なぜなら、サニーデイ・サービスは下北沢とかが好きなおしゃれな音楽ファンに愛されているバンドというイメージなのに対し、尾崎豊といえばその拡大したイメージによって、聴いていたと明かすことにどこか気恥ずかしさがあるというか、少なくとも私にとってはそのようなアーティストであり、それぞれのファンはほぼ重ならないどころか、センス的には真逆なのではないかとすら思っていたからである。
一時期、私は尾崎豊の音楽をわりと熱心に聴いていたし、なんなら1990年の「誕生」までCDも買っていた。しかし、いろいろと懐かしい思い出などについても書いているこのブログでは、あまり取り上げていないと思う。黒歴史的に無かったことにしているかといえばそんなことはなく、たまに聴いてはやっぱり良いなと思ったりもしている。ならばなぜ書いていないのかというと、やはり恥ずかしいという気持ちがどこかにあった。普段、忌み嫌っているはずのスノビズムのようなものから、私自身も実は完全に自由ではなかったのだと気付き、落胆している。
ところが、私がサニーデイ・サービスのアルバムの感想のような文章に尾崎豊を少しだけ引用したこともおそらく少なからずきっかけとなって、普段は尾崎豊の名前など出てこないようなタイプの音楽ファンの方々が尾崎豊についてツイートするような感じになった。現在は尾崎豊について語るようなことがほとんど無いような人達も、やはり当時の尾崎豊にいろいろな思い出があるものなのか。そして、リアルタイムで熱中するには世代的に少しだけ間に合わなかった方が初めて尾崎豊の音楽をしっかりと聴いてみて、当時は保守的でつまらないとも批評されがちだった80年代ポップス的なサウンドに魅力を感じたりというのも新鮮であった。
というわけで、別のことを書こうとしていた予定を変更して、尾崎豊の個人的な思い出について、思い出せる限り書いていきたいと思う。
作品をまったく聴いたことがない状態で、名前は「宝島」などで読んでなんとなく知っていた。特に反核・脱原発をテーマにしたイベント、「アトミック・カフェ」において、ステージ中に高所にあった照明から飛び降りて足を骨折したというエピソードは印象的であった。
テレビ神奈川の「ミュージックトマトJAPAN」は平日の夜に放送されていたことを高校を卒業して東京で生活するようになってから知るのだが、北海道では土曜日の午後というよく分からない時間帯に、不定期で放送されることがあったと思う。それで「十七歳の地図」のミュージックビデオ、というか当時はプロモーションビデオと呼ばれていたものがかかった。
その年にはブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・U.S.A.のアルバムが大ヒットしたが、「十七歳の地図」のサウンドや曲調はその1975年リリースの代表作「明日なき暴走」を思わせるものであった。しかし、尾崎豊のボーカルには生々しさがあり、そこがとても魅力的だと思った。うろ覚えなのだが、ビデオには尾崎豊は登場しなくて、なんらかの虫が身動きを取れなくなる様が描写されたイメージ的なものだったような気がする。
当時、私は高校3年であり、大学受験を前にそんなことをしている場合ではないのだが、放課後には仲間たちと映画館のビルの上の方の階にあったジャズ喫茶にたむろして、くだらない話をし続ける日々であった。
「卒業」の12インチ・シングルが発売されたのが1985年1月21日、私が大学受験のために東京に行く直前である。入試を目前に控えた緊迫感と高校の卒業も近付いていてマイルドにセンチメンタルな気分に、この曲はなんとなくフィットした。レコードは旭川の市街地まで仕事ですが行っていた母親に頼んで買ってきてもらったような気がする。この年には尾崎豊だけではなく、菊池桃子、斉藤由貴、倉沢淳美も「卒業」というタイトルの、それぞれ別の曲をリリースしていた。
尾崎豊の「卒業」といえば、「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」という歌詞が印象的である。尾崎豊の楽曲で最も有名なフレーズといえば、「15の夜」の「盗んだバイクで走り出す」であろう。こういったところから、尾崎豊の音楽は不良少年の心情を描写したものだともいわれる。
昨年末に行われた「M-1グランプリ2019」で優勝し、いまや昨年までが信じられないぐらいメディアに露出している漫才コンビのミルクボーイ だが、現在の肯定と否定を繰り返すパターンのネタをかなり以前からやっている。もうかなり以前に観たネタで、ボケの駒場孝が昔、グレていたかどうかをテーマにしたものがあった。その中で、以下のようなやり取りがある。
「親に何回やめろって言われても、夜中に口笛吹いとったな」
「グレてへんやないかい。それぐらいでグレてたとか言わんといてくれる」
「でもな、尾崎豊吹いてたからな」
「ほな、グレてるやないか。尾崎は不良の象徴やからね。尾崎の何ていう曲を吹いてたのよ?」
「『永遠の胸』とか『FREEZE MOON』、『太陽の瞳』とかやな」
「ほな、グレてへんやないかい。それ全部、尾崎が客に合わしに行ってる歌やないか。『15の夜』とか吹いてくれんと。グレてへんがな、そんなん」
