桑田佳祐作品についての個人的な記憶。 | …

i am so disappointed.

2月26日は桑田佳祐の誕生日ということなので、それにちなんで個人的な記憶についてだらだらと書き流していきたい。

 
サザンオールスターズのデビュー・シングル「勝手にシンドバッド」がリリースされたのが1978年6月25日、矢沢永吉「時間よ止まれやサーカス「Mr.サマータイム」のヒットが印象に残る夏である。私は旭川で小学生であり、恒例行事である北海道音楽大行進で演奏したのは松崎しげる「愛のメモリー」だったと思う。
 
「勝手にシンドバッド」はラジオでよくかかっていて、早口で何を歌っているのかよく分からないのだが、独特のグルーヴが感じられるこの曲は、友人達の間でも話題になりはじめた。すぐに大ヒットしたわけではなく、じわじわと売れていった印象がある。「砂まじりの茅ヶ崎」といわれてもそれが神奈川県に実在する地名だということも知らなかったし、「今何時?」と聞かれているのにはっきりしたことは答えないし、「胸さわぎの腰つき」のことは「胸さわぎ残しつき」だと思っていて、「残しつき」などという日本語は無いのだが、まだ小学生だから知らないだけで、実際にはそういう言葉があるのかもしれない、と思っていた。
 
しばらくするとより本格的に売れはじめ、「ザ・ベストテン」にもランクインする。メンバー全員がTシャツと短パン、乱痴気騒ぎ的なパフォーマンスなど、面白いものが大好きな小学生にはたまらないものがあり、レコードも親に買ってもらった。
 
当時の日本の歌謡界には似たような音楽性やキャラクターを持つアーティストはいなく、コミックバンドのような感じで見られていたところもある。当時、小学校のお楽しみ会で私が台本を書いたベストテン番組をパロディー化したコントにおいても、サザンオールスターズのくだりではボーカルが訳の分からないことを喚きちらして、全員が入り乱れ、次の順位の発表にいくというひじょうに雑なものであった。ちなみにそのコントのタイトルは、「しっちゃかめっちゃベストテン」という小学生だったとしてもセンスの欠片も感じられないものであった。
 
次のシングル「気分しだいで責めないで」は11月25日に発売され、「勝手にシンドバッド」とよく似たタイプの曲であった。「ザ・ベストテン」にもランクインしたがインパクトは確実に弱まっていた。桑田佳祐は曲のパフォーマンス中に「ノイローゼ!ノイローゼ!」などと叫んでいた。曲が思うように書けず、実際にそのような状況に陥っていたらしい。このシングルは翌年のお年玉を使って、西武百貨店のレコード売場で買った記憶がある。
 
3枚目のシングル「いとしのエリー」は1979年3月25日に発売され、この数日後に私はやはり旭川の中学校に入学した。ラジオで聴いたが、普通の曲だなと思った。前の2枚のシングルのように「ザ・ベストテン」にもランクインしなく、このまま人気がなくなって消えていくのかなと、なんとなく思っていた。しかし、何度か聴いているうちに実は良い曲なのではないかと思えてきて、特に「寄り添う気持ちがあればいいのさ」のところのメロディーが好きだった。
 
同じように感じた人は他にもたくさんいたようで、曲は少しずつ売れていき、「ザ・ベストテン」にもランクインして7週連続を記録する大ヒットとなった。一緒に学校に行っていた友人がいて、ある朝、いつものように彼の家に寄ると、前の夜に旭川で行われたサザンオールスターズのコンサートに行ってきたという彼の姉が、レコードに合わせて「いとしのエリー」を熱唱していた。当時、私は「オールナイトニッポン」などの真似をして架空のラジオ番組「ファイトで行こう!」(中学生だったとしてもセンスが無さすぎる)というのをカセットテープに録音していたのだが、彼女はそれを聴いて感想を言ってくれるような良い人だった。
 
当時、新聞の折り込みで見たポスティングのアルバイトをして小遣いを稼ぐということもやっていたのだが、トランジスタラジオをつけてHBCラジオの「ベストテンほっかいどう」という番組をよく聴いていた。この番組は令和になった今日もまだ存続しているのだが、当時のパーソナリティーであったミスターデーブマンはもう亡くなってしまった。アルバイト中に聴いた曲としてよく覚えているのが、郷ひろみ「いつも心に太陽を」とサザンオールスターズ「思い過ごしも恋のうち」であった。
 
