「右に見える競馬場 左はビール工場」の場所も車で通るのだが、その時、松本伊代がア・カペラでカヴァー、「町の灯が やがてまたたきだす」を歌っているのもとても良い。わりとずっと歌い続けているのもとても良い。

 

八王子ラーメンというものを私はしばらくまったく知らなかったのだが、何年か前に祖師ヶ谷大蔵のセブンイレブンでそれの冷しラーメンが売っていたので興味本位で買って食べてみたところ、シャキシャキの刻みタマネギがのっていて、醤油味でめっちゃええやんけ、と謎の関西弁風味で思ったので、それからずっと気になっていた。昨年末から八王子市内で仕事をすることになったのだが、市内はとても広い。八王子ラーメンの代表的な店といわれているのは、ヒロミが16歳の頃から行っていて、今回、妻の松本伊代も含めた家族で行ったみんみんという店なのだが、車やバスに乗らなければアクセスのハードルがわりと高い。それで、泯泯という読み方は同じだが字面が異なる八王子ラーメンの店が私が少し前まで仕事をしていた場所からわりと近くにあったので、ここには行った。美味しかった。

 

しかし、今回、松本伊代も含めたヒロミの家族が行ったということで個人的な聖地化もしたので、みんみんの方にも行っておきたい。

 

それはそうとして、アイドルというのはファンにとって一体、どのような存在なのだろう、というようなことをわりと考えたり考えなかったりする。メンバー3人中の2人が結婚を発表、それでもアイドルとして続けていき、ファンもそれを祝福したり安心したりしているNegiccoには未来への希望を感じるわけで、ある意味において、じつに破天荒だと思ったのである。

 

ところで、松本伊代がヒロミと結婚し、55歳の誕生日を祝うために夫が16歳の頃から食べていた八王子ラーメンが食べたいと言い、2人の息子を含めた家族で来て、注文したラーメンが着いてから一緒に写真を撮りたいという地元の人の、ある意味、失礼かもしれない要望にも応え、終始、良い雰囲気なのがたまらないと思うのである。

 

アイドルのファンのあり方というのにはいろいろあるとは思うのだが、私は結局、その人がしあわせになってほしいと思う、NegiccoのNao☆やMeguに対してそう思えることを、とても新しくて画期的なことだと思っていたのだが、松本伊代がこのようにいま、しあわせそうなことを私はとてもうれしく思うので、そんなことならばもうすでにはじまっていたのかもしれない、などとも感じたりする。

 

とにかく、みんみんには八王子ラーメンを食べに行きたい。

 

この動画、後からまた観たくなって、「松本伊代 八王子ラーメン」とかで検索するのだが、まったくヒットしない。確かにタイトルなどに松本伊代という固有名詞は一切入っていない。にもかかわらず、おすすめ的に表紙してくれたYouTubeのアルゴリズムが優秀すぎる。

 

それはそうとして、このヒロミのYouTubeチャンネルだが、実は疎遠になっているB21スペシャルのメンバー、デビッド伊東とミスターちんにアポなしで会いに行くという企画もやっていて、これも軽い気持ちで思わず観てしまったのだが、なぜかボロ泣きしていた。

 

デビッド伊東がラーメン店をやっているということはなんとなく知っていたのだが、その店が桜新町にあること、ミスターちんが経堂で鍼灸治療院をやっていることは、はじめて知った。いろいろあって、結果的にデビッド伊東のラーメン店でヒロミとミスターちんがラーメンを食べるのだが、はじめは大食い対決をしようとか言っているものの、途中でもうお腹がいっぱいになった、などと言って、ヒロミが逃げてしまう。コメント欄をざーっと見てから、もう一度、動画を観てみる。いろいろな思いがあり、20年目にしてはじめてデビッド伊東がつくったラーメンを口にしたヒロミは、お腹というよりは胸がいっぱいになってしまう、途中、明らかに泣きそうになっている、それを気づいているのだろうが、気づかないふりをしているようなミスターちんも素晴らしい。思いがけず、いろいろ感無量な動画であった。