HMV渋谷に「渋谷系」の売り場ができる少し前のことについて。 | …

i am so disapointed.

ピチカート・ファイヴの日本コロムビア時代の音源がサブスクリプションサービスで解禁されたり、小山田圭吾が帯にコメントを寄せ対談にも参加している小出亜佐子「ミニコミ『英国音楽』とあのころの話 1986-1991」を出版したり、小沢健二が17年ぶりのボーカルが入ったアルバム「So kakkoii 宇宙」をリリースしたりと、いわゆる「渋谷系」的な話題が少なくとも私の周りではなんとなく盛り上がっているような気がしていた矢先に、音楽ニュースサイトの「音楽ナタリー」が、「渋谷系を掘り下げる」という短期集中連載をはじめた。

 

これを書いている時点では第1回目だけが公開されているが、ひじょうに充実した内容で、まさにこういうのが読みたかった、といえるようなものであった。HMV渋谷の「渋谷系」コーナー的な売り場をつくった人として、当時から一般の音楽ファンにまで名前が知られていた太田浩さんのインタヴューが掲載されている時点でひじょうに本質的な予感を感じたのだが、内容は素晴らしく、また、写真の数々にも胸躍らされた。当時のHMV渋谷の外観写真を見て、入口のところに「LONDON」「TOKYO」とかそういえば書かれていたなとか、当時の街の人々のファッションというのはこんな感じだったな、とかいろいろ思い出したりもした。これぞプロの仕事であり、「君が君の仕事をする時 偉大な宇宙が薫る」というものである。

 

そこで、いろいろ懐かしくもなったので、これとはまったく別の視点によって、きわめて主観的で低クオリティーな覚え書き的なものを、また記録のために書いておこうかと思った。このブログのコンセプトはあくまで私の個人的な生活の記録であり、そのときにおもしろいと思ったり懐かしいと思ったことなどを書いていくことが目的だからである。

 

HMV渋谷がオープンしたのは1990年11月16日、とこれは「音楽ナタリー」の記事にも載っていた。同じ年の9月22日には、新宿のマルイシティ地下にヴァージン・メガストアがオープンしている。いずれも、日本での第1号店である。これまで東京で輸入盤のCDが買えるチェーン店といえば、タワーレコードとWAVEが有名であった。タワーレコードはアメリカの企業で、WAVEは日本セゾングループに属していた。HMVとヴァージン・メガストアはいずれもイギリスの大手チェーンであり、これらが同時期に日本進出ということで、当時、話題になっていた。外資系CDショップという言い方がポピュラーになったのも、これ以降ではないかと思われる。

 

タワーレコードは日本での第1号店をまず、札幌でオープンするのだが、これはタワーレコードを勝手に名乗って営業していた店をアメリカのタワーレコードが買収して開店したものであった。当時、旭川で中学生だった私はこのタワーレコードの噂を、兄が札幌の大学に進学したという友人から聞いて知っていた。それで、高校入試に合格が決まった1982年の3月にはじめて行ったのだが、五番街ビルという雑居ビルのエレベーターに乗り、2階で降りてドアを開くとそこはもうアメリカという雰囲気であった。当時のタワーレコードでは日本のアーティストのレコードはもちろん、海外アーティストの国内盤すら置いていなく、純粋な輸入盤専門店であり、アメリカから届いた分厚いフリーペーパーなども置かれていた。この翌年に渋谷にオープンしたのが日本における2号店で、東急ハンズの近くの現在はサイゼリヤになっている場所にあった。1階はジーンズメイトで、入口のところに海賊版のビデオカセットを売っている細い店があったような気がしていたのだが、「ミニコミ『英国音楽』とあのころの話 1986-1991」に掲載された座談会で小山田圭吾が言及しているので、やはりあれは間違いなくあったのだと確信できた。タワーレコードがJ-POPの取り扱いを本格的に開始したのは1990年からということなので、HMV、ヴァージン・メガストアの日本進出と同じ年ということになる。