「思い過ごしも恋のうち」はサザンオールスターズの4枚目のシングルとして1979年7月25日に発売されたが、すでに発売されていたアルバム「10ナンバーズ・からっと」からのシングル・カットであった。それにもかかわらずこの曲は売れて、「ザ・ベストテン」でも最高4位まで上がった。中学1年ともなるとクラスに好きな女子がいるのだが言えないというような状況も生じてくるわけで、この曲の歌詞はそんなピュアハートにわりとガツンときたりもしていた。
 
そして、10月25日には5枚目のシングル「C調言葉に御用心」が発売され、これも順当にヒットする。「日清焼きそばUFO」のCMに出演したりと、サザンオールスターズはもうすっかり人気者であった。歌番組の中継先で桑田佳祐がいしいひさいちによるコミック「がんばれ!!タブチくん‼︎」の第3巻を持っていて、旭川の書店ではまだ入荷していなかったので、東京は良いなあと思ったことをなぜかよく覚えている。
 
翌年のお年玉で私はサザンオールスターズのベスト盤「ベスト・オブ・サザンオールスターズ」のカセットテープを買い、その時にもらったポスターも部屋の壁に貼っていた。このアルバムはカセットのみでの企画だったようで、レコードでは発売されていなかった。
 
1980年に入るとサザンオールスターズは楽曲制作に集中するためにテレビ出演などの活動を控え、シングルを短い間隔でリリースするようになった。メディアへの露出が減ったかともあり、シングルの売上は低迷したがアルバムは売れていて、「タイニィ・バブルスで初のオリコン週間アルバムランキング1位を記録した。このアルバムに収録されていながら同じ日にシングルでも発売された「恋するマンスリー・デイ」は女性の生理を題材にした内容で、シングルの売り上げはさらに落ち込んでいくことになった。
 
「いなせなロコモーション」では少しは持ち直した印象があり、田園コロシアムかどこかでのライブの映像をテレビで観た記憶がある。その後に出た「ジャズマン(JAZZ MAN)」「わすれじのレイド・バック」は本当に印象が薄く、通学路のレコード店に陳列されているジャケットはよく目にしたのだが、ほぼそれだけであった。世はYMOのテクノブームであり、田原俊彦や松田聖子のデビューにより、アイドル歌謡が久々に盛り上がりを見せはじめた頃である。また、山下達郎が本人出演のテレビCMで流れていた「RIDE ON TIME」で初のヒットを記録していた。
 
1979年の年末あたりだったと思うのだが、桑田佳祐がラジオでアイドルの倉田まり子が良いというようなことを言っていて、私もなんとなく好きになったような気がする。それで、テレビの物まね番組で倉田まり子がプラスチックスの曲を歌っていたような気がして、それをきっかけにプラスチックスのファンになった。という記憶なのだが、インターネットを探してもそういった記録が見つからず、そもそもプラスチックスがテレビ番組で物まねされるほどメジャーだったのかという疑問も残る。いまだに解決していない謎である。
 
また、「タイニィ・バブルス」に収録されていた原由子のボーカル曲「私はピアノ」を高田みづえがカバーして、オリコン週間シングルランキング最高5位のヒットを記録するということもあった。80年代のはじめ、サザンオールスターズはお茶の間レベルではひじょうに地味な存在になっていたが、アルバムが売れ、良い曲を書く実力派バンドとしての地位は着々と築いていっていた。
 
この年の最後にリリースされたシングル「シャ・ラ・ラ」をラジオで聴き、とても良い曲だと思ったし、いまでも大好きである。これはクリスマスの時期に恋人と一年を振り返るという素晴らしい内容だが、当時は実際に見たこともなかった横浜という街への憧れもいだかせるものであった。
 
