小沢健二「So kakkoii 宇宙」について。 | …

i am so disapointed.

小沢健二がアルバム「So kakkoii 宇宙」をリリースした。前作「Ecology of Everyday Life 毎日の環境学」がインストゥルメンタル作品だったので、ボーカルが入ったアルバムとなると2002年の「Eclectic」以来、17年ぶりということになる。

 

あれはつい先週の土曜日のことだった。私の仕事場では通常、J-POPの最新ヒットや注目曲が流れる有線放送チャンネルがかかっているのだが、米津玄師やあいみょんやOfficial髭男dismなどにまじって、小沢健二の新曲としか思えない曲が流れたのである。あれはおそらく小沢健二の新曲なのだろう。特徴的なボーカルは間違いないが、記憶しているよりもやや低くなっているような気もする。なんだかとてもキャッチーな曲であり、1990年代の半ば、小沢健二が日本のエンターテインメント界のど真ん中にいて、「渋谷系の王子様」などと呼ばれていた頃を彷彿とさせるようなところもあった。その後、やはりこれも他のアーティストと間違えようのない桑田佳祐の新曲のようなものも流れ、やはりとても良いなと思ったのであった。

 

それはそうとして、その週の半ばにはピチカート・ファイヴが日本コロムビアに所属していた頃のベストアルバムがサブスクリプションサービスで解禁されたこともあり、それにまつわるいろいろなことを思い出していたりもした。また、ツイッターのタイムラインで話題になっていた「ミニコミ『英国音楽』とあのころの話 1986-1991」という本を注文したりもした。なんだか「渋谷系」の時代を思い出すことが多いモードのときに、小沢健二の新曲を聴いたというわけである。

 

その後、配信がすでにスタートしていることを知り、「彗星」というタイトルであることが分かったその曲をApple Musicのライブラリに追加し、イヤフォンで聴いてみた。「そして時は 2020」、つまり来年のことが歌われているのか。「全力疾走してきたよね」、そして、次には「1995年 冬は長くて心凍えそうだったよね」と歌われる。さて、なぜ1995年なのだろうか。

 

小沢健二は1994年8月31日にアルバム「LIFE」をリリースし、それがヒットした。翌年は「カローラⅡにのって」「強い気持ち・強い愛/それはちょっと」「ドアをノックするのは誰だ?」「戦場のボーイズ・ライフ」「さよならなんて云えないよ」「痛快ウキウキ通り」と、6枚のシングルをリリースした。渋谷ロフトの入口で、「戦場のボーイズ・ライフ」の大きな広告看板を見たような気がする。それから5年前、この建物の1階にあったウェイヴでフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」のCDを買い、大きな衝撃を受けた。その翌年の秋にフリッパーズ・ギターは突然に解散し、1993年に小沢健二はシングル「天気読み」で、ソロアーティストとしてデビューした。この曲は当時、私が深夜のアルバイトをしていたコンビニエンスストアでもよく流れていた。この店の客であった女子大生と後に付き合うことになるのだが、告白めいた電話をもらった夜、彼女は友人と小沢健二のライブに行ってきたと言っていた。

 

当時、私は日本のアーティストによる音楽をまったく聴かなくなっていたが、コーネリアス、小沢健二、カヒミ・カリィ、ピチカート・ファイヴなどは彼女が部屋でよくかけていたので、なんとなく耳にしていた。「LIFE」がリリースされた頃にはすでに別れていたので、このアルバムをリアルタイムで聴くことはなかった。この翌月に渋谷のクラブクアトロで行われたオアシスの初来日公演には、もうチケットを購入していたので一緒に行った。その頃、広告代理店で働いていて、先輩社員たちはとてもおもしろく、遊びにも連れていってくれたのだが、「ダウンタウンのごっつええ感じ」やスーパーファミコンソフトの競馬シミュレーションゲーム「ダービースタリオン」などの話を四六時中しているようなタイプだったので、「BEAT UK」以外にテレビはまったく観なく、ゲームや競馬には一切興味がない私と趣味の話で盛り上がることはほとんどなかった。休みの日にはなにをしているのかと聞かれて、渋谷の本屋やレコード屋を回っていると答えたところ、渋谷系かと言われた。当時、フジテレビで「今田耕司のシブヤ系うらりんご」という番組が放送されていて、スピッツ「ロビンソン」やシャ乱Q「ズルい女」などがエンディングテーマとして流れていたらしい。

 

仕事終わりには、カラオケにもよく連れていってもらった。カラオケボックスではなく、知らない客が大勢いる前で、ステージに上がって歌うタイプの店である。当時はまだ、このような店も多かった記憶がある。見ようによっては永瀬正敏に似ていなくもないが、全体的には植田まさしの4コマ漫画に登場するサラリーマンを彷彿とさせ、仕事の日誌として使っていた大学ノートの表紙に黒マジックで阪神タイガースのロゴと「猛虎襲来」という文字を書いていた先輩が、小沢健二の「ラブリー」をよく歌っていた。パチンコの玉を「LIFE」のCDと交換したということなのだが、「カローラⅡにのって」が入っていないじゃないかと文句を言っていた。「OH BABY」のところで、王貞治の一本足打法を真似て片足を上げるのをいつもやっていたのだが、ウケているところを一度も見たことがなかった。少しのあいだだけ仕事をしていた留学生が台湾に帰らなければならなくなったときの送別会では、「ぼくらが旅に出る理由」を歌いながら号泣していた。1995年における小沢健二のポピュラリティーというのは、このレベルにまで及んでいたのであった。

 

小沢健二はその後、いくつかのよりアーティスティックな作品を発表した後、外国に移住し、パブリックな場にまったく姿を現さない時期もあった。それからライブ活動の再開やメディアへの登場、新曲の発表などを経て、今回のアルバムリリースに至ったわけである。そのあいだに私生活では結婚と、二人の子供をもうけるということがあり、アルバムのジャケットや「彗星」のミュージックビデオに登場しているのは、長男の凛音くんである。アルバムジャケットに子供の写真を使おうというアイデアは、打ち合わせのためにレーベルの新社屋に行ったときに玄関に飾られていたニルヴァーナ「ネヴァーマインド」やU2「闘(WAR)」のジャケットを見たことから広がっていったのだという。

 

小沢健二が日本を離れたのが実際にはその少し後だったにもかかわらず、なぜ「彗星」で過去をあらわす地点が1995年なのかというと、それは小沢健二の音楽が日本のエンターテインメントのメインストリームとして、普通の人々の暮らしと最も密接な関係にあった年だからではないかという気もするし、そうではないのかもしれない。そして、「彗星」のポップでキャッチーで開かれた感じというのは、まさにあの年と地続きであるかのようなレベルで、その作品が普通の人々の生活に影響をあたえるようなタイプの表現を志向しているからかもしれない。

 

しかし、25年間である。小沢健二がこの曲で歌っているように、その後に生まれた少年や少女たちも作曲や録音をし、その音楽が自分の部屋に届くぐらいの年月が経った。われわれはとても大切ななにかを永遠に失ってしまったような気もすれば、当時では想像もつかなかったぐらいのレベルでの便利さを手に入れたような気もする。良くなったことも悪くなったこともあるが、根本的に過去最悪ではないかと思えるところにやや絶望しかけてもいる。それでも人生は続いていくので、それをできるだけ平気でやっていくためのエンターテインメントであったり、レクリエーションが必要とされているのかもしれない。いまここにある暮らしこそが宇宙であり、奇跡だと歌う「彗星」はとてもポジティヴなメッセージを含み、楽曲もファンクとシンフォニーとが交感したかのような、高揚感が感じられるものではあるが、それは深刻な現実認識がしっかりとされたうえでのことである。

 

つまり、「2000年代を嘘が覆い イメージの偽装が横行する みんな一緒に騙される 一緒に」ということなのだが、それでも「幻想はいつも崩れる 真実はだんだんと勝利する 時間ちょっとかかってもね」という確信をもって、超えていく。絶望的な状況であったとしても、悲観主義や冷笑主義を超えていく、かといって無責任な楽観主義ではない。

 

それは、アルバムの2曲目に収録され、2017年にシングルとしてリリースされた「流動体について」における、「神の手にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」にもつながっていく。この曲は小沢健二がまだアメリカに住んでいた頃に書かれ、リリースされた曲だが、飛行機で日本に帰ってきたときの感覚についても歌われていて、故郷に帰ったときの日常の社会的束縛から少しだけ解放され、純粋に個人として感じたり考えたりできる開放感のようなものを思い出させてもくれる。「ほの甘いカルピスの味」というフレーズにも、それに近いものを感じる。

 

ところで、私は小沢健二が新曲のリリースを再開して以降の作品をほとんどちゃんと聴いていなかったため、既発曲がわりと収録されているこのアルバムについても、すべてが新曲のような感じで聴くことができている。

 

次に収録された「フクロウの歌が聞こえる」は2017年のリリース時にSEKAI NO OWARIとのコラボレーションが話題になったが、このアルバムには小沢健二のソロバージョンが収録されている。子供の視点で書かれた絵本やファンタジー的な世界観であり、ロック的なカタルシスを感じながらも、われわれはその世界に誘われる。それは二項対立を超えた、より自由な価値観を持った世界を志向している。解釈のしようによっては、多様性を認めないファシズム的な権力に対するカウンターのようにも取れる。

 

まったくの新曲だという「失敗がいっぱい」は、さまざまな失敗について歌われるが、それはあって当然のものであり、「涙に滅ぼされちゃいけない」というメッセージがひじょうに力強く、いまの時代にはとても必要だと思える。加速する社会が寛容さを失い、人の失敗をやたらと責めたてる。それによって自己肯定感を持てない人が増えて、社会全体が暗くなり、活力を失うという悪循環である。テクノポップとしてもとても魅力的だが、とても重要でかつ大切なことについて歌われていて、状況によっては涙が止まらなかったり魂が救われる人も続出なのではないか、という気がしている。そして、「感じないを感じちゃうにする音楽にようこそ!」と、まさにこれはそのような音楽がぎっしりと詰まったアルバムなのである。

 

「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」は、岡崎京子のコミックを原作とした映画「リバース・エッジ」の主題歌として書き下ろされた曲で、2018年にシングルとしてリリースされている。映画のキャストであった二階堂ふみと吉澤亮が”Voice”というラップ的なパートでゲスト参加している。

 

このアルバムではじめて発表されたという「高い塔」は、CDの歌詞カードにおいてはタイトルが「高い塔とStardust」となっている。「東京の街に孤独を捧げている」高い塔について歌われたファンキーな楽曲であり、得もいわれぬ迫力を感じさせられる。時を経て変わるものと変わらないもの、この曲が一体なにを言わんとしているかのすべてを私は何度か繰り返し聴いた現在もはっきりとは理解できないのだが、古今東西のポップ・ミュージックをいろいろ聴いてきた経験の中でも、なんだかとんでもないものを聴いているのではないかという予感で、わりとざわざわしながらもかなり興奮しているという状態である。

 

「生きることはいつの月日も難しくて 複雑で 不可解で 君の中で消えた炎とか 僕が失くしてしまったものとか 全部 答えがないけど」

 

つまり、そういうことについて歌った曲である。

 

「シナモン(都市と家庭)」は、ハロウィンについて歌った曲のようでもあるが、「シナモンの香りで僕はヒーローに変身する」というフレーズには、家族という愛する者たちを護り抜くという意味も含まれているようにも思える。楽曲的にはミニマムなファンク感覚が岡村靖幸に通じるものも感じさせ、特に「変身する」のところの歌いまわしが個人的にはひじょうにツボである。

 

そして、アルバムの最後に収録されているのが「薫る(労働と学業)」である。アーチー・ベル&ザ・ドレルズやイエロー・マジック・オーケストラなどでお馴染みの「タイトゥン・アップ」を思わせなくもないベースのフレーズに続いて、ギター、ドラムスが入り、ちょうどいい感じのポップスになる。普通の人々の日々の生活は、労働や学業によって成り立っている。便利になっても幸福度が低いのは、それらの内実が空虚だからではないのか。加速する高度資本主義社会において、効率化が優先されるうえで、それは必然的に起こっている現実であり、社会学的な問題でもある。しかし、これをポップ・ミュージックに落とし込んでいる例を、私はあまり知らない。

 

それぞれが自分の仕事や学業をする時に、「偉大な宇宙が 薫る」と小沢健二は歌う。たとえば、「君が作業のコツ 教えてくる 僕の心は溶けてしまう」「おそれることもなき 好奇心を 図書館の机で見せつけてよ」といった、卓越した言葉のマジックで、小沢健二は他の誰にもできない方法で、それを表現する。これまで聴いてきた素晴らしいポップ・ミュージックの世界に、労働や学業にいそしむ普通の人々であるわれわれも招待される。そして、小沢健二は「君が僕の歌を口づさむ 僕はひそかに泣いちゃうんだよ」と、自分自身の仕事についても歌う。

 

「生み出していく 笑う目と目が 形のない 新しいもの」

 

そして、アルバムは終わる。私は朝からもう何度もこのアルバムを聴いているのだが、ラストの「薫る(労働と学業)」が終わってから、ふたたび1曲目の「彗星」を再生しても、これがまたじつにしっくり来る。

 

CDにはデジパックのパッケージを開くと、キラキラしたディスクと同じサイズの歌詞カードが何枚も入っている。サブスクリプションサービスでも聴くことができるが、手間という愛情が込もった素晴らしいパッケージである。

 

正直いって小沢健二の熱心なリスナーではまったくなかった私だが、いまこのアルバムに感動しまくっている。そして、仕事をして日々を生きる普通の人としての私の意識は、このアルバムを聴くことによって、確実に変わったような気がしている。われわれの平凡で退屈なように思えなくもない日常には、間違いなく意味や価値があり、それは意識することによって世界を変えていくものである、たとえこのような、一見、絶望的に見えなくもない世界においてもだ。小沢健二の「So kakkoii 宇宙」はそのような、政治的とか哲学的とか、そのような形容を超えた、まさに現在の日常を生きる要領が良かったり悪かったりするすべての人たちの意識に、個人差はあるがある程度の変革をもたらし、それが世界をより良くする可能性を秘めた、本当に重要なポップアルバムであるような気がしている。

 


 

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