 

WAVEは1983年11月18日、六本木WAVEをオープンしたのが最初である。当時、旭川の高校生だった私は「宝島」で読んでこの店のオープンのことを知っていたのだが、偶然にも修学旅行があり、京都や奈良を見学した後、東京での数時間の自由行動のあいだに行ってきたのであった。ビルすべてがレコード店であり、最新の輸入盤がめちゃくちゃある、音楽ファンにとっては夢のような空間であった。マニアックな品揃えも特徴ではあったのだが、ヒットチャートものばかり聴いているミーハーだった私は、カルチャー・クラブやダリリ・ホール&ジョン・オーツといった、別に旭川のミュージックショップ国原や玉光堂でも簡単に買えるレコードを、わざわざ六本木で買って帰ったのであった。集合場所の上野恩賜公園に戻ると、中古レコード店で当時は廃盤になっていたビリー・ジョエルのデビュー・アルバム「コールド・スプリング・ハーバー」を手に入れたという者や、クリームソーダで財布などを買うために原宿に行ったら映画「フラッシュダンス」に主演していたジェニファー・ビールスに会ったという者などがいた。

 

その後、WAVEは渋谷ロフトの1階にも出店するのだが、渋谷にある大学に通い、通学定期券も持っていた私は、ここでCDを買うことが最も多かったような気がする。あと、東急ハンズのタワーレコードとは別の方角の向かい辺りにあったFRISCOでもよく買っていた。ここはCISCOのCD販売店で、同じビルにはディスクユニオンやレコファンもあったはずである。ここのレコファンには、お金がなくなったときによくCDを売りにいっていた。そして、FRISCOに行ってそのお金でまた新しいCDを買うこともあった。

 

HMV渋谷にはじめて行ったのも、大学の講義が終わった後、渋谷の本屋やCDショップをいくつか回っている最中だったと思う。特に大きなインパクトを受けたという印象もないのだが、やたらと大勢のアルバイトっぽい人たちがおそらく休憩のためなのだろうが、地下の売場から歩いてきたということはなんとなく覚えている。当時、大学を留年し、ローソンの夜勤のアルバイトで生活していた私は、こういうところで働けたら楽しいだろうな、とうらやましく思って見ていたのであった。渋谷のセンター街を入り、カメラのさくらやよりもさらに先に行ったところに、ONE-OH-NINEというファッションビルがあり、HMV渋谷はここの地階と1階のわずかなスペースに出店していた。ONE-OH-NINEは渋谷ギャル文化のメッカ的存在でもあった109のより大人向けのファッションビルとして、1986年にオープンした。というか、そもそも20代の女性をターゲットにしていた109を10代向けにリニューアルしたことにともない、本来のターゲット層を狙った店舗をこちらにしたというのが実際のようだ。1階にボディーショップがあって、HMV渋谷でCDを買った帰りにシャンプーやボディーソープなどを買うこともあった。

 

HMV渋谷では地下の広い売り場で洋楽、1階の狭い売り場で邦楽のCDを扱っていた印象がある。現在はMEGAドン・キホーテ渋谷本店となっているその入口から入り、左側が邦楽CDの売場だったことはよく覚えていて、50音順にCDが並んだ棚をくまなく見ていた記憶もある。そして、入口から見て右側のスペースが後に「渋谷系」コーナーとなるのだが、オープン当時にどのような売り場だったのかを、よく思い出せない。街路に面したガラス張りのDJブースのようなものがあり、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「ギヴ・イット・アウェイ」がかかっていたことをなんとなく覚えているので、あれは1991年の秋ぐらいだったということになる。この時点で「渋谷系」コーナーはまだなかったし、「音楽ナタリー」の記事によって、太田さんはこの頃に邦楽売り場の担当になったばかりだったということも分かった。

 

HMVやヴァージン・メガストアが日本に進出する以前、タワーレコードにはアメリカものがメインだというイメージがあり、イギリスのニュー・ウェイヴなどはWAVEの方が充実しているという印象があった。HMVやヴァージン・メガストアができたらそっちで買うようになるのかな、とも思っていたのだが、実際にはあまりそうはならなくて、やはりWAVEやFRISCOで買うことが多かった。当時、アメリカ盤とヨーロッパ盤とのあいだには結構な価格差があったような印象があるのだが、オープンしてそれほど経っていない頃に何度かHMVやヴァージン・メガストアでCDの価格を見て、やや高いなと思うことがあった。たまたまだったのかもしれないが、なんとなくその印象が強く、HMVやヴァージン・メガストアではあまり買っていなかった。

 

1991年といえば、私がいよいよローソンでの夜勤のアルバイトにそろそろ飽きてきて、六本木WAVEで契約社員として働きはじめた年でもある。実際にはアルバイトのようなものなのだが、雇用形態としては契約社員であり、内部的にはメイトなどといわれていた。特に夕方ぐらいから22時の閉店までの時間帯はナイトメイトなどと呼ばれ、なにやら淫靡な雰囲気をただよわせてもいた。やはり人気があるようで、人員に空きがあること自体に驚いたのだが、実はポピュラーの売場では人が足りていて、クラシック売場では足りていないので、とりあえずそちらに入って、空きができたらポピュラー売場に異動するのはどうか、といわれた。クラシックにはまったく興味がなかったのだが、夢の六本木WAVEで働けるし、空きができたら異動もできるらしいということで、ここで働くことにした。そして、しばらくはオペラのぶっといCDをビニール袋のようなものできれいに包む仕事や、レジ業務などをストイックにやっていた。エルヴィス・コステロに接客できたのはよかった。あと、向かいの方にストアデイズという写真集や雑貨などを販売する店があったのだが、そこで渋谷陽一やモリッシーを見たときにも感激した。モリッシーにはファンだという女性新入社員などが気軽に話しかけにいったりしていたが、私はただ遠くから眺めているだけであり、本当に好きな有名人に会ったときに、人はこんな状態になるんだ、という状態を体験した。

 

クラシック売り場には私と同じように、本当はポピュラーの売り場で働きたいのだが、空きができるまで待っているようなタイプの店員が他にもいて、休憩時間にザ・シャーラタンズとかジーザス・ジョーンズとかEMFとかの話題で盛り上がったりもしていた。そのうち、やはり同じような境遇にあるという人が、新人として入ってきた。モーツァルトにひじょうに詳しいと評判であったマネージャーからは、ネオアコとかネオサイケとかが好きらしくて話が合うと思うよ、と言われていた。やはり彼とはわりと話があったのだが、イギリスのニュー・ウェイヴのようなものばかりを聴いているという印象を受けた。ギター・ポップとかアノラックとかいうことを、彼との会話ではじめて聞いたような気がする。パステルズというバンドを薦められたので聴いてみたのだが、ヘナヘナのボーカルと演奏が魅力的で、とても良いなと思った。

 

当時の私は「ミュージック・マガジン」などのレヴューや記事を参考にしてCDを買っているようなタイプの音楽ファンであり、ポップ・ミュージックをメッセージ性やサウンドの革新性という面からおもに評価していたようなところがある。それで、1980年代後半、特にザ・スミスが解散したあたりから、ギターを主体としたロックの時代はもう終わったとわりと本気で考えていて、ヒップホップとかハウスとかワールド・ミュージックとかの方がおもしろいと思っていた。ザ・ストーン・ローゼズのデビュー・アルバムが「ロッキング・オン」などで絶賛されていたので買って聴いてみたのだが、どこが良いのかよく分からず、わりとすぐにレコファンに売ってしまったと思う。

 

このような感じだったので、彼のことも話はとてもおもしろいし、ビッグマウスなところも大好きだったのだが、狭いジャンルの音楽を深く掘り下げるタイプの音楽ファンで、自分とはかなり違うな、とも感じていた。ヒップホップやワールド・ミュージックについては、自分の生活には関係がないので興味がないというようなことも言っていて、ザ・スミス「パニック」の歌詞みたいだなとも思った。

 

六本木WAVEの裏にあった公園で、休憩時間に一緒に過ごすこともあったのだが、彼はよく英字新聞のようなものを読んでいた。それが、後に私が毎号欠かさず読むようになる「NME」なのだが、プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーのインタヴューが載っていて最高だと言っていたので、少しだけ読ませてもらった。すると、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」に匹敵するような音楽をつくるというようなことをわりと本気のトーンで言っていて、これは最高だと思った。当時の私はポップ・ミュージックのパターンというのはすでにある程度、出尽くしくていて、新しいジャンルが生まれたりはするのだが、たとえば1960年代のビートルズを超えるものは生まれないのだろうと、わりとそういう考えを持っていた。しかし、彼は同時代感覚こそが重要なのであり、彼にとってはビートルズよりもザ・ストーン・ローゼズの方が重要だし、プライマル・スクリームのアルバムがビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を超える可能性はいくらでもある、というようなことも言っていた。

 

しかし、彼はプライマル・スクリームについて悩みを抱えてもいた。「ハイヤー・ザン・ザ・サン」というシングルが「NME」で絶賛されているのだが、何度聴いても良さが分からない。知り合いのレコード店のコメントカードも書かなければいけないのだが、自分で思ってもいないことは書くことができない。それで、何度も繰り返し聴くのだが、クラブ・ミュージックとして優れているのかもしれないが、果たしてこれをプライマル・スクリームがやる必然性はあるのか、というようなことを公園でずっと言っていた。カルピスウォーターが大人気で、自動販売機ではいつも売り切れていた。また、セイント・エティエンヌをどう評価するべきか、ということについても語り合った記憶がある。

 

私は「ハイヤー・ザン・ザ・サン」のCDシングルを六本木WAVEの社販で買って、渋谷行きのバスに乗りながらソニーのディスクマンで聴いたのだが、テクノでアンビエントでサイケデリックでニュー・ウェイヴでもあって、なんだか新しいし最高なのではないかと思い、彼もだんだん良くなってきたというようなことを言っていたのだが、ボビー・ギレスピーのボーカルすら入っていない次のシングル「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」では、ふたたび頭をかかえていた。彼との会話によって、私はポップ・ミュージックの魅力というのは、込められたメッセージ性だとかサウンドの革新性とは実はそれほど関係がない、少なくともすれがすべてではなく、シンプルに良いと感じるかどうかなのだという、とても大切なことを思い出させてくれた。彼との出会いがなければ、ティーンエイジ・ファンクラブ「バンドワゴネスク」やレモンヘッズ「イッツ・ア・シェイム・アバウト・レイ」などを気に入ることもなく、その後の音楽ファンとしての生活もかなり違ったものになっていたと思う。海外のどのネオアコのバンドよりもフリッパーズ・ギターの方がすごいと思うと言っていた彼は、私よりも先に六本木WAVEを辞めて、その後は連絡を取ることもなかった。数年後、広告代理店で残業をしていた私に、彼が家族旅行先で亡くなったという報せが届いた。

 

六本木WAVEのクラシック売り場にいた社員は、市場調査の目的でよく出かけることがあったのだが、HMV渋谷のことはかなり意識していたようである。興味があるジャンルではなかったのでまったく覚えていないのだが、HMV渋谷はクラシックにもかなり力を入れていたのだろうか。この頃、「渋谷系」という言葉もおそらくまだなかったし、HMV渋谷に「渋谷系」的なものを感じてもいなかったと思う。

 

翌年、ポピュラー売り場に異動することができたのだが、その年の秋に大きなリニューアルが行われるまでは、3階のポピュラー売り場で洋楽と邦楽のいずれをも扱っていて、店内でかかる音楽はレジカウンター内にいる店員が選ぶことができた。邦楽で特に強く売り出したい新譜がある場合には、担当者の指示でそればかりかけなければいけなかったのだが、わりと自由な時間が多かった印象がある。アシッド・ジャズやレゲエ/ダンスホールなどを好む人たちと、ネオアコやギター・ポップ、インディー・ロックを好む派に分かれていて、まったく混じり合ってはいなかった印象がある。TOKYO NO.1 SOUL SETのアルバムがやたらとヘビーローテーションされていた記憶がある。また、オリジナル・ラヴの「結晶」がリリースされたのもこの頃で、インストアライブならぬエントランスライブが行われたときには、女性の店員たちが大騒ぎしていた記憶がある。売り場から1人だけ応援に行くのだが、このときはおそらく希望者がひじょうに多かったはずである。その少し前に行われたハバナ・エキゾチカのときには誰もいなかったのか私が行かされたのだが、プロデューサーの小西康陽が上機嫌に見えたことを覚えている。

 

またさらにその翌年、WAVEは渋谷のパルコクアトロにも出店することになるのだが、その少し前から間借り店舗的なスペースやエントランスでセールを行うこともあった。私も何度か行っていたことがあり、渋谷の寒空の下でホイットニー・ヒューストンの「ボディガード」のサウンドトラックを何時間もぶっ通しで聴きながら、CDを売っていたことがある。

 

「音楽ナタリー」の「渋谷系を掘り下げる Vol.1」によると、HMV渋谷が邦楽売り場を拡張したのは、この1993年だったという。つまり、入口から入って右側の、私が「渋谷系」コーナーとして認識していた部分まで広がったということだとすると、それ以前には洋楽の売り場だったということだろうか。このあたりの記憶がはっきりしていない。

 

この年の秋から私が付き合いはじめた女子大生はコーネリアス、小沢健二、カヒミ・カリィ、ピチカート・ファイヴといった「渋谷系」と呼ばれるような音楽をよく聴いていたのだが、おそらくそういうトレンドでもあったのだと思う。岡山の高校を卒業して上京した彼女のCDラックには、「三宅裕司のいかすバンド天国」でグランドイカ天キングになって、デビュー・シングル「さよなら人類」が大ヒット、「NHK紅白歌合戦」にも出場した、たまのCDも揃っていた。また、六本木WAVEで知り合ったフリッパーズ・ギターファンの女性店員は、それ以前はJUN SKY WALKER(S)の寺岡呼人が好きだったと言っていた。

 

HMV渋谷の「渋谷系」コーナーとして私が認識していた売り場には、「渋谷系」に分類される日本人アーティストのCDやBARFOUT!などの雑誌、関連する洋楽アーティストのCDなどが並べられ、アーティストにメッセージを書ける場所などもあったような気がする。六本木WAVEはこの前の年の大きなリニューアルによって、洋楽と邦楽の売り場が別々の階に分かれてしまっていた。

 

HMV渋谷とは直接には関係がない余談のような話ばかりになってしまったが、とりあえずはそんな感じである。センター街から向かってHMV渋谷の少し手前にあった門という渋いバーのようなところはとても気になっていて、大人になったらこういうところにも行くのだろうなとも思っていたのだが、いまのところは行ったことがなく、ガールズバーで薄いジントニックを飲みながら、ハロプロの話で盛り上がっているというていたらくである(知らんがな)。

 

※WAVEのことをウェイヴとこれまではカタカナ表記してきたのだが、「音楽ナタリー」の記事やツイッターのリプライなどを読んでいて、英語表記の方がしっくりくるなということをなんとなく思ったので、これからはWAVEと書くことにしたが、気が変わったらまた変えるかもしれない。