1980年といえば田中康夫が「なんとなく、クリスタル」を発表した年でもあり、これをきっかけに文壇やメディアに颯爽とデビューするのだが、サザンオールスターズについてはおしゃれな音楽のようにいわれがちだが、実質的には春歌の現代版ではないかというようなことを書いていたような気がする。桑田佳祐も雑誌の連載でレイ・パーカー・ジュニアか誰かを取り上げた回で、田中康夫の悪口を書いていたような気がする。
 
田中康夫が春歌に例えたように、サザンオールスターズの歌詞には性を扱ったり連想させるものがひじょうに多い。デビュー・アルバム「熱い胸さわぎ」に収録されていた「女呼んでブギ」などは、その最たるものであろう。
 
そして、1981年のアルバム「ステレオ太陽族」に先がけてシングル「Big Star Blues(ビッグ・スターの悲劇)」がリリースされた。イトーヨーカドーの地下にあった玉光堂でかかっているのを聴いたが、当時の日本の流行歌とはかけ離れたタイプの曲で、サザンオールスターズがまた再び「ザ・ベストテン」に出るようなことはもう無いのだろうなと寂しく思うのと同時に、ロック・バンドとしてはおそらくこの方が良いのだろうと思ったりもしていた。中学校の同級生で、ビートルズを好んで聴いている一人の男子生徒がサザンオールスターズを熱心に応援し続けていた。
 
「Big Star Blues(ビッグ・スターの悲劇)」には、「放送禁止などの仕打ちも軽やかなるままに」という歌詞がある。これはこの少し前にリリースした原由子のソロシングル「I Love Youはひとりごと」が放送禁止にされたことを言っているのだと思う。「やさしいだけの男より 情熱のORAL ちょっと待ってよ いっちゃいそうはひそやかに」といった、性を連想させる歌詞が問題になったと思われる。
 
そして、「Big Star Blues (ビッグ・スターの悲劇)」においておそらくこの件に言及した少し後に、「You & Me, Oh, man go」という英語の歌詞がある。「Oh, man go」という英語がこの文脈で何を意味しているのかは定かでははないのだが、音として聞くと日本語の放送禁止用語のように聞こえなくもない。
 
サザンオールスターズの14枚目のシングル「チャコの海岸物語」がリリースされたのは1982年1月21日で、松田聖子「赤いスイートピー」と同じ日である。この曲を初めて聴いたのはラジオだったのだが、このわざと崩したような歌い方と歌謡曲っぽいメロディーは何なのだと思った。これが久しぶりの大ヒットとなったのだが、田原俊彦の歌い方を意識したものだったことはずっと後になってから知った。とにかくシングル・ヒットを狙って作られたらしく、その目的は達成されたといえる。
 
オリコン週間シングルランキングでの最高位を見ていくと、「勝手にシンドバッド」から「C調言葉に御用心」まで5枚連続で10位以内に入った後、「涙のアベニュー」が16位、「恋するマンスリー・デイ」が23位、「いなせなロコモーション」が16位、「ジャズマン(JAZZ MAN)」が33位、「わすれじのレイド・バック」が41位、「シャ・ラ・ラ」が29位、「Big Star Blues(ビッグ・スターの悲劇)」が49位、「栞のテーマ」が44位と来ての「チャコの海岸物語」の2位であった。桑田佳祐と原由子の結婚もこの頃で、祝福ムード盛り上がっていたような記憶がある。
 
この頃、桑田佳祐は嘉門雄三の名義で洋楽を中心としたライブ・アルバム「嘉門雄三 & VICTOR WHEELS LIVE!」をリリースし、オリコン週間アルバムランキングで最高8位を記録している。ビートルズ、ボブ・ディラン、ザ・バンド、ビリー・ジョエルなどの他、AORのマーティ・バリン「ハート悲しく」やクインシー・ジョーンズのアルバム「愛のコリーダ」からシングル・カットされた「ジャスト・ワンス」などもカバーされていた。
 
サザンオールスターズは次のシングル「匂艶 THE NIGHT CLUB」もオリコン週間シングルランキングで最高8位、アルバム「NUDE MAN」も順当に1位と、人気と実力とを兼ね備えた国民的バンドという感じに、この頃になったような気がする。このアルバムからは「夏をあきらめて」を研ナオコがカバーしてヒットさせ、「熱めのお茶」「意味シンなシャワー」といったフレーズは13年後にスチャダラパー「サマージャム’95」でも引用されていた。また、中村雅俊に提供した「恋人も濡れる街角」もヒットした。
 
