1985年に大学受験で東京に来た時の記憶。 | …

i am so disapointed.

羽田空港と都心との間を移動する場合には、現在は京浜急行を利用する場合が多いのだが、1998年よりも以前には空港内まで乗り入れていなかったため、東京モノレールを利用していた。1980年8月に父と一緒に初めて東京に来た時にもそうしたので、同じように羽田空港の駅から東京モノレールに乗った。東京の大学を受験するために、同じ高校の友人2名と飛行機に乗って来たのだが、宿泊するホテルはそれぞれ異なっていた。受験をする前に旭川の緑ヶ丘にあった理容店で髪を切っていたのだが、その髪型が当時、ブレイクダンスを取り入れた「涙のtake a chance」をヒットさせていた風見慎吾に似ていると、一緒に行った友人のうちの1人が何度もしつこくいじってきた。彼は甲高い声で「完全いじけたっちゃぁー」と叫ぶ習慣があり、クラスの一部でその物まねが少し流行った。受験に失敗した後、西武線沿線の学生寮のようなところに入り、ケント・ギルバートがCMに出演していた志学塾という予備校に通っていたが、確か秋か冬ぐらいに潰れたはずである。「転ばぬ先の志学塾」というのがキャッチコピーだったと思うのだが、そもそも志学塾そのものが転んでしまうというまったく洒落にもならないことがあった。

 

浜松町で国鉄の山手線に乗り換えをした。民営化してJRになるのは1987年なので、この頃はまだ国鉄である。私は品川プリンスホテルに宿泊することになっていたので、友人と別れ、品川駅に1人で降りた。品川駅に改札が現在のように高い場所になり、東口と西口との間を行き来できるようになったのは1998年のことであり、当時はまだそうなっていなかった。品川プリンスホテルがあるのは西口だったので、そちら側に出た。すると、大学生ぐらいの男性に声をかけられ、それから話をする流れになった。途中からこれがいわゆるキャッチセールスというやつなのだと気づいたが、断る方法がまったく分からない。当時の旭川で生活している場合、街で声をかけてくる見知らぬ人といえば、自転車で移動している2人組のモルモン宣教師ぐらいしかいなかったため、情報としては知っていたものの、どこで話を終わらせて立ち去ればいいのかが分からない。それで、レジャー施設などの割引券が束になったものを5千円で買わされた。周囲を見渡すと同じような人たちが何人もいて、やはり垢抜けていなさそうな若者に声をかけていた。

 

ホテルにチェックインして部屋に着いたのだが、まずはこのことが悔しすぎて、もしかすると少しは使える割引券もあったのかもしれないが、1秒でも早く忘れたくて、部屋のゴミ箱に捨てたのだった。それからは声をかけられたら話をまったく聞かずに立ち去るようにしたので、被害に遭うことはもうなかった。緑色と黒のボーダーのセーターを着ていたことはなぜか覚えていて、食事はホテルの中のレストランでとることが多かった。ホテル内にかなりちゃんとした書店もあり、村上春樹が翻訳したスコット・フィッツジェラルドの短編小説集「マイ・ロスト・シティー」などを買って読んでいたような記憶がある。

 

東京に来るのは、1983年11月の修学旅行以来であった。修学旅行そのものは京都、奈良がメインであり、東京には帰りに少し寄り、少しの自由時間があった程度である。しかし、生徒の多くはもの東京での自由時間を最も楽しみにしていたと思われる。私は「宝島」で記事を読んで知っていたオープンしたばかりのレコード店、六本木ウェイヴに行って、カルチャー・クラブやダリル・ホール&ジョン・オーツなど、別に旭川のミュージックショップ国原や玉光堂でも買えるレコードを買い、残りの時間は渋谷の公園通りを適当に歩いたりして過ごした。以来、六本木ウェイヴは私にとって憧れの店になっていたのだが、この時にも何度も行った。

 

品川から六本木まで行くには山手線で恵比寿まで行き、そこから営団地下鉄日比谷線に乗り換える。品川から恵比寿までの間には大崎、五反田、目黒があるのだが、電車から窓の外を見ていると、おでき薬局という看板をいくつも見かけたことが、なぜか強く印象に残っている。

 

六本木ウェイヴではやはり無難でミーハーなレコードしか買わなかったのだが、当麻町に住んでいた友人からよく分からないマニアックなダンス・ミュージックの12インチ・シングルをたくさん頼まれていて、店員にリストを渡して探してもらったりしていた。すぐ近くに青山ブックセンターというカッコいい書店があることも判明し、春からはじまるであろう東京での生活に対する期待が高まった。通信販売で買っていた「よい子の歌謡曲」が、書店に置かれているのをはじめて見た。この号には私の投稿も掲載されていたのだが、旭川の高校生が書いた文章が載った雑誌が六本木で売られていることに静かな感動を覚えた。地下鉄を下りて、地上に続く階段を上がっていくと高速道路が見えて、それだけでテンションが上がったものである。

