渋谷をただ懐かしく思いながら歩いただけのことについて。 | …

i am so disapointed.

休日で天気がわりと良かったので、午後から渋谷に行ってきた。特に目的があるわけではない。かつてはかなりのペースで行っていて、世界中で最も好きな街なのではないかと思っていた頃もあったが、いまやすっかり疎遠になってしまった。というわけで、行ったところで昔を懐かしんで、いろいろ思い出したりするだけのことである。それで、ここでもたまにやる渋谷の街を歩きながらただ懐かしむだけというやつを、久しぶりにやってみたい。

 

京王線に乗って明大前で井の頭線に乗り換えるというパターンは、ある時期をのぞいて、30年ぐらい前からずっと変わっていない。渋谷駅の中や周りは、かなり変わったような気がする。青山学院大学に通っていた頃、渋谷には通学定期で行っていて、もちろん通学路でもあったわけだが、当時は駅の中を通って近道に出られた。現在はそっちの方に行こうとすると、地下鉄銀座線だとか渋谷ヒカリエに誘導されるようになっている。その下の方にあるバスターミナルからはかつては六本木の方に行くバスも出ていてよく利用したが、いまはどうなのか知らない。

 

とりあえずそっちの方になんとなく出てみて、青山学院大学の方に向かって歩いた。山田帽子店だとか志賀昆虫だとか青山ケンネルだとかが確かあったな、なのと思っていたのだが、山田帽子店と青山ケンネルはいまでもちゃんとあった。山田帽子店の隣の古書店もである。国道246号を挟んだ反対側、つまり青山学院大学側には城南電機だとか森永LOVEだとかがあったような気がするが、もちろんもう無い。

 

青山学院大学を過ぎて少し歩いたところにスパイラルビルというのがあって、アーティスティックで小洒落た雰囲気が漂っていた。いまでもちゃんとあって、アーティストの展示会のようなものをやっているようだった。奥のカフェスペースのような所は料金がわりと高かったような印象があるのだが、女性との喫茶で気合いが入っている場合にはここを利用することもあった。気合いが入っていない場合には、森永LOVEなどで済ませていた。向かい側に紀ノ国屋スーパーがあって、ここでは地下で輸入もののおしゃれなお菓子などを買ったりしていた。その近くの酒屋も昔からずっとあって、暑い夏の日にここでハイネケンやバドワイザーの缶ビールを買って、飲みながら原宿まで歩いたりしていた。

 

渋谷に引き返すのだが、大学の帰りには渋谷ロフトにあったWAVEに行くことが多かった。気合いが入っていてお金に余裕もある時には、洋書店の近藤書店があった場所の近くからバスに乗って六本木に行き、六本木WAVEでCD、青山ブックセンターで本をがっつり見たり買ったりしていた。しかし、日常的には渋谷のWAVEの場合が多かった。広告代理店で仕事をしていた頃には土曜日にまずここに来て、「NME」とお目当てのCDを買うことから週末がはじまった。1994年頃には入口を入って左側のところがブリットポップ・コーナーのようになっていて、「NME」とイギリスのインディー系のバンドやアーティストのCDが置かれていた。

 

カート・コバーンが亡くなったことを知ったのは、当時、付き合っていた大学生と土曜日にこの店を訪れた時だった。唐突に「ネヴァーマインド」からの曲がかかり、何事かと思っていまかかっているCDのジャケットを映し出すモニターに目をやると、「カート・コバーン自殺!」というコメントが書かれていた。その少し後には、オアシスのデビュー・シングル「スーパーソニック」もここで買った。その後、モボ・モガというアイスティーがやたらと大きなサイズのグラスに入ってくる店に行って、カレーかパスタを注文したはずである。

 