この年の10月5日にシングル「Ya Ya (時代を忘れない)」がリリースされ、これは学生時代を懐かしむ内容のバラードであった。「ひとり身のキャンパス 涙のチャペル」はサザンオールスターズが結成された青山学院大学であり、「目にうかぶのは better days」には所属していたサークル名も入っている。数年後、私がこの大学を受験し、入学しようと思った理由の何パーセントかはこの曲にあったかもしれない。
 
年が明けて1983年、テクノ歌謡(当時、このような呼び方はされていなかったと思うが)とシティ・ポップが流行っていた。この年いっぱいで解散ならぬ散開することになるYMOは「君に、胸キュン。」でオリコン週間シングルランキング最高2位を記録したが、1位を阻んだのは細野晴臣による松田聖子「天国のキッス」であった。山下達郎は後にスタンダードナンバーとなる「クリスマス・イブ」を収録したアルバム「MELODIES」をリリースした。
 
サザンオールスターズは3月5日にシングル「ボディ・スペシャルⅡ」をリリース、オリコン週間シングルランキングで最高10位と、4曲連続でのトップ10入りを果たした。ジャケットは女性の上半身ヌードというひじょうに攻めたものであり、歌詞にも「愛し君の shyなMan Callで」と、音で聞くと日本語の放送禁止用語に聞こえなくもない英語が含まれていた。
 
その頃、夏に札幌でRCサクセションとサザンオールスターズとの対バン的なライブが行われると、ラジオなどで告知されていた。いずれも当時、大人気のバンドであり、私はチケット購入を一度、断念したのだが、協賛企業の関係者のおかげでなんとか入手することができた。RCサクセションの「OK」とサザンオールスターズの「綺麗」というそれぞれの最新アルバムは同じ7月5日に発売され、どちらも買ってよく聴き込んでいた。このアルバムにおけるサザンオールスターズはポピュラーなバンドであるのと当時に、音楽的にひじょうに実験的なことにも取り組んでいて、「ミュージック・マガジン」の中村とうようなども高く評価していた。アルバムは当然のように1位になったのだが、同じ日に発売され、ジャケットもひじょうによく似ていたシングル「EMANON」は最高24位と、久しぶりにトップ10入りを逃がした。個人的にはAORっぽくてとても好きな曲である。このアルバムでは他に「サラ・ジェーン」なども特に好きである。原由子のボーカル曲「そんなヒロシに騙されて」を高田みづえがカバーして、「私はピアノ」に続いてヒットを記録した。
 
札幌の真駒内野外競技場で行われた「HOKKAIDO SUPER JAM '83」には、高校で同じ学年だった少し悪そうな女子と一緒に行った。当時、RCサクセションとサザンオールスターズには直接的な接点があまり無かったようで、忌野清志郎がラジオでサザンオールスターズについてフォークバンドだとかぶっ潰してやるなどと言っていたことをファンからの投稿によって知った桑田佳祐が怒るというようなこともあったような気がする。ライブは素晴らしく、まさに伝説の夜と呼ぶに相応しい内容だったが、忌野清志郎と桑田佳祐も互いを称え合い、最後には「雨上がりの夜空に」を一緒に歌っていた。先にステージを終えていた桑田佳祐は、舞台袖からRCサクセションのパフォーマンスを観て泣いたと告白している。
 
この年の秋には原由子のソロ・シングル「恋は、ご多忙申し上げます」がオリコン最高5位のヒット、修学旅行のバスの中でも誰か女子が歌っていた。この修学旅行の東京での自由行動の時間に、私はオープンして間もない六本木ウェイヴに行った。バスでは1人ずつアカペラで歌を歌わなければいけないというイベントが発生したのだが、アルフィー「メリー・アン」、小泉今日子「艶姿ナミダ娘」などが歌われる中、私はダリル・ホール&ジョン・オーツの「ワン・オン・ワン」を歌うという、ひじょうに嫌な高校生であった。
 
