1977年5月27日にセックス・ピストルズの2枚目のシングルとなる「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が、ヴァージン・レコードからリリースされた。日本ではさだまさし「雨やどり」、山口百恵「夢先案内人」、ピンク・レディー「カルメン’77」などがヒットしていた。私は苫前町という人口が少ない町から旭川市という当時にしてみれば大都会の小学校に転校してから少し経った頃で、ラジオの深夜放送を聴きはじめたりしていた。
しかし、セックス・ピストルズやパンク・ロックのことを知るのはかなり後になってからであり、リアルタイムではその情報にふれてすらいなかったと思う。スパイク・リー監督作品の「サマー・オブ・サム」などを観ると、1978年の夏にはパンク対ディスコという図式があったことが描かれている。ディスコのヒット曲は70年代後半から80年代のはじめにかけて、旭川で特に洋楽を積極的に聴いていなかったとしても耳にしたし、自然に曲名やアーティスト名も覚えていった。シックの「おしゃれフリーク」だとかアース・ウィンド&ファイアーの「宇宙のファンタジー」とかビー・ジーズの「恋のナイト・フィーバー」とかロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」とかドナ・サマーの「ホット・スタッフ」とかである。しかし、セックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」とかザ・クラッシュの「白い暴動」だとかラモーンズの「電撃バップ」のこともまったく知らなかった。
1977年の冬に所ジョージのデビュー・アルバム「ジョージ・ファースト 現金に手を出せ!!」をファッションプラザオクノの地下の玉光堂で買ったのだが、そのプロローグに「俺、所沢のパンク野郎」というセリフがある。私がパンクという単語を自動車や自転車のタイヤに穴があく意味以外で認識したのはおそらくこの時がはじめてなのだが、意味はちゃんと理解していなかった。
洋楽のレコードを買いはじめたのは1980年で、最初は全米ヒット・チャートやビリー・ジョエルなどから入った。そのうち、「ロッキング・オン」だとか「宝島」だとか「ミュージック・マガジン」だとかを読むようになって、もっとややこしいものも好んで聴きはじめる。「ロッキング・オン」の渋谷陽一などは私にとって本当に偉大な人であり、六本木WAVEで働いていて本人を見た時には、モリッシーよりもマイケル・ジャクソンよりも小山田圭吾よりも感激した(もっとも小山田圭吾はほぼ毎日のように来ていたので、もはや感激のしようもなかったのだが)。NHK-FMで平日の22時から放送されていた「サウンドストリート」のDJは、月曜日が佐野元春、火曜日が坂本龍一、水曜日が烏丸せつこ、木曜日と金曜日が渋谷陽一であった。途中から水曜日は川村恭子をはさんで甲斐よしひろに、木曜日は山下達郎になった。「ロキング・オン」を読んで気になったアーティストの音楽を、渋谷陽一の「サウンド・ストリート」で聴いて知るという感じであった。
PILことパブリック・イメージ・リミテッドは元セックス・ピストルズのジョニー・ロットンが、脱退後に結成したバンドだということであった。「宝島」の表紙になったり、「ロッキング・オン」でもよく取り上げられていた印象があり、よく分からないまま、「ラヴ・ソング」の12インチ・シングルを買った。80年代の前半に全米シングル・チャートにランクインしていた産業ロックやシンセ・ポップとはまったく違い、スカスカのサウンド、そして、ヴォーカルがなんとも個性的である。この年には来日公演も行われていて、その時の映像はかなり後になってからDVD化された時に買った。
つまり、1983年のことなのだが、高校2年だったので、秋には修学旅行がある。メインは京都と奈良だが、個人的には帰りに少しだけある東京での自由行動の時間にオープンしたばかりの六本木WAVEに行くことなどが最大の楽しみだったため、なるべくお金を使わないようにしていた。よく分からないのだが、なぜか女子まで京都で買っていた木刀などにも手を出さなかった。それにしても、本当に一体あれはなんだったのだろう。夜に新京極とかいうところに行き、ものすごく怖い人たちが多いという噂だったので、なるべく人と目を合わさないようにして歩いた。ロク・ファッションの店で、パブリック・イメージ・リミテッドとセックス・ピストルズの缶バッジを買った。その時点で、セックス・ピストルズの音楽を聴いたことは一度もなかった。
帰りの寝台列車にクラスでは大人しそうな男子がウォークマンではないどこかのメーカーのヘッドフォンステレオを持ってきていたので、借りて聴くことにした。どんなカセットを持ってきているのか見てみると、その中にセックス・ピストルズの「勝手にしやがれ!!」があった。インデックスに手書きで「さらばベルリンの陽」などと、几帳面に書かれていた。セックス・ピストルズの伝説については、音楽雑誌などで読んでなんとなく知っていた。とにかく、それまでのロックの常識を破った、とても過激なバンドなのだという紹介がされていた。だから、おそらく相当、過激な音楽なのだろうと思っていた。そして、聴いてみたのだが、意外に普通だな、と思った。もちろん、それはセックス・ピストルズなどがすでにある程度、影響を及ぼし、変えた後のポップ・シーンにおいてだったからだと思われ、発売当時、リアルタイムではどのように聴こえたのかについては知る由もない。それでも、ジョニー・ロットンのヴォーカルの個性はすさまじかったし、曲がどれもポップで良いなと思った。
ウォークマンではないどこかのメーカーのヘッドフォンステレオを貸してくれたクラスの大人しそうな男子には、セックス・ピストルズの音楽を聴くのはもちろんこれがはじめてではないというていだったので、「ありがとう。やっぱり、ピストルズは最高だな」などと適当なことを言って返した記憶がある。
バンド活動はそこそこ活発で、西武百貨店の上の方の階にあったスタジオ9などを使うことが多かった。スターリンのコピーバンドがメインアクトとなるライヴに、友人のバンドが出るということで、わざとらしくステージに乱入するように依頼された。ハノイ・ロックスのカヴァーをいくつかやって、最後にセックス・ピストルズの「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」をやるので、その時に乱入してほしいとのことであった。それで、「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が収録されている「勝手にしやがれ!!」のカセットを借りて、家で聴いたりしていた。スターリンのコピーバンドもヴォーカルが同じクラスで、遠藤みちろうのカセットブック「ベトナム伝説」に収録されていた「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。」の時だけ、ゲストでヴォーカリストをやるように言われていたので、これにも出演した。ちなみにこのカセットブックのブックの方には遠藤みちろうと糸井重里の対談が載っている。
「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」は元々、「ノー・フューチャー」というタイトルだったらしいのだが、エリザベス2世の即位25周年というタイミングもあり、このタイトルになったらしい。「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」は、イギリス国家である「女王陛下万歳」、または「神よ女王を守り給え」の原題とまったく同じである。
セックス・ピストルズはマルコム・マクラレンが経営するロンドンのブティック「SEX」に出入りしていたスティーヴ・ジョーンズとポール・クックによって結成されたバンドが元になっている。グレン・マトロックは「SEX」の店員、ジョニー・ロットンはオーディションによって選ばれたメンバーだった。EMIと契約し、デビュー・シングル「アナーキー・イン・ザ・U.K.」をリリースするが、その後、テレビ番組でパーソナリティーからそそのかされた部分も大きいとはいえ、放送禁止用語を発するなどして、社会問題化したことから契約は破棄された。その後、A&Mレコードと派手なセレモニー的なものまで行って契約をしたが、メンバーの乱痴気騒ぎなど問題視され、これもすぐに破棄された。この時点で「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」のシングルはすでに完成していて、A&Mからリリースされる予定だったのだが、中止になった。この時にわずかながらプレスされたレコードが出回っているらしく、それらはかなりの高額で取り引きされているという。
イギリスはエリザベス2世の即位25周年式典で沸き立っていたが、「ファシストの政府」「あの女は人間じゃない」「英国の夢に未来はない」などと歌う「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」は、そのムードに水を差すものである。この曲はラジオ局のプレイリストから外されたり、一部のレコード店チェーンから販売を拒否されたりする。ところが、これによってさらに話題になり、6月4日付の全英シングル・チャートに11位で初登場、翌週には最高位の2位を記録した。この週の1位はロッド・スチュワートの「もう話したくない」なのだが、「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の方が売れていたのではないかという声も根強い。エリザベス2世の即位25周年式典に水を差さないように、チャートが操作されたのではないかというのだ。当時、イギリスには全英シングル・チャートとは別にNMEチャートというのもあったのだが、こちらでは「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が1位になっている。
エリザベス2世の即位25周年式典の当日、つまり、1977年6月7日に、セックス・ピストルズはウェストミンスター宮殿に近いテムズ川にクイーン・エリザベス号と名付けた船を出し、その上でライヴをやることを企てるのだが、演奏の途中で警察に止められて、何人もの関係者が逮捕された。
これは、偉大ないかさま師としての才能に長けたマネージャー、マルコム・マクラレン考案による壮大なプロモーション戦略だったのかもしれないが、そういったところもひっくるめて、ポップ・カルチャーに対するロマンを感じてしまうのだ。しかし、ジョニー・ロットンはその後、路上で国粋主義者から襲われて大怪我を負うなど、散々な目に遭うことになる。
この曲を共作したグレン・マトロックは、シングルのリリース時には音楽性の相違などから脱退し、シド・ヴィシャスに取って代わられていた。女王の顔写真の目と口の部分を、脅迫文を思わせる切り貼りの文字で塞いだジャケットのアートワークも高く評価されていて、その後のデザイン界に大きな影響をあたえたといわれている。