 

日曜日、受験の無い日に午前中から六本木ウェイヴに行くと、まだ客はひじょうに少なく、1階ではフィル・コリンズの「ワン・モア・ナイト」が流れていた。日曜日の夕方には家から持ってきた小さなラジカセでNHK-FMの「リクエストコーナー」を聴いたのだが、この番組は全米や全英のヒット・チャートにランクインした曲をノーカットで流してくれるので便利だった。デヴィッド・ボウイ&パット・メセニー「ディス・イズ・ノット・アメリカ」、デイヴィッド・リー・ロス「カリフォルニア・ガールズ」などがかかっていた記憶がある。

 

テレビではTVKことテレビ神奈川で「billboard TOP 40」というタイトル通りのカウントダウン番組があり、衝撃を受けた。音楽番組がひじょうに多い印象を受けたのふだが、「ミュージックトマトJAPAN」という番組だけは時々、北海道のテレビ局でも土曜日の午後などというよく分からない時間に放送されていることがあった。月曜日の夜には「ファンキートマト」という番組が放送されていて、基本的には音楽番組なのだが、よく分からないタレントのような人が明石家さんまが「オレたちひょうきん族」でやっていたキャラクターの扮装をし、ギャグもそのままパクっていたのが自由ですごいなと思った。夜遅くに流れていた「フニクリ・フニクラ」の替え歌を使った住宅展示場のCMも、強く印象に残っている。

 

北海道には当時、民放のテレビ局が4局しかなく、テレビ東京で制作された番組はまったく放送されないか、よく分からない日時に放送されていた。あのねのねが司会をして、人気アイドル歌手がよく出演していた「ヤンヤン歌うスタジオ」もよく分からない日時に放送されていた番組の1つだったのだが、テレビ東京では日曜日の19時から放送されていた。新曲を出せばオリコンの15位以内にはまだランクインしていたThe Good-Byeの野村義男が、やっと本格的に売れかけていたとんねるずの石橋貴明を煽る設定のコントを東京のホテルの部屋で観た記憶がある。石橋貴明が当時、よくやっていた「イッシバッシだっぜ!」というのに対し、野村義男が「本当に石橋?あの人、もっと勢いあるよ」などと言って、ヒートアップさせるというやつである。

 

とんねるずは「お笑いスター誕生」でアゴ&キンゾーとデッドヒートを繰り広げていた印象があり、番組でもひじょうに人気があったのだが、その後、あまり広がらず、名前を聞かなくなったような印象があったのだが、1984年にフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」に出演してブレイクしかけている、という情報を「オリコンウィークリー」あたりで読んで、なんとなく知っていた。しかし、北海道では「オールナイトフジ」が放送されていなかったので、その情報も私の中では実体を伴わないものだったのである。しかし、このコントでの絡みを見て、少なくとも東京ではとんねるずの認知はわりと広まっているのだと実感した。

 

土曜日の深夜にはフジテレビ系の「オールナイトフジ」が女子大生ブームを生んだとかで話題になっていて、出演する女子大学生であるオールナイターズから選抜されたユニット、おかわりシスターズがレコードを出したりもしていた。これも東京だけの集計ならば、オリコン週間シングルランキングの10位以内にランクインしている、という噂もあった。これを受けて、他の民放局でも土曜日の深夜番組に力を入れ、日本テレビでは所ジョージが司会の「TV海賊チャンネル」、テレビ朝日ではSF作家の亀和田武が司会の「ミッドナイトin六本木」という、いずれもお色気を売りにした番組を放送していた。TBSはより硬派な路線で「ハロー!ミッドナイト」という番組を、松山千春の司会で放送していた。テレビ東京も「夜はエキサイティング」という鈴木ヒロミツが司会の番組を放送していたようなのだが、これについてはまったく記憶がない。

 