ところでモータウンビートのキャッチーなポップ・ソングという印象があったこの曲を久しぶりに聴いてみると、「遊び疲れた身体に 彼のにおいがまだ生々しい」と、ちゃんと性愛を感じさせる内容だったのにはさすがだと思った。この曲はヒットしたのだが、サザンオールスターズの「東京シャッフル」は最高23位と振るわず、次のシングルは翌年、1984年6月25日発売の「ミス・ブランニュー・デイ」であった。この年はニューヨークから帰ってきた佐野元春がそれまでとはまったく音楽性が違うアルバム「VISITORS」を発表したことにより、従来のファンがざわついたり盛り上がったりそれぞれであった。サザンオールスターズのこのシングルも電子楽器の効果的な導入などに新しさが感じられ、音楽的なアイデアにも溢れた、とても素晴らしいポップ・ソングだと思った。この曲はオリコン最高6位と久々のヒットとなり、アルバム「人気者で行こう」も当然のように1位になった。そして、次のシングル「Tarako」が突然、英語詞の楽曲で、これはアメリカ進出を視野に入れたものだったという。これがオリコン最高11位であった。
 
翌年の春で私は高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめる。晴れて大学生、ではなく浪人生である。意外と楽しかった。サザンオールスターズはシングル「Bye Bye My Love (U are the one)」「メロディ」がオリコン週間シングルランキングでそれぞれ4位、2位、「ザ・ベストテン」ではいずれも1位を記録した後、初の2枚組アルバム「KAMAKURA」をリリースした。当時、私が住んでいた文京区千石の大橋荘は家賃が安いかわりに壁がひじょうに薄く、ステレオの持ち込みが禁止されていた。それで、レコードプレイヤーをラジカセにつなぎ、とてもしょぼい音で聴いていた。それで、予備校で知り合った松戸から通っていた友人に頼んでカセットテープにダビングしてもらい、その代わりにレコードを貸すことになった。カセットテープは池袋のビックカメラで買った生まれてはじめてのウォークマンなどでよく聴いたが、レコードは返してもらうタイミングを逸した。数年後、夏休みに帰省した旭川のマルカツデパートで、中古レコードを千円で買った。
 
その後、サザンオールスターズは活動を一時休止し、桑田佳祐はKUWATA BANDでの活動をはじめる。「BAN BAN BAN」はレコードを買ったが、次に同日リリースされた「MERRY X'MAS IN SUMMER」「スキップ・ビート」は小田急相模原のイトーヨーカドーの近くにあったレコードレンタル友&愛でレンタルした。そう、私は青山学院大学に入学し、サザンオールスターズの後輩になっていたので、厚木キャンパスに通いやすいように小田急相模原に住んでいた。「Lennonが流れるRock Cafe」というフレーズではじまる「スキップ・ビート」が都会的で好きだったのだが、この曲もまた「割れたパーツのマニア」「君にとりこの純生(なま)ジュニア」とか、タイトルからして歌では「スキップ・ビート」というよりは「スケベ」にしか聴こえなかったり、つまりそういう曲であった。オリコン週間シングルランキングで1位に輝くが、実はこれが桑田佳祐にとって初めてオリコンで1位になったシングルである。「いとしのエリー」も「チャコの海岸物語」も2位止まりで、サザンオールスターズで初めてオリコンシングル1位を記録したのは、デビューから10年以上が経過した1989年の「さよならベイビー」であった。KUWATA BANDは11月にシングル「ONE DAY」をリリースし、これも1位を記録した。アルバム「NIPPON NO ROCK BAND」にはこれらのシングルは収録されず、全曲が英語詞による楽曲だったが、それでもオリコン週間アルバムランキングで1位を記録した。年末にはライブ・アルバム「ROCK CONCERT」もリリースしている。
 
近田春夫がPRESIDENT B.P.M.の名義で日本語によるラップをはじめ、最初の12インチ・シングル「MASSCOMMUNICATION BREAKDOWN」をリリースしたのが1986年だが、翌年にはリアル・フィッシュが12インチ・シングル「ジャンクビート東京」をリリースし、これにはいとうせいこうと共に、桑田佳祐がラップで参加していた。
 