面白かったのだが、なるほど尾崎豊の一般的なイメージというのは不良の象徴というようなものなのか、とも思った。ミルクボーイのメンバーは2人とも「15の夜」がリリースされた時にはまだ生まれてもいない。
当時の尾崎豊のイメージというのは典型的な不良少年というよりは、もっと知的な印象だったような気がする。デビュー当時に在籍していて、後に中退することになるのは青山学院の高等部である。小学生の頃から家にあったギターで井上陽水、さだまさし、イルカなどのフォークソングを弾き語り、高校生の頃に買ったジャクソン・ブラウンの「ランニング・オン・エンプティ」に衝撃を受けたという。
尾崎豊「卒業」の翌週に佐野元春「ヤング・ブラッズ」のシングルが出て、ヒップホップの影響を受け、ファンの間でも賛否両論だった「VISITORS」に比べるとメロディーがまた復活してきたなと思いつつも、少し前に出たザ・スタイル・カウンシル「シャウト・トゥ・ザ・トップ」に似ているという印象も受けた。その数日後に、大学入試のために東京に行った。
修学旅行の自由行動以来に六本木ウェイヴにも行くのだが、友人からリストを渡されたダンス・ミュージックの12インチ・シングルの他に、尾崎豊の「十七歳の地図」も買った。1983年12月1日のリリースから1年以上が経っていた。大学入試の全日程を終了し、旭川に帰ってから「十七歳の地図」を聴いた。当時、「ミュージック・マガジン」の中村とうよう辺りからもシンガー・ソングライターとしての魅力は認められながらも、サウンドが保守的でつまらないという評価がされていたような気がする。私の感想も良いメロディーの曲が多いが、サウンド的にはニューミュージックみたいだな、とも感じた。佐野元春がヒップホップを取り入れた「VISITORS」をリリースしたり、サザンオールスターズが「綺麗」「人気者で行こう」などで実験的なサウンドにチャレンジもしていたのも聴いていた当時、やはりそれは面白みに欠けるようにも思われた。
しかし、ライト感覚が受けていたこの時代に尾崎豊の真っ直ぐで真面目な歌詞の世界やボーカルスタイルは新鮮であり、同世代として共感ができるところもあった。「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」といったバラード曲は後に代表曲となるのだが、当時はアルバムの中の隠れた名曲というような印象だったような気がする。
大学受験には失敗したのだが、それでも4月からは東京で一人暮らしをさせてもらえることになった。卒業式が終わり、東京で予備校やアパートも決まり、旭川の実家で暮らすのもあとわずかとなった3月21日にアルバム「回帰線」がリリースされ、これは平和通買物公園のミュージックショップ国原で発売日に買った。
予備校生なので贅沢はいえず、大橋荘という風呂なしで日当たりも良くない四畳半のアパートに住んだ。壁が薄く隣の部屋の生活音が聞こえてくるレベルだったので、夜間に友達を入れたり、ステレオの持ち込みが禁止されていた。音楽を聴くのが好きな私としてはとてもつらい状況だったが、大学に合格するまでと思い、それも勉強のモチベーションにした。「回帰線」は実家でカセットテープにダビングしていたので、それをラジカセで聴いていた。レコードプレイヤーは持ってきていたのでそれをラジカセにつないでレコードを聴こうとしたのだが、なかなかうまくいかず、とても小さい音でしか聴くことができなかった。それで、友人の家にまとめて持っていってカセットテープにダビングしてもらったりしていた。
秋には池袋のビックカメラで生まれて初めてウォークマンを買ったので、新作をレコードではなくカセットテープで買うようになった。ZELDA「空色帽子の日」、米米クラブ「シャリ・シャリズム」、爆風スランプ「しあわせ」、RCサクセション「ハートにエース」、大江千里「乳房」などと同じく、11月28日にリリースされた尾崎豊のアルバム「壊れた扉から」もカセットテープで買った。
この頃には予備校で友人も何人かできていて、授業が終わってから神保町やお茶の水のレコード店や書店を見たり、喫茶店でくだらない話をしたりしていた。尾崎豊はすでに若者のカリスマという感じになっていたが、私の周りにいた人達はもっとライトな感覚のものを求めていて、佐野元春やサザンオールスターズの話はしても、尾崎豊の名前は出しづらい雰囲気があった。それでも何人かは尾崎豊を好んで聴いている人もいて、たとえば北の家族のような居酒屋で音楽の話になり、「壊れた扉から」では「Forget-me-not」が好きだという言って、その一部を歌い出したりもする。後からやはり尾崎豊を秘かに好んでいた別の友人から、ああいういろいろな人がいる場ではあまり好きだと言ったり歌ったりはするべきではないと窘められたりしていた。
大橋荘の真っ暗な部屋に一人で帰ると、冬などはとても寒いのだが、蛍光灯とそれから電気ストーブをつけて、ある程度、体が温まるまではそれにしがみつくようにしている。ラジカセで「壊れた扉から」のカセットを流すのだが、先行シングルとしてもリリースされた「DRIVING ALL NIGHT」の「さまようように家路をたどり 冷たい部屋にころがりこむ 脱ぎすてたコートを押しのけ ヒーターにしがみついた」という歌いだしに、実際にはそんなに格好の良いものではないが、自分自身を重ね合わせてもいた。