そのモボ・モガという店は東急ハンズの向かい側のところから少し入ったところにあるのだが、その近くのビルにはディスクユニオン、FRISCO、RECOfanなどが入っていたことがある。現在は、1階がライヴ・ハウスになっている。ディスクユニオンはもっと渋谷駅に近い方にもあったが、ここにもあって、主に国内盤を扱っていたような印象があるのだが、あまり行かなかったのでよく覚えていない。その後、ハーレー・ダビッドソンの店になったりもしていたような気がする。FRISCOは確か2階か3階あたりにあって、当時、よく利用していた。新譜のイギリス盤CDもわりと安かったような記憶がある。スウェードのデビュー・アルバムだとかブラー「モダンン・ライフ・イズ・ラビッシュ」だとかは、間違いなくここで買っている。ベレー帽をかぶったおしゃれな女性店員がいて、彼女が勝手にかけているCDがことごとく良かったのだが、こういう人に一体、どこに行けば出会い、知り合うことができるのだろう、とわりと真剣に考えていた。

 

青山学院大学の購買部ではラジカセからリック・アストレー「トゥゲザー・フォーエヴァー」が流れ、ワンレン、ボディコンの後輩女子がそれに合わせて踊っていた。

 

このビルの下の方に一時期、たこ焼き店が乱立していたことがあり、ガードレールのところでたこ焼きを食べている人たちがたくさんいた。私と当時、行動を共にしていたタイプの女子も同じことを間違いなく複数回はしている。外はカリカリで中はトロトロの京風たこ焼きという解釈が正しいのかそうではないのかはよく分からないのだが、そういうのは当時の東京の人たちにはわりと新鮮でうけていたような気もするのだが、記憶違いかもしれない。とにかく当時、あそこでたこ焼きを食べていた人というのはたくさんいるはずなのだが、あまりにもその話にならなさすぎているので、もしかすると私の幻覚だったのではないか、というような気もしている。たこ焼き食べたい

 

FRISCOはCISCOのCDの店というような位置づけなのだが、CISCOはそこから入ってもう少し行ったところにあって、その間にイエロー・ポップという店もあったような気もする。CISCOはダンス・ミュージックが好きなイケている人たちが主に行く店というイメージがあり、私にとってはそれほど思い入れが強い店ではない。が、インディー・ロック系のレコードも置いてはいたので、ついでに行って、買ったことも何度かあったはずである。

 

RECOfanにはお金が無かった頃によくCDを売りに行っていたのだが、それで得たお金を何に使うかというと、結局は同じビルの下の階にあったFRISCOでまた別のCDを買うわけである。あと、このビルの近くには90年代のはじめぐらいには、ラケルというオムライスの店があったと思う。ここにも、よく行った。とにかくいろいろな種類のオムライスがあるのが、特徴であった。オムライス食べたい。

 

まったくの余談だが、WHY@DOLLの青木千春が自宅配信でオムライスをつくっていた回はすごく良かった。私がそれに影響されて、翌日、1日で2回、オムライスを食べたというコメントが読まれて、「ちはるん、つくってあげなくちゃ」とか浦谷さんが言っていたのも含めて、とても良かった。オムライス食べたい。

 

そこから少し下ったところに、いまは1階がローソン、2階がサイゼリヤの建物があるのだが、ある時期まで、1階がジーンズメイト、2階がタワーレコードであった。タワーレコードは1995年に大幅に増床し、現在の場所に移転したはずである。当時は洋書の売場がものすごく広くて、大興奮した記憶がある。宇田川町のこの場所にあった当時は現在ほど広くはなく、ある時期までは輸入盤専門店であった。日本のアーティストのCDはもちろん、洋楽の国内盤すら扱っていない時代もあった。タワーレコードはインポーターもやっていたので、たとえば六本木WAVEなども輸入盤の一部をタワーレコードから仕入れていたことがある。

 

また、この建物の手前にはよく分からない輸入ビデオショップのようなものが、ブース的に展開されていたような気がする。地下には小洒落たカフェのようなものがあったような気がするが、はっきりと覚えてはいない。

 

この近くにノア渋谷というビルが現在もあるのだが、この中にカジヒデキも店員として働いていたこともある、伝説のレコード店、ZESTがあったのである。フリッパーズ・ギターの影響で、雑誌「オリーヴ」を愛読しているようなおしゃれな女子中高生たちがマニアックなレコードを買い集めはじめるというムーヴメントが起こったのだが、ここの紫色のレコード袋は彼女たちの間でおしゃれアイテム的にも流通していたような記憶がある。このビルの中には輸入ビデオカセットを扱うよく分からない店などもあり、当時はインターネットやYouTubeなどももちろん無く、イギリスのインディー・バンドの映像を観る機会などは滅多になかったので、何千円も出してこういうビデオカセットを買ったりもしていた。

 

RECOfanが渋谷BEAMに移り、それまでRECOfanが入っていたところにZESTが移ったというような認識なのだが、はっきりとは覚えていない。ZESTのレコード袋の色やデザインも、その頃にはかなり変わっていたような気がする。渋谷BEAMのRECOfanが閉店セールに入ったことが先日、発表され、Twitterのタイムラインもざわついていた。ここにもしばらくずっと行っていなかったので、閉店を惜しむ資格があるとは思えないし、あるといわれたところで荷が重いという思いが先行してしまう。

 

久しぶりに行ってみたが、レジやエレベーターの場所、棚の配置など、当時からあまり変わっていないようだった。最新の全英アルバム・チャートでマニック・ストリート・プリーチャーズの1993年のアルバム「ゴールド・アゲインスト・ソウル」が突然、ランクインしていたので、何事が起こっているのかと不思議に思っていたのだが、アナログで再発されたからか、ということがよく分かった。

 

現在もクラブクアトロは存在しているが、この建物がクアトロパルコとして営業されていて、1993年から何年間かはこの中にWAVEもあった。いわゆる「渋谷系」の発祥となったのはセンター街のONE-OH-NINEにあった頃のHMVだが、「渋谷系」的な品揃えや編集感覚ではここも負けていなかった。そのオープンに先がけて、冬に建物内の一部や店頭でCDの即売的なことをやっていたことがあるのだが、私もラジカセでホイットニー・ヒューストンの「ボディガード」のサウンドトラックCDをリピート再生しながら、ここでCDを売っていたことがある。渋谷にもかかわらず暇な時間帯もあり、知人などが来た時にブレイクダンスを踊ったりして遊んでいたので、後から怒られたりもした。ぴえん。1994年の秋に、オアシスの初来日公演をクラブクアトロで観た。

 

それから少し行ったところMEGAドン・キホーテ渋谷本店があるが、ここはHMVが日本ではじめて出店したところでもあった。売場は1階と地階だったような気がする。この1階の通路を挟んで向かって右側の方にオープン当初はDJブースがあり、DJがレッド・ホット・チリ・ペッパーズ「ギヴ・イット・アウェイ」をかけながら、踊っているようなこともあった。ここが後に「渋谷系」コーナーのようなものになり、ムーヴメントの震源地となる。アーティストに対するメッセージを書いて掲示するようなスペースもあり、小山田圭吾にかなり入れ込んでいる男性ファンのメッセージも読んでゾッとするような内容だったと思う。

 

1997年といえばコーネリアス「FANTASMA」がリリースされた時期だが、その前にここではアルバムをまるごと流していて、CDを見るふりをしてずっと聴いていた。「FANTASMA」のCDは京王線下高井戸駅構内に当時はあったよく覚えてはいない店で買ったのだが、初回盤に入っていたイヤフォンの片方が聴こえない不良品だったようだ。

 

コーネリアスといえば1996年のアルバム「69/96」のリード・シングル「MOON WALK」はシングル・カセットでの、発売であった。この頃、渋谷のWAVEは1階から上の方の階に移転したばかりで、同じ日に発売されたカヒミ・カリィ「GOOD MORNING WORLD」と一緒に買った覚えがある。思えばこの数ヶ月前にタワーレコードの宇田川町から現在の場所への移転があり、これが影響していたのかもしれない。そういえば、タワーレコードが日本のアーティストのCDを扱うようになったのも、WAVEが渋谷に出来た後であり、この2店舗は絶妙なライバル関係にあったのだろうな、というような気分にもなる。

 

ちなみに私が高校を卒業して東京で一人暮らしをはじめた80年代半ばには、モノトーンのポスト・モダンな雰囲気がカッコいいというような風潮があり、WAVEのグレーと黒のロゴはその感覚にもフィットしていた。一方、タワーレコードの黄色と赤のロゴはちょっとポップすぎてダサいかな、というような感じもあった。HMVとヴァージン・メガストアの日本進出までは、あと5年ほど待たなければならなかった。

 

クラブクアトロが入り、現在、1階はGUが入っている建物からMEGAドン・キホーテまで歩く間に、オアシスの「ロックンロール・スター」のTシャツを着た若者とすれ違った。いまから26年前にこのすぐ近くでオアシスの初来日公演を観たことを自慢したい気持ちでいっぱいだったが、不審者扱いされるのがオチなので、もちろんしなかった。

 

道玄坂に渋谷Gladというライヴ・ハウスがあったのだが、新型コロナウィルスの影響が大きく響き、今年の5月いっぱいで閉店してしまった。ここでは札幌出身のガールズ・ポップ・デュオ、WHY@DOLLが月に2回ほど定期公演を行っていて、2017年の夏から約1年ぐらいではあったが、よく観に行っていた。音響や照明なども素晴らしく、いつも最高のライヴを楽しむことができた。ある要因から足が遠のいているうちに、仕事の環境が劇的に変わり、行きたいと思っても行くことができない日々が続いた。そのうちにデュオは活動を終了、このライヴ・ハウスも閉店してしまった。営業最終日には有料で配信を行っていて、数ヶ月前から皮肉にもWHY@DOLLがかつて定期公演を行っていた火曜日にはほぼ確実に休みが取れるような状況になったのだが、いまや活動も終了しているし、もちろんライヴも行われていない。

 

懐かしさからその場所に行ってみると、もしかすると17時前ぐらいには人が集まり出し、開場してライヴがはじまるのではないかと思えるほどに、当時の面影がまだ残されていた。この定期公演を楽しみにすることによって、渋谷に行くことがまた楽しみになっていた時期もあった。このすぐ近くにあるラーメン店、風来居のラーメンをWHY@DOLLのメンバーは好んでいた。私も行ったことがあるが、旭川の山頭火で修行をした方が開いた店だということであった。久しぶりに行ってみようかと思ったのだが、新型コロナウィルスの影響で、5月から休業しているということであった。

 

WHY@DOLLといえば「シグナル」という曲があり、これは渋谷が舞台になっている。「公園通りを 下りて行く 青に変わる」というフレーズを、そこの横断歩道を通るたびに思い出す。実際にここで移動中のメンバーを見かけたことがあり、一瞬のことだったので振り返ると、本当に公園通りを下りて行っていた。はじめて観たのも渋谷で、ヴィレッジ・ヴァンガードだった。かつてはブックファーストで、さらにその前は旭屋書店だったところである。久しぶりに行ってみると、当時、ステージだった場所は棚で塞がれていた。このご時世、イベントも行えないだろうし、これは仕方がないことなのだろう。

 

先日、フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」の発売30周年を振り返った時に、当時は時間もあったので意味なく渋谷から調布行きのバスに乗って、携帯CDプレイヤーのディスクマンで聴いていたな、ということを思い出した。調布行きのバスの停留所は、現在も京王線の入口の近くにあった。時刻表を見ると本数はおそらく当時よりも極端に少なく、午後は何時間も来ない時間帯さえあった。それで、やはり電車で帰ることにした。現在はマークシティと呼ばれている場所に行くのに近い入口でもあるそのすぐそばの建物の1階は、当時からずっと青果店である。上の方の階にあったLIVE INNというライヴ・ハウスはいつの間にかなくなっていた。私が東京ではじめて行ったライヴ・ハウスで、熊本出身のロッカー、小山卓治がまだ発売前のアルバムから新曲を次々と披露して盛り上がった。その前に小山田卓治を観たのは、1983年の夏休み、札幌で行われたRCサクセションとサザンオールスターズの野外対バンライヴのオープニング・アクトとしてであった。