1987年10月6日には初のソロ・シングル「悲しい気持ち(JUST A MAN IN LOVE)」をリリース、東京プリンスホテルでの配膳のアルバイトの帰りに、小田急相模原のオウム堂で買った記憶がある。当時、もうすでにCDの時代だったが、この頃はCDシングルがまだ存在しなく、シングルだけはアナログでしか発売されていなかった。翌年のシングル「いつか何処かで(I FEEL THE ECHO)」に続き、アルバム「Keisuke Kuwata」がリリース、このアルバムはシティ・ポップリバイバルの流れで再評価されたりもしているようである。同じ頃にサザンオールスターズがシングル「みんなのうた」で活動再開、個人的にこの頃は岡村靖幸とエレファントカシマシばかり聴いていた記憶がある。
 
1989年はアダルトビデオ女優をテーマにしたシングル「女神達への情歌(報道されないY型の彼方へ)」で、プロモーションビデオには人気アダルトビデオ女優の松本まりなが出演、「さよならベイビー」「フリフリ’65」といずれもヒットして、80年代が終わる。というか、この年から平成だった。90年代がはじまった瞬間、私はローソンで夜勤のアルバイトをしていて、店内放送では「フリフリ’65」がかかっていた。客として来ていたカップルの女性の方が、「ひとりぼっちのねえちゃん もうちょいと寄ってんさい」の「寄ってんさい」のところを一緒に歌って、男が苦笑いをするというまったくどうでもいい場面をなぜだかいまでも忘れずによく覚えている。これらを収録したアルバム「Southern All Stars」では「YOU」が好きだったが、フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」とかニューエスト・モデル「クロスブリード・パーク」とかピチカート・ファイヴ「月面軟着陸」とかもっと好きなものがいろいろ出ていて、あまりメインで聴く感じではなくなっていた。
 
夏に出たシングル「真夏の果実」は映画「稲村ジェーン」の主題歌だったと思うが、この映画は観ていない。映画といえばこの夏は高岡早紀が主演していた「バタアシ金魚」が最高だった。歌舞伎町の映画館で観た。それから少しして、日本のポップ・ミュージックをほとんど聴かなくなったので、それからは疎遠になる。1993年の夏、土曜日に渋谷ロフトの1階にあったWAVEに行くと、店頭でサザンオールスターズのシングル「エロティカ・セブン」「素敵なバーディー」の拡販を行っていて、「エロティカ・セブン」の陽気なイントロに合わせて、何人かの女性スタッフが楽しそうに踊っていた。
 
この年の秋に出た桑田佳祐のソロ・シングル「真夜中のダンディー」を有線放送で聴いて、「暗い女の部屋でマヌケな肌をさらし」ではじまる歌詞の生々しさにすごさを感じたりした。テレビ神奈川の「ミュージックトマトJAPAN」でGREAT3などを観ていたのは、「渋谷系」もブリットポップもピークを過ぎていた1996年だが、サザンオールスターズの「愛の言霊~Spiritual Message~」のビデオも流れ、ベテランなのにラップを取り入れたり新しいことをやっていてすごいなと思った。1998年にCDを仕入れて販売するような仕事に転職をしたのだが、サザンオールスターズのベスト・アルバム「海のYeah!!」が売れまくっていて驚いた。2000年に「TSUNAMI」が大ヒットして、大学生のアルバイトなどもとても良い曲だと言っていた。私が小学生の頃にデビューしたバンドが30代になったいまでも10歳以上年下の人達から支持されているなんて、本当にすごいことだなと思った。
 
サザンオールスターズの名曲ベストいくつなどという企画がたまに行われていて、見てみると私がリアルタイムで夢中になって聴いていた頃の曲は「いとしのエリー」ぐらいしか入っていない。2013年の「ピースとハイライト」は良かった。
 
サザンオールスターズや桑田佳祐の作品がサブスクリプションサービスでも解禁され、私もApple Musicでこれらの楽曲が思う存分に聴ける環境になった。私が熱心に聴かなくなってからの方が遥かに長く、世間一般的に高く評価されている曲も多いようだ。せっかく同じ時代に生きているというのになんだかとても勿体ないような気もするので、機会があればまとめてちゃんと聴いてみたいと思う。