このうち「TV海賊チャンネル」と「ハロー!ミッドナイト」は北海道でも放送されていて、特に「TV海賊チャンネル」は女性タレントがヌードになる「ティッシュタイム」のコーナーがかなり話題になってもいた。「オールナイトフジ」は当時、戸板女子短期大学に在籍してもいた松本伊代がレギュラー出演していて、それだけでもかなり観たかったのだが、オールナイターズのメンバーがアダルトビデオを照れながら紹介したり、拙い司会ぶりを楽しむようなタイプの番組であった。そして、とんねるずにはかなりの勢いを感じた。また、「ミッドナイトin六本木」もやはり、ドクター荒井の性感マッサージなどという、アダルトなコーナーを売りにしていた。アダルトビデオ紹介のコーナーでは、当時、全国的にはほぼ無名だった大川興業が、「海綿体充血」などと言いながら評価を下していた。また、「ミッドナイトマジ」なるコーナーでは、かつてテレビドラマでの熱血キャラクターで一世を風靡した森田健作が説教をしたりして、お色気路線とのバランスを取っているようであった。

 

テレビ朝日では平日もまた、深夜放送に力を入れていて、月曜日は朝の情報番組のパロディーである「グッドモーニング」、火曜日はとんねるずが主演する青春群像ドラマ「トライアングル・ブルー」、水曜日はコントユニット、怪物ランドによる「ウソップランド」、木曜はちゃんと観た記憶がないのだが、モデルの村上里佳子などが出演していたという「チャームミントタイム」、金曜日には現在も続いている「タモリ倶楽部」が放送されていた。特に衝撃を受けたのは「グッドモーニング」で、深夜にもかかわらず朝の時間帯のように時刻が画面に表示され、小川菜摘、深野晴美、南麻衣子によるオナッターズの「恋はバッキン」をはじめとする楽曲にはかなりの中毒性があり、水島裕子の「てん・ぱい・ぽん・ちん体操」(歌は三ツ矢雄二)には度肝を抜かれた。

 

現在、品川プリンスホテルには数多くの棟数があり、水族館やライブハウス、映画館なども併設されている。私もモーニング娘。やNegiccoのライブイベントを、ここで観た。当時の品川プリンスホテルは現在でいうところのイーストタワーにあたり、品川駅の高輪口から横断歩道を渡ってすぐである。現在では主に修学旅行客を対象としたシングルルームのみになっているが、ロビーに出ると当時を思い出させてくれる雰囲気がなんとなくまだ残っている。

 

この時、神谷町にあった虎ノ門パストラルというホテルにも泊まっていた期間があったのだが、ここは2009年9月30日で営業を終了したという。神谷町は六本木まで営団地下鉄日比谷線で1駅だったので、六本木ウェイヴや青山ブックセンターに行くのにも便利だった。大学はいくつか受験したので、この時は東京に何日か滞在したはずなのだが、六本木にばかり行っていて、渋谷新宿などに行った記憶はまったくない。

 

この年の2月9日に雑誌の「POPEYE」193号が発売されていて、特集は「ボクたちの東京ナンバーワンものがたり」である。この号は滞在中に東京のどこかの書店で買い、「ビックリハウス」「宝島」「ぴあ」などと一緒にホテルの机の引き出しに入れていたはずである。すべていつかのタイミングで捨ててしまったのだが、先日、「POPEYE」のこの号を古雑誌として再入手することができた。

 

「POP・EYE」というコラムのページではジャガイモを使って発電するデジタル時計がトップで紹介されているが、特に当時、大流行したというわけではなかったと思う。「5年後はどんな女の子になってるの?」と、小学5年生の後藤久美子が取り上げられている。車の広告がやたらと多いことにも気づかされる。ポール・ウェラー率いるカウンシル・コレクティヴの炭鉱スト支援シングル「ソウル・ディープ」が紹介されているが、これは大橋荘で一人暮らしをはじめてから池袋パルコのオンステージヤマノで12インチ・シングルを買った。「ボクたちの東京TOP10」では、ファッション部門において、原宿のビームスが1位に選ばれている。ディナーでは西麻布のクイーン・アリスが1位だが、写真でワイングラスをかかげているのは、若き日の泉麻人ではないか。音楽のページではアズテック・カメラの「ナイフ」が取り上げられているのだが、デビュー・アルバム「ハイ・ランド、ハード・レイン」の邦題が「君に捧げる青春の風景」であったことをはじめて知った。あのアルバムは高校2年の頃に当麻町に住んでいた友人から輸入盤のレコードを借りて、以来、「ハイ・ランド、ハード・レイン」というタイトルでしか認識していなかった。

 

土曜の夜に品川プリンスホテルの外に出ると、ウィング高輪というショッピングセンターの入口にあるマクドナルドに若者たちが行列をつくっていた。大きなスクリーンがあり、なにか洋楽のミュージックビデオ、というか当時はプロモーションビデオ呼ばれていたものが映されていたような気がするのだが、記憶が定かではない。週末の都会の自由な気分で溢れているように感じた。佐野元春の「悲しきRADIO」聴いていて、頭の中に描いていたイメージを思い出した。