大学に入学し、住みはじめた新築のワンルームマンションで、隣に福岡出身の好青年が住んでいて、壁越しに「Scrambling Rock’n’Roll」などが聴こえてきたりすることがあった。たまに会って話をすると、「尾崎、最高ですよ、自由になりたくないか〜い、とか盛り上がりますよ」というようなことを言っていたが、部屋に女の子を連れて来るようになってからは、聞こえてこなくなった。
尾崎豊の楽曲においては「自由」だとか「真実」というようなキーワードが重要だった印象がある。管理教育だとか受験戦争の時代に対する反動だったのではないかというような気もするのだが、一方でお勉強がニューアカデミズム、新人類のような感じでサブカルチャー化しているようなところもあり、個人的にはそっちの方に憧れてもいた。西麻布の無機質な内装のカフェバーだとか、六本木ウェイヴだとかハウスマヌカンやプールバーといったイメージにはこっちの方が近く、それに憧れてもいたので、尾崎豊的な価値観からはどんどん離れていった。
「ロッキング・オンJAPAN」が創刊されたのがこの年の秋で、表紙は佐野元春であった。翌年、1987年にリリースされた12インチ・シングル「核(CORE)」やライブ・アルバム「LAST TEENAGE APPEARANCE」も買っていた。ライブ・アルバムには「真実」を求めることについて語られたMCも収録されていたような気がする。
バブル景気に浮かれる軽薄な時代であり、それに乗っていかなければいけないという感覚がなんとなくある中で、実はよく分からない罪悪感のようなものもなんとなくあり、尾崎豊的なシリアスさというのはそれに対する免罪符のような意味合いで、かろうじて手放さずにいたような気がしないでもない。
そして、尾崎豊は覚せい剤取締法違反によって逮捕される。
1988年6月に復帰シングルのようなかたちで「太陽の破片」がリリースされ、「夜のヒットスタジオDELUXE」でパフォーマンスされる。サウンドだけ聴くとAORのようでもあるが、自由、平和、愛といった単語も歌詞に入ったシリアスな内容である。
この年の夏、実家に帰った時に、母が暑くて眠れずに夜中に「演歌の花道」を録画したビデオを観ていた。私は「太陽の破片」の歌いだし、「昨夜 眠れずに失望と戦った」のメロディーで、「昨夜 眠れずに『演歌の花道』を観た」と歌って、尾崎豊のファンでもあった妹から冷たい目で見られた。この曲を収録していないアルバム「街路樹」は9月1日にリリースされ、妹はすぐに買っていた。ラジオを聴いていると岡村靖幸がこのアルバムから「紙切れとバイブル」をかけたので部屋に教えにいくと、妹もちゃんと聴いていた。
この夏休みには留萌の祖母の家にも家族で遊びに行ったのだが、20歳を過ぎてもお小遣いをもらったので、小さい頃から馴染みのレコード店でリリースされたばかりにRCサクセションの「カバーズ」を買った。妹はレベッカの「OLIVE」を買っていた。
1990年11月15日にリリースされた2枚組のアルバム「誕生」は迷った末に、渋谷の東急百貨店に入っていたCDショップで買った。この年にはフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」、ニューエスト・モデル「クロスブリード・パーク」、ピチカート・ファイヴ「月面軟着陸」、岡村靖幸「家庭教師」、ユニコーン「ケダモノの嵐」といったユニークでクオリティーの高い日本のアーティストによるアルバムがいくつもリリースされていて、それらを熱心に聴いていた耳に、「誕生」はそれほど魅力的に思えなかった。このアルバムはおそらく2、3回ぐらいしか聴かなかったと思う。
尾崎豊の死は、1992年に働いていた六本木ウェイヴのカウンターの中で知ったと思う。その少し後にリリースされたアルバム「放熱の証」はものすごく売れた。
2009年の秋に妹が結婚して、名古屋に住んでいる弟を含め、家族全員が旭川で数十年ぶりに全員集まった。式が終わった後、新郎新婦は別にして、親戚で天人峡温泉の宿にバスで移動し、宴会のようなものを行なった。叔父や叔母たちがカラオケを歌ったり、ラジオや携帯でこっそり北海道日本ハムファイターズと読売ジャイアンツが戦っているプロ野球日本シリーズの途中経過を確認したりしていて、とても楽しかった。
私と弟に歌うようにと声がかかったのだが、叔父や叔母が思う存分歌って楽しめばいいと思っていた私は、一旦は固辞した。しかし、祖母から生きているうちに私や弟の歌が聴けるのは最後かもしれないからと言われたので、歌うしかない。通信カラオケではなく、いまどきレーザーカラオケであり、歌本の限られた楽曲の中から選ばなければいけない。それで、私と弟が選曲したのが尾崎豊の「OH MY LITTLE GIRL」だった。突然にしてはわりとうまく歌えたし、即興で入れたハモりもバッチリと決まっていたと思う。しかし、祖母のために歌ったのがどうしてLITTLE GIRLなのかと、後から笑えてきた。それから1年と数ヶ月後に、祖母は天国に